塹壕戦を考える/何から読むか?/○『散るぞ悲しき』梯久美子/新潮文庫
ウクライナ、セベロドネツクのアゾト化学工場にもマリウポリの製鉄所のアゾフスターリにも、地下要塞というか地下壕があって、それは地下深く迷路のようになっていたとある。ソレダルの地下塩山も地下塹壕として機能したようだ。
工場にはもともと塹壕が戦争を予期して作られていたのか?それとも急遽作られたものなのか?疑問はあるが、ロシア文学にも出てくる地下室、地下工場と、どこかで繋がっているところはあるのか。
ところで、今、ウクライナ/ロシア戦争の激戦地(2023/02/10現在)となっているのは、バフムトでの戦闘で、そこでは激しい塹壕戦になっていて、その様相は第1次世界大戦に似ていると現地の兵士が云っている。互いに塹壕を掘って陣地をつくり、そこを歩兵が守る。そこを砲弾で攻撃しあう。夜になるとロシア軍の夜襲もあると。
第一次世界大戦…日本なら硫黄島…と、TVで高橋杉雄が指摘していた。すぐに梯久美子『散るぞ悲しき』を読み出した。(サガレン繋がりで…)
○『散るぞ悲しき』梯久美子/新潮文庫
硫黄島の最後を指揮した総司令官・栗林忠通の電文が、一部改竄されていることに端を発した、梯久美子の遺族取材からはじまった、栗原中通のドキュメント。梯は、栗林の気持ちを想像しながらぐいぐいと栗林忠通像を更新していく。それが解説の柳田邦男の絶賛にもなり、大宅荘一ノンフィクション賞にもつながったのであろう。
栗林の電文と歌を改竄したのは軍なのか。忖度した新聞社ということはないのか。軍の気運はどうだったのか。戦局ぎりぎりまできていて現場では敗戦を覚悟していたのに、国民の[戦意]を気にする余裕があったのか?このコントロールは効果があったのか?
現地で栗林忠通に塹壕作りをレクシャーした兵士がいたと書かれているが、塹壕の技術に原点はあるのか?軍隊は塹壕用のマニュアルをもっていたのか?塹壕戦は栗林の英断によって軍の反対を押し切って行われたとあるが、塹壕戦は、当時の日本軍にどう位置づけられていたのか?
米軍に与える心理的な効果も読んで、塹壕消耗戦を計画したとあるが、結果としてそうなったのではないのか。もし意識しての作戦なら栗林忠通が地政学的戦略を身につけていたということになるが、それはどこから学んで、どのくらい軍隊の中で有効性をもっていたのか?
ウクライナの戦争は、他人事ではなく、近い将来、ウクライナの前線で行っているように、古い戦術を有効に使いながら、防衛をする可能性も実際にある。『散るぞ悲しき』(梯久美子)を足がかりに、今、机の上でできることをもう少し掘り下げていきたいと思う。