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号泣する準備はできていた


江國香織の小説に、「号泣する準備はできていた」というタイトルの本がある。
 「号泣する準備はできていた」って、こういうことか、と、思った。

 *

 一度好きになったひとと別れ話をする。もうまたお付き合いしたいわけでもないし、好きでい続けられるわけではない。

 このひとの言葉を信頼したいと思ったから、このひとをもっと好きになりたいなと選択した。けれど、言葉と行動が噛み合わないように思うことばかりで、わたしはほとんどずっと、さみしかったし、悲しかった。信頼しようと思った気持ちを傷つけられた気がした。 

わたしの気持ちは伝えるし、あなたの気持ちも聞きたいけど、おだやかに話をするって決めている。責めたり、怒ったりはしないんだ。わたしのこと、もったいなかったな、大切にすればよかったなって、後悔してほしい。 

 *

 話をする前は、そうやって、思っていた。

 相手の記憶には、きれいなわたしを一生残してやりたくて、おだやかに話をすることが、たったひとつ、できることだった。

わたしが好きなわたしで話せるように、冷えた身体をあたためようと、お風呂に入った。オレンジ色の入浴剤を入れた。
もう終わっているつもりだったのに、今からなにかを失うことが決まっているような気持ちだった。
 お風呂から上がって、化粧水と乳液を塗って、丁寧に髪を乾かした。こたつをつけて、上着を着た。ポットでお湯を沸かした。マグカップに入れた。
 悲しさと静けさが同居していた。
 号泣はしないつもりだったけど、号泣する準備は、できていた。

 二カ月ぶりくらいに声を聞いた。記憶から抜け落ちていない声だった。
 責めたい気持ちを精一杯落ち着けて、話しをしなければならないと思っていたのに、責めたい気持ちより、ああ、このひとのことが、わたしは好きだったんだな、と思った。とてもとても短い間だったけど、きちんと。 

何度も傷ついたし、大切にされていなかったと思うし、仕方なかったんじゃなくて、こうしてくれたらよかったのに、はいくつもいくつも出てきて止まらない。けれど、好きだったことも、愛おしかったことも、まだ消えることなく、残ってしまっていた。

きれいな記憶だけを残しておこう。楽しかった記憶だけを残して、悲しかったことは全部、ばいばいしよう。

 号泣するなんて全然思っていなかったのに、ずっとわたしは泣いていた。 

 「元気でね」と言った。
相手も、「元気でね」と言った。
 「ばいばい」と言った。
 相手も、「ばいばい」と言った。 

 ほとんど同時に、通話を切ったと思う。

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