号泣する準備はできていた
江國香織の小説に、「号泣する準備はできていた」というタイトルの本がある。
「号泣する準備はできていた」って、こういうことか、と、思った。
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一度好きになったひとと別れ話をする。もうまたお付き合いしたいわけでもないし、好きでい続けられるわけではない。
このひとの言葉を信頼したいと思ったから、このひとをもっと好きになりたいなと選択した。けれど、言葉と行動が噛み合わないように思うことばかりで、わたしはほとんどずっと、さみしかったし、悲しかった。信頼しようと思った気持ちを傷つけられた気がした。
わたしの気持ちは伝えるし、あなたの気持ちも聞きたいけど、おだやかに話をするって決めている。責めたり、怒ったりはしないんだ。わたしのこと、もったいなかったな、大切にすればよかったなって、後悔してほしい。
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話をする前は、そうやって、思っていた。
相手の記憶には、きれいなわたしを一生残してやりたくて、おだやかに話をすることが、たったひとつ、できることだった。
わたしが好きなわたしで話せるように、冷えた身体をあたためようと、お風呂に入った。オレンジ色の入浴剤を入れた。
もう終わっているつもりだったのに、今からなにかを失うことが決まっているような気持ちだった。
お風呂から上がって、化粧水と乳液を塗って、丁寧に髪を乾かした。こたつをつけて、上着を着た。ポットでお湯を沸かした。マグカップに入れた。
悲しさと静けさが同居していた。
号泣はしないつもりだったけど、号泣する準備は、できていた。
二カ月ぶりくらいに声を聞いた。記憶から抜け落ちていない声だった。
責めたい気持ちを精一杯落ち着けて、話しをしなければならないと思っていたのに、責めたい気持ちより、ああ、このひとのことが、わたしは好きだったんだな、と思った。とてもとても短い間だったけど、きちんと。
何度も傷ついたし、大切にされていなかったと思うし、仕方なかったんじゃなくて、こうしてくれたらよかったのに、はいくつもいくつも出てきて止まらない。けれど、好きだったことも、愛おしかったことも、まだ消えることなく、残ってしまっていた。
きれいな記憶だけを残しておこう。楽しかった記憶だけを残して、悲しかったことは全部、ばいばいしよう。
号泣するなんて全然思っていなかったのに、ずっとわたしは泣いていた。
「元気でね」と言った。
相手も、「元気でね」と言った。
「ばいばい」と言った。
相手も、「ばいばい」と言った。
ほとんど同時に、通話を切ったと思う。
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