諏訪哲史○昏色の都/『文学界』2023年5月号 特集12人の″幻想″短篇競作③
美術誌『みずゑ』の裏表紙には、毎回、内外幻想リアリスムというタイトルで、青木画廊の広告がでていた。それは展覧会の情報であったが、むしろ秘やかな未来への誘惑の扉でもあった。扉は少しも開いているわけではなく、隙間から向こうを覗くことすら禁忌のように思われた。
薄暗い細い青木画廊への階段を登るのを自らに許されたのは、ひょんな機会があってのことで、時を逃さず控え目ながらこの機会逃してなるものかと…通うようになった。通うと云ってもさっと見て帰るようなことで、坐らせてもらって青木外司さんや、綺羅星の作家たち、四谷シモン、金子国義と話をするのは、またそこからだいぶたってのことだ。
内外幻想リアリスムと、矜持をもって云う青木画廊の幻想絵画は、澁澤龍彦や坂崎乙郎の「幻想美術」とは趣がちがって、幻想でありながらリアリスムをうたうには訳があった。ボクはそこで絵画というものが、何であるかということをある時、朧でありながら認知することになる。
青木画廊を起点に、朝日新聞社主催の「ウィーン幻想派」の展覧会があり、その展覧会を見て、芸大受験を棄てウィーンに渡った若い人たちがいた。彼らはウィーン幻想派のフッター、ハウズナー、フックスの工房に入り技法を身につけて、青木画廊に戻ってきていたのが、川口起美雄、高橋常政だった。
二人とセミナーを行い、そこで混合技法、そして幻想画の系譜を実地に習うことになり、その歴史を遡るとファン・アイクに辿り着くことになる。ファン・アイクは、ベルギー・ゲント(今はヘントと記述されるらしい…)の祭壇画を筆頭に20枚程が現存しているので、全部を見るのにさほど苦労はしない。リアリスムでありながら幻想というのが、ボクの身につけた[幻想]であって、今でも漠とした朦朧とした靄のような、煙に巻いたような表現で、見るもの読むものをなんとなくそんな気分にさせるものをボクは幻想とは思わない。
ウィーンやベルギーの都市を背景にした絵画を今もって幻想絵画の嚆矢としているが、極極少数派になってしまっていることは良く知っている。日本では絶滅種になってしまっていて、澁澤龍彦、雑誌「幻想文学」、国書刊行会の幻想擬が、席巻している。雰囲気とロリコンとサブカルの好きな国であるから致し方ない。
さて何でこのような、時代錯誤のことを云い出したかと云うと、文学界「12人の幻想短篇競作」にソリッドな筆致の作品を幾つか見いだしたからだ。作家たちは、こちらのカテゴリーに引かれることに、迷惑顔かもしれないが、少し嬉しくなったので筆を滑らせてしまったということで、許されたい。何人かいる作家たちの中で、諏訪哲史の『昏色の都』は、その嚆矢であって、ベルギー、ブリュージュが舞台になっている。舞台と云うよりは、『死都ブリュージュ』(ローデンバック)の中に新たに描かれた作品と言える。
——ワタシは死都に入り込み、死都はワタシの中に滲み込んでくる。あらゆる都市は一つの精神状態であり、その都市に滞在すると、すぐにその精神状態はワタシに伝播する。都市の空気は色をもつ粉末となり膠か卵の媒材をもって幾種類かの絵の具状のものになる。鮮やかな濁りをもたない色合いは、混合技法のレイヤーとして重なると初めて朦朧の色味を見いだす。都市の空気もまた物質のリアリスムをもって、朦朧態となるのである。その都市、たとえばゲント、たとえばウィーンを離れて、日本に辿り着くと、その幻想は霧散してしまうのである。幻想は都市とともにある。
——そうして日本に帰ってきた彼は、また都市と類似する肉体とレイヤーを持ちたいと思い、其の都市に足を踏み入れるのだ。
この物語はそうしてはじまっているように見える。
『死都ブリュージュ』は、相互浸透する空気として引かれている。他にいくつもの小説と、もしかしたら絵画が〈わたし〉と交換する装置として置かれている。〈わたし〉の身体に入り込む小説。〈わたし〉の失われていく視力の向こうにある風景(…それは小説や絵画の)と移植された角膜自体がもつ風景とが混淆されて、形成された諏訪哲史の『昏色の都』という幻想小説。物語の架空が、諏訪の移植角膜という設定で、リアリティをもつ。持った上でそれは幻影であり、幻想なのだ。——という小説。
ワタシは久しぶりの自分の幻想の系譜に近しいものを享受した。なにやら分からぬ嬉しさがある。
幻想小説を読む楽しみは、視点の移動にどうついていくかにもある。『昏色の都』には、視点の移動というよりも、視覚そのものが小説になっている。このような視点/視覚のあり様は、発見とも発明とも云えるような、幻想の新たな手法でもある。諏訪哲史もしかしたら愛書狂ではないかと想像する。この手法は読み手からの逆説的な一手であるようにも思える。
そんなところで、ワタシは『癩王のテラス』(三島由紀夫)を思い起こすのだ。
肉体と精神が強靭なまま、視覚が失われていき、そしていつのまにか肉体も滅びを意識するようになったとき——そのとき、黄金の観音の見え様は…アンコールトムのテラスから…ここにも都市の背景がある。
切腹フェチの三島由紀夫が、首飛ばされる最期に見たものは——。決して長官室の床ではあるまいとは思うが…都市の幻影もリアリズムも薄い東京で三島は[像]を見て死ねたのだろうか。
諏訪の小説は、新たな方法論をもった幻想小説であり、また小説の中を自在に泳ぐ、視覚の能力を教えてもくれる。