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聖ニコラウスの日

まえがき

今週は実は、自分にとってクリスマス前哨戦といったところだ。
クリスマスとはなにか、いまだにサンタクロースを信じる私が考えていることを少しだけ披露しよう


贈与論(序)

中沢新一は、贈与を交換、贈与、純粋贈与の三つの形態に分類し、これをラカンの魂の構造の三つの領域と結びつけて説明している。純粋贈与とは、返礼を求めない無償の贈与であり、人間の存在の根源にある理想的な形態とされるが、現実の社会では純粋な形では存在が難しいとされる。

一方で、贈与には提供、受容、返礼という3つの義務が含まれ、人間は利益供与を期待する存在であるため、完全な純粋贈与は困難だと中沢は指摘する。また、贈与を受けた側は贈与した側に対して負い目の感情を抱くとも述べている。

中沢の贈与論の特徴として、ラカンの精神分析理論を基礎に据えていること、経済的交換だけでは説明できない人間の営みを解明しようとしていること、グローバル資本主義を超えた新しい社会形態の展望を示そうとしていることが挙げられる。この理論構築は壮大な試みではあるが、ラカンの理論を基礎に据える必要性については議論の余地があるとの指摘もある。

現代思想家としての私見を述べると、中沢の贈与論は人間社会の根源的な営みを捉えようとする野心的な試みであり、経済的交換の限界を指摘し、より豊かな人間関係の可能性を探ろうとしている点で意義深いと言える。ただし、ラカンの理論を基礎とすることの是非については慎重な検討が必要だろう。

また、純粋贈与の概念は理想的ではあるものの、現実社会における実現可能性については疑問が残る。贈与の社会的側面に着目した考察は示唆に富むが、人間の利己性をどこまで克服できるのかという点で課題もある。

とはいえ、中沢の贈与論は現代社会の問題を根源的に問い直し、新たな社会像を模索する思想的営為として高く評価できる。グローバル資本主義の行き詰まりが指摘される中、贈与という視角から人間の絆を再考する中沢の試みは、現代思想の重要な一角を占めていると言えるだろう。

小僧の神様

『小僧の神様』は、贈与の三形態を見事に描き出した作品として分析できる。

交換経済の世界

最初の場面

  • 小僧の仙吉は4銭しか持っておらず、6銭の鮨が買えない

  • これは市場での等価交換の限界を示している

  • 貨幣による交換だけでは人間の欲望は満たされないことが描かれている

一般贈与の表現

議員Aの行動

  • Aは仙吉に鮨を奢るという贈与を行う

  • しかしAは「変に淋しい」気持ちになる

  • これは贈与者が返礼を期待する心理を表している

純粋贈与への昇華

物語の結末

  • 仙吉はAを「神様」として崇拝するようになる

  • この精神的な返礼は、贈与者が期待していなかった形での応答だ

  • 純粋贈与は、予期せぬ形で人々をつなぐ可能性を持っている

贈与論的意義

この作品は以下の点で重要だ:

  • 交換経済の限界を示している

  • 贈与が持つ社会的な結びつきの力を描いている  

  • 純粋贈与の可能性と難しさを表現している

このように『小僧の神様』は、贈与論の本質的なテーマを文学的に昇華した作品として読むことができる。中沢新一の贈与論の枠組みを用いることで、この短編のもつ深い意味合いが明らかになる。

市場経済の限界と人間の心の機微を鋭く捉えた描写は秀逸だ。鮨を買えない仙吉の姿は、貨幣を介した交換だけでは充足されない人間の欲望の象徴と言える。

そこに議員Aによる贈与が導入されるが、Aの心の揺らぎは贈与に付きまとう返礼への期待を如実に表している。贈与は一方的な施しではなく、互酬性を孕んだ社会的な行為なのだ。

しかし物語は、仙吉のAへの純粋な崇拝によって、一般的な贈与の枠を超えていく。少年の純真な感謝の念は、議員の打算を超えた次元の応答と言えよう。ここに純粋贈与の理想が垣間見える。

『小僧の神様』は、贈与をめぐる人間の営みの機微を見事に描き出した秀作だ。中沢の贈与論を手がかりに読み解くことで、作品に込められた深い思想が浮かび上がってくる。

ラカンの三界

ラカンの提唱する想像界、象徴界、現実界という3つの世界は、人間の心的な働きを理解する上で重要な概念となっている。想像界とは、頭の中でイメージできる世界のことだ。例えば、リンゴを思い浮かべると、「赤くて丸い」というイメージが浮かぶ。これは赤ちゃんが母親を思い浮かべるような、感情やイメージの世界と言える。一方、象徴界は言葉や意味の世界を指す。リンゴを「果物である」「甘い」と言葉で説明する時、それは象徴界での表現になる。学校での規則や、社会のルールなども象徴界に含まれる。そして現実界は、言葉やイメージでは表現できない世界だ。例えば大きな事故を目撃した時、その衝撃は言葉では十分に表現できない。現実界は実際にそこにあるモノそのものの世界なのである。

これらの概念を具体例で理解すると、学校生活では、友達との楽しい思い出のイメージが想像界、テストの点数や校則、授業での説明が象徴界、言葉では説明しきれない学校生活での体験が現実界に当てはまる。また、好きな人がいる時は、その人の笑顔を思い浮かべるのが想像界、「好きです」という告白の言葉が象徴界、実際に会った時の言葉にできない気持ちが現実界と言えるだろう。このように、私たちの生活は常にこの3つの世界が重なり合って成り立っているのだ。

ラカンは人間の精神発達を、赤ちゃんから大人になるまでの過程として説明している。まず赤ちゃんの時期は、現実界と呼ばれる言葉もイメージもない、感覚だけの世界に生きている。お母さんのおっぱいをもらうなど、欲求が直接満たされる状態だ。この時期は、まだ「自分」という意識もない。次に幼児期は、想像界と呼ばれる段階に入る。お母さんがいなくなると、その姿を思い浮かべるようになり、鏡に映った自分の姿を見て「これが私」と認識し始める。イメージや空想の世界が広がっていくのだ。そして成長期になると、象徴界と呼ばれる言葉の世界に参入していく。言葉を使って自分の気持ちを伝えられるようになり、社会のルールや約束事を理解し始める。また、お父さんの存在(法や規則)を意識するようにもなる。

ラカンは、この3つの世界は常に重なり合っていると考えた。大人になっても、現実界(言葉で表現できない体験)は存在し続け、言葉(象徴界)だけでは説明できない感情や欲求が常にあるのだ。このように、ラカンは人間の精神を3つの層が重なり合った複雑な構造として捉えたのである。

ラカンの理論は人間の心の発達を捉える上で非常に示唆に富んでいる。赤ちゃんの時期の現実界は、言語以前の生の感覚の世界を表しており、人間が根源的に抱える欲求の次元を示唆している。そして想像界は、自我の形成と密接に関わっている。鏡像段階における自己認識は、主体性の起源として重要な意味を持つ。

さらに象徴界は、言語を介して社会的な意味の体系に参入していく過程を表している。父親の存在は、法や規則の象徴として機能し、子どもを文化的な秩序の中に組み込んでいく。ラカンはこれを去勢と呼んだが、これは主体が欲望を規制され、社会的な主体として形成されていく過程を意味している。

ただし、ラカンが強調するのは、この3つの世界は決して明確に分離されるものではなく、常に重なり合っているという点だ。たとえ言語を獲得した大人でも、言葉では捉えきれない現実界の次元は存在し続ける。むしろ言葉は、そうした現実界を隠蔽する機能を持つとも言える。

また、想像界と象徴界の結びつきも重要だ。言語化される以前の感情やイメージは、言葉を得ることで初めて意味づけられるが、同時に言葉では汲み尽くせない部分も残される。芸術的な創造などは、まさにこの言語化されない想像界の次元に根ざしているとも言えるだろう。

ラカンと贈与論

中沢新一は、ラカンの提唱する象徴界、想像界、現実界という3つの領域と、贈与の形態を対応させて理論化している。商品交換(等価交換)を象徴界に、一般的な贈与交換(互酬交換)を想像界に、そして純粋贈与を現実界に結びつけているのだ。

象徴界は、価値の等価性や計算可能性を重視する経済的交換の領域だ。ここでは商品の価値が貨幣によって抽象化され、交換が合理的に行われる。一方、想像界は贈与と返礼の義務が生まれる社会的な交換の領域であり、そこでは互酬性が重視される。そして現実界は、返礼を求めない無償の贈与の領域とされる。

この対応関係は、一見すると明快で示唆に富んでいる。ラカンの理論を援用することで、贈与という人類学的な概念を、より精神分析的な観点から捉え直そうとする中沢の試みは評価できる。象徴界と商品交換、想像界と互酬的贈与の結びつきは、理論的な整合性があると言えよう。

しかし、純粋贈与を現実界と重ねることには、慎重な検討が必要だろう。確かに現実界は言語化を拒む領域として、無償性や非対称性を特徴とする純粋贈与と親和性がある。だが、現実界の概念自体が極めて難解であり、純粋贈与との結びつきを単純に想定することは難しい。むしろ純粋贈与の超越性や非日常性は、象徴界や想像界の秩序を突き崩す契機として捉えるべきかもしれない。

また、交換と贈与の区分自体が問題になる。現実には、交換と贈与は連続的な関係にあり、明確な一線を引くことは難しいとされる。贈与にも互酬性の契機があり、交換にも社会的な意味づけが働く。両者を截然と分けることは、理論的な抽象化の結果とも言えるのだ。

とはいえ、中沢の贈与論は、経済的交換だけでは捉えきれない人間の社会的な営みを解明しようとする野心的な試みとして高く評価できる。ラカン理論を援用することで、贈与の心的な基盤を探ろうとする姿勢は独創的だ。象徴界と交換、想像界と互酬性の結びつきは、示唆に富む洞察をもたらしている。

純粋贈与と現実界の対応については、慎重な議論が必要だが、それ自体が中沢理論の魅力とも言える。現実界の捉えがたさは、まさに純粋贈与の逆説性と呼応しているのかもしれない。純粋贈与が秩序を揺るがす契機であるなら、その非対称性は現実界の亀裂を示唆しているとも考えられる。

いずれにせよ、中沢の贈与論は、ラカンの精神分析と人類学的な贈与概念を架橋する野心的な理論構築として高く評価できよう。交換と贈与の絡み合いを精緻に解きほぐそうとする中沢の思索は、現代社会の様々な局面に新たな光を投げかけてくれるはずだ。経済的合理性だけでは測れない、人と人の紐帯の深層に分け入る中沢の思想は、我々の社会的な想像力を大いに刺激してくれるだろう。

あとがき

ニコラウスはサンタクロースの原型だ。
サンタクロースこそ贈与論の権化である。
その力は現代のグローバル経済を真っ向からぶった斬るインパクトをもたないだろうか・・・
人間がグローバル経済によって失ってしまったものをニコラウスは届けてくれたのである。次回は贈与論の問題と経済と人間の問題を書いてみたい。

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