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3/27

3/27に書いて放置していたものを1ヶ月後の今日放つ。ダラダラと書き足したり直したりして、タイミングを失っていただけ。だからここでの今日は3/27で、明日は3/28のこと。
1ヶ月前の今日、君は何をしていましたか。


久しぶりに自転車にまたがり隣駅のコメダ珈琲へ。自転車、楽しい。「走ってるぜ!」って感じが強くてとても良い。いつもはnoteをスマホで書いているけれど、今回は気が向いたのでパソコンで書いてみる、が、長いネイルでタイピングをするのはなかなかに難しい。でも可愛いから許す。
今まで書いてきたレポート等の影響で、予測変換が歴史に関連する用語ばかりになっていることに少しイラッとする。隣の席には女子大学生3人組。席へと案内されるとその3つの視線が私の体に刺さった。

「9月からは何を楽しみに生きていけばいいの~」
それまではどんな楽しみがあるのだろう。

「家の周りに純喫茶しかなくてさあ、そういう所ばっかり行ってると甘いもの、飲めなくなるんだよね」
カフェオレを頼んでいた。可愛い。


明日、三重県に行こうと計画まで立てていたのに天気があまり良くない。食べ歩きをしてフェリーで島へ行って、知らない土地の空気を浴びるには、雨は一番の不都合だったので、この時間(20:47)まで迷った末に断念した。恋人が「何かを断念することってとてもエネルギーを使うよね」と言っていた。その通りだった。


大学を卒業した。
4年間と言ってもコロナの影響もあり、ギュッっとしたら2年間くらいな感覚。

とにかく家を出たかった。
両親がほとんど会話をしないことも、母が毎晩外出をしていたこともヒステリックになることも、父が人の話を聞かないことも酒を飲むと手を上げられていたことも、わたしにとってはそれが家庭であり普通だった。高校生頃になるとこれらが急激に悪化をしたこともあって心身を壊したけれど、特段不幸せだと思ったことはなかった。ただ、それらに耐えられるかどうかは別の問題で、今後もいつどう変化するか分からないこの環境に居続けることはできないと思った。だから家を出た。それなのに想定とは反して、入学式もオリエンテーションも対面での授業も全て無くなった。新規でバイトを雇ってくれるところも無く、実家に戻らざるを得なくなった。いつ急降下するか分からない不安感のもと、1日1日をやり過ごす日々が延長されてしまった。


多くの人はインターネット上で同じ大学の人を探して、時間割の組み方や講義内容、サークルのことなど情報を共有し合い「何も分からない」を凌いでいった。
あの時、先輩から聞いたという情報や、同学科の人とランチに行った報告などを顔写真付きで呟いていたフォロワーの多いアカウントたちはもうどれも動いていない。アカウントの持ち主はどんな学生生活を送ったのだろう。

初めてキャンパスへ行く一大イベントとなった健康診断や対面授業が解禁された初回の授業では、それぞれインターネットで交流を持った人たちが、最寄駅やスクールバス乗り場付近、キャンパス内で待ち合わせ、「あっ、○○さん、、?」「そうです、!」「わ!会えてよかった〜!」と会話を交わしていた。マッチングアプリみたいだなと思った。
事実、私も例外なくその1人であったけれど、そうして初めて会った人とはゼミも同じになり、気が付けば大学内で1番長く一緒の時間を過ごした。予想外だった。
この友人とは初めて会った日に、初めて行ったキャンパスで迷子になった。

その後も同じ手法で何人かと会うことになったが、今でも交流が続いているのは前述した友人ともう1人だけ。この友人はゼミも違い、だんだんと会わなくなったにも関わらず、ずっと関係が続いた。
彼女のサークルの発表会にも行った。後輩の引退公演を観た時と似た感情になり涙を堪えたことを覚えている。何故その感情が出てきたのかは分からない。


とにかく家を出れるところ、且つ教員免許が取れるところならどこでも良かった。知名度もランクなるものも、どうでも良かった。だから、周りが自分たちが今通っているこの大学のことを「低ランク」「人に言うのが恥ずかしい」などと言っていることに、何ひとつとして共感ができなかった。私にはその感覚が分からなかった。
インターネットで調べてみても、そこまで卑下することはないのではと思ったからこそ、そこでひとつ、周りに対して厚い壁を作ってしまったのかもしれない。
関わっても感覚が違うし、どうせあと2年。別にどう思われても構わない。と勝手に距離を取っていった。
これで大学を卒業する時、特に思い出がなくてもそれはコロナの影響が大きかったから。
想定以上の感情や関係を得られなかった時の言い訳として、常に「コロナだから」を用意していた気がする。


自分の感情のコントロールが効かなくなり、過呼吸になったり、やり場のない感情を物にぶつけたりするようになった。目が覚めても体が動かず、食欲も湧かず、横になったまま時間だけが過ぎていくことが続いて、カウンセリングや心療内科にかかるようになった。服薬も始めた。
今もカウンセリングや薬は必要で、ただ生きるだけなのに余計なお金がかかっている。意味が分からない。

物理的に親や家庭から距離を取っても、生活の端々に現れるそれらの影を強く感じるようになり、どこに行っても、どこまで行っても逃れられなかった。
大学で家族の話になっても、自分の経験してきたものと周りが話すものは全く違って、上手く返事も相槌もできず虚しくなった。
スーパーで子どもが泣き叫んだ時、泣いても誰もいない、何か伝えたくても怒られたくないから我慢していた記憶が蘇り苦しくなって、カゴに入れていた商品を全て戻し、足早でスーパーを出たこともあった。
私を好いてきた人は、その多くが所謂クズだった。思い通りにならないとその怒りを様々な形でぶつけてきたり、自分は好き勝手に浮気もするけれど私の行動は制限したり。
それでも「私を好きな人が好き」と言っていたように、また苦しい道になることに勘付きながらも、「類は友を呼ぶから」と自分を納得させるようなことを言い聞かせ、一時でも愛情を向けてくれる人へ寄っていった。
医師は「幼少期の愛情不足が根本にある」と言っていた。
そんなん、もうどうしようもないだろ。


3月まで進路は決まらなかった。
周りに合わせてなんとなく就活を始めてみたけれど、企業の説明を聞くことも、期限までにESや履歴書を書こうとしても体が動かなかったことも、「就活大変〜」「やめたい」なんて言いつつもその状況にどこか誇りを感じているような他人の姿も、そう感じてしまっている自分も、全て嫌になって投げ出した。
ただ現実から目を逸らしただけ。
だから就活を経験した人、乗り越えた人を本当にすごいと思っている。


フィルムカメラを買った。
キャンパスの風景や、友人たちの何気ない姿をたくさん撮った。私たちは確かにここにいたということ、その証を残したくてたくさん撮った。この文章を書いているのもそのひとつなのだと思う。
いつか、私の撮った写真を見て学生時代のことを少しでも思い出してもらえたらとても嬉しい。実際に口で伝えておけば良かったのだけれど、特にタイミングもなかったのでここに書いておく。


「4年間と言ってもコロナの影響もあり、ギュッっとしたら2年間くらいな感覚」
でも、その中でも、大きな存在になっていった人たちや、卒業をしてからも何も変わらずに会おうとしてくれる人たちがいて、入学当初に予想していたよりもこの4年間は悪くなったんだと思えている。
「周りはみんな比較的幼稚な考えだ」なんて思っていたこともあったけれど、それは、こうして勝手に壁を作ることで攻撃をされても最小限のダメージで抑えようとしていたから。私の方が余程幼稚だった。

眠そうにしている横顔、「アンタの文章好き」と言われたこと、初めて笑顔を見せてくれた時のこと、なんでもないことで笑い出してしまった瞬間、キャンパス内の桜が風に舞い散った光景、教室の窓から射す光、名前を呼んでくれた友人たちの声。
どれも私の中に濃く残ってしまっている。せっかくなら薄れないよう、無くさないよう、丁寧にしまっておこうと思う。


「社会人になったら時間が無くなる、行きたいところへ気軽に行けなくなる」
その言葉に怯えて「まだ学生である今のうちに、、」と焦っていたけれど、案外そんなことは無さそう。
髪型も服装も既に好き勝手にしているし、積極的におサボりタイムを設けてもいる。
この緩い環境が変わっても、時間が無いを理由にやりたいことに蓋をしていきたくはない、そうしないようにしていきたい。
気が向いたら関東から出て東海や関西にでも移ろうか。色々な経験をしておもしろい大人になりたいな。(4/22 加筆)


時速36kmの「ハロー」
ギターの余韻が消え3月のプレイリストが終わると、イヤホン越しに店内の音が耳に入ってきた。隣の女子大生3人組はまだ盛り上がっていて、同人誌の制作をしようとしている黒髪ロングヘアーの彼女に、隣に座っている黒髪ハーフアップの彼女が「お前なら何でもできるよ」と言っていた。2人の向かいに座る茶髪ボブの彼女は黙々とシロノワールを食べていた。

「お前なら何でもできるよ」
私に向けられたわけではない言葉を勝手に受け取る。

何でもできる

そうか、

うん、

そうだよな。



追記
あらまあ、最後まで読んじゃって。
ありがとう。とても嬉しいです。

こちらは変わらず、心身共に不健康ですが生きています。
そちらはどうですか。


そう、それはそれは。
まあ、無理せずやってください。

それでは、また。

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