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縁結びの日

まえがき

お見合いの日から縁結びの日ということらしい。

前の記事では、お見合いから、月下老人の赤い糸の話をしている。
今日は月下老人の話を復習してみる。

月下老人

月下老人は、東アジアにおける縁結びの神様として広く崇拝されている存在である。白い髭を持ち、赤い光を放つ優しい面持ちの老人の姿で描かれ、左手には姻縁簿、右手には杖を持つとされる。その役割は、男女の足を赤い糸で結び、運命の伴侶として結びつける神聖な仲介者である。
毎年旧暦7月7日に七星娘娘から未婚の男女の名簿を受け取り、それぞれの性格や相性を見極めて配偶者を決めるという。この物語は、人々の出会いが単なる偶然ではなく、より深い意味を持つ縁であることを象徴的に表現している。

縁とは

仏教では、縁という概念は因果の法則と密接に結びついている。すべての事象には「因」(原因)があり、そこに「縁」(条件)が働くことで結果が生じる。これが「因縁」である。たとえば、花が咲くためには種(因)だけでなく、適切な土壌や水、温度といった様々な条件(縁)が必要なように、人と人との出会いも同様の原理で成り立っている。

月下老人の赤い糸による結びつきは、この複雑な因果関係を視覚的に分かりやすく表現したものと解釈できる。目に見えない縁を、赤い糸という具体的なシンボルで表現することで、人々は縁結びという概念をより直感的に理解できるようになった。

ものには必ず理由がある。偶然だけではなんか落ち着かない
運命の人だというお墨付きがほしいのである。そこで赤い糸なのである
そしてそれを操るのが月下老人というわけである。

月下老人の歴史は、唐朝時代の深い歴史の中に遡る。最古の記録は唐代の文学者・李復言による『続玄怪録・定婚店』に見られ、そこには運命的な出会いを司る神の姿が鮮やかに描かれている。

この伝説は、韋固という若き孤児の物語から始まる。ある夜、宋城の旅館で月光に照らされた一人の老人と遭遇した韋固は、その老人が赤い絹糸で男女の縁を結ぶ神であることを知る。老人の持つ姻縁簿には、男女の名が記され、それぞれの運命が記されていたという。韋固は自身の結婚相手について尋ねるが、老人は「三年後、市場の野菜売りの娘と結ばれる」と告げる。この予言に不満を覚えた韋固は、後日その娘を見かけた際に刺客を放って殺そうとするも失敗。その後、高官の娘と結婚することになるが、その娘こそが以前傷つけた野菜売りの娘であった。かくして月下老人の予言は成就したのである。

宋代に入ると、この物語の舞台となった場所は「定婚店」として知られるようになり、縁結びを願う者たちの聖地となった。道教の神格として広く信仰を集めるようになり、特に台湾においては最も正統な「愛神」として崇敬を集めている。

月下老人は、白髯をたくわえ、顔は赤い光を放つ慈愛に満ちた老人の姿で表される。左手には運命の書である姻縁簿を、右手には杖を持ち、毎年旧暦七月七日には七星娘娘より未婚の男女の名簿を受け取り、その年の縁組みを定めるとされる。

現代に至るまで、月下老人は台湾を中心に数多くの寺廟に祀られ、良縁を求める人々の篤い信仰を集めている。その信仰は時代を超えて、現代の男女の心をも捉えて離さない。古より伝わる韋固の物語は、人の縁とは己の思惑を超えた深い意味を持つことを説き、運命の不思議さを今に伝えている。

人々は月下老人に祈りを捧げる際、しばしば赤い糸を奉納する。これは月下老人が男女の足首を赤い糸で結ぶという故事に基づくものであり、この習わしは今なお広く行われている。また、夜半の月明かりの下で祈願すれば御利益があるとされ、特に満月の夜には多くの参拝者が訪れるという。このように、月下老人信仰は古来の伝説と現代の願いが見事に調和した姿を見せている。

結びとは

旧暦の7月7日という日付が台湾らしいが、実は縁結びの結びというのは
日本でも根底に流れる思想である。
というのは何度もnoteしたが、ここでは簡単に振り返ると
山とのつながりである。山と結ぶのだ。山とは世界モデルの神がいるところであり、そこからエネルギーをもらう。むすび 産すびでありエネルギーが宿ることである。だから息子であり娘だ。だから おにぎりもおむすびと呼ぶと必ず山の形をしていないといけないし、それはエネルギーの象徴になってなにかが宿る。結ぶとはとても大切な概念だ。だから契約も結ぶのである。

正岡子規の句

松の葉の葉毎に結ぶ白露の置きてはこぼれこぼれては置く

この歌は、日本の和歌が持つ深遠な表現力を遺憾なく示した傑作である。

この歌において「結ぶ」という言葉は、自然現象と人の心を結びつける重要な媒介として機能している。松葉の一つ一つに宿る露を細やかに観察する視点は、つながりと別れの循環という普遍的な真理を見事に表現している。露が松葉に結ばれては落ち、また新たに結ばれるという自然の営みは、人と人との関係性の在り方をも象徴的に示している。

「結ぶ」という語には、複層的な意味が込められている。物理的な結びつきを示す基本的な意味に加え、人と人との縁や関係性を表す精神的な結びつき、さらには新たな命が宿るという生命的な結びつきをも表現する。和歌における「結ぶ」は、露が結ぶといった自然現象の描写から、人間関係の比喩、生命や縁の象徴に至るまで、多様な表現技法として用いられてきた。

この歌は、日本の伝統的な和歌表現の粋を極めながら、自然と人、人と人との関係性を深く洞察した作品として、今なお読む者の心に深い感銘を与え続けている。子規の繊細な観察眼は、露と松葉という日常的な景物を通じて、人生の機微を見事に詠み上げたのである。

正岡子規

正岡子規の文学革命は、明治期の短詩型文学に根源的な変革をもたらした画期的な運動であった。その本質は、伝統的な文学観を徹底的に問い直し、新たな表現の地平を切り開いたことにある。

写生の重視は子規の革新において最も重要な特徴である。ありのままを描写する姿勢、客観的な観察眼による表現、感情や理屈よりも実景を重んじる態度は、当時の文壇に衝撃を与えた。この写生主義的態度は、後の日本文学における客観描写の基礎となった。

短歌革新においては、伝統への大胆な挑戦を行った。『古今集』や紀貫之を否定し、『万葉集』を高く評価するという当時としては革命的な見解を示した。「貫之は下手な歌よみにて、古今集はくだらぬ集に有之候」という発言は、文学界に激震を走らせた。また、源実朝を高く評価し、新たな評価基準を打ち立てた。

根岸短歌会の設立は、これらの理念を実践する場として機能した。伊藤左千夫や長塚節といった優れた後継者を育成し、後の「アララギ」派の礎を築いた。この流れは現代短歌にまで及ぶ大きな影響力を持つこととなる。

俳句革新においても、子規は従来の価値観を根本から覆した。芭蕉崇拝に異を唱え、与謝蕪村を再評価したことは、俳句史における重要な転換点となった。『獺祭書屋俳話』における理論的展開は、写実主義的な俳句観を確立し、高浜虚子をはじめとする新たな俳人たちを生み出した。

子規の革命は、短詩型文学における客観的描写の確立、伝統的価値観の再評価、新しい文学評価基準の創出、そして近代文学における写生文の確立という多面的な影響を及ぼした。それは単なる形式の改革を超え、日本文学の本質的な変革をもたらした歴史的な出来事として、今日なお高く評価されている。

この革新運動は、明治という時代における文学の近代化の象徴として、また日本の伝統文学が新たな生命を獲得する契機として、文学史上に大きな足跡を残したのである。

ということで、万葉集をみてみよう

ふたりして 結びし紐を ひとりして 我れは解きみじ 直に逢ふまでは

この歌は、読人知らずだが、二人で結んだ紐を再会するまで決して解かないという誓いを詠んでいる。
こういう結ぶの意味 慶弔の水引であったり、贈答の包装における結びに象徴されて今でも伝わる 結びの概念である。
すべて幸いの永遠を心を込めて贈るものなのである。

あとがき

結びの概念についてだが、
実はお見合い結婚も恋愛結婚も離婚率は変わらない。
このあたり、山本周五郎にでも語ってもらいたいものである。


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