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Peaceの日

まえがき

この日はファイヤアーベントの誕生日であることから
結構ラディカルに書いている。
自分の記事の

もちろん、ファイヤアーベントの考え方、すなわち、個々の”科学者”が己の信念にしたがってそれぞれ主張していいんだ(つまり、なんでもありだ)という論理にまったく同調することは、私にはできない。むしろ、普遍的な方法を志向した方法の改良を常に挑戦し続けるのも科学の役目だと想っている。
しかしながら、こうした議論でなおも残り続けるのが、デザインとか感性といったことであることを逆に強調しよう。
科学でさえも、心地よいデザインという感覚が交じる性質があるのだ

ピースの日(拙note より)

という部分についてである。この自分の言説をさらに押し進めたいのであるが、今回のnoteでは、そもそもファイヤアーベントがどんなことを言っているのか、本日は復習してみよう。

ファイヤアーベント

ポール・カール・ファイヤアーベントは、20世紀を代表する科学哲学者の一人として知られている。1924年1月13日にウィーンで生まれ、1994年2月11日に70歳でその生涯を閉じた。

学問的経歴においては、ウィーン大学やロンドン大学で研鑽を積み、その後カリフォルニア大学バークレー校において30年の長きにわたり哲学教授として教鞭を執った。彼の代表的著作には『方法への挑戦』(1975年)、『自由人のための知』(1978年)、『理性よ、さらば』(1987年)が挙げられる。

科学哲学への貢献として特筆すべきは、科学に対するアナーキスティックな視座と普遍的な方法論への否定的態度である。彼は科学の進歩における方法論的多元主義を主張し、「何でもあり」(Anything Goes)という考え方を提唱した。また、科学と迷信の境界を曖昧なものと捉え、科学の特権的地位に疑問を投げかけた。さらに、科学の発展には自由で創造的なアプローチが不可欠であると強く主張した。

ファイヤアーベントの思想は、科学哲学のみならず科学社会学にも多大な影響を及ぼした。彼は「好戦的哲学者」「知のアナキスト」といった評価を受けることもあったが、これらのレッテルは必ずしも適切ではないとの見方も存在する。彼の思想は、科学の絶対性や理性主義への挑戦として受け止められ、多くの議論を喚起した。その主張は、科学の方法論や科学と社会の関係について再考を促す重要な契機となったのである。

方法への挑戦とAnythingGoes

「方法への挑戦」におけるファイヤアーベントの議論は、科学哲学と科学的方法論に対する深遠な批判を展開している。その核心は、科学における方法論的独断主義への根源的な異議申し立てにある。

特に興味深いのは、ファイヤアーベントが単一の普遍的な科学的方法の存在を否定し、「何でもあり」(Anything Goes)という革新的な立場を打ち出した点である。これは単なる方法論的な放縦を主張するものではなく、むしろ科学の発展における創造性と自由の本質的な重要性を説いたものと解釈できる。実際、科学史を紐解けば、既存の方法論的枠組みを超えた大胆な発想が画期的な発見をもたらした例は枚挙にいとまがない。

ファイヤアーベントは特に「合理主義」への批判に力点を置いている。科学的実践を導く合理的規則の存在という前提に対して、そうした規則の強制が却って科学の発展を阻害する可能性を指摘する。この洞察は、トーマス・クーンのパラダイム論とも呼応しながら、科学革命の本質的な非連続性を浮き彫りにしている。

さらに注目すべきは、科学の特権的地位への批判的視座である。ファイヤアーベントは、科学が一種の宗教的権威として機能してしまう危険性を鋭く指摘する。この警告は、現代社会においてますます重要性を増していると言えよう。科学的知見が絶対的真理として独断的に扱われる風潮への警鐘として読み解くことができる。

ポパーの反証主義に対する批判も示唆に富んでいる。反証された理論を維持することが科学の進歩に必要な場合があるという指摘は、科学的実践の実態をより正確に捉えたものと評価できる。実際、量子力学の発展過程などは、この洞察の妥当性を裏付ける好例といえるだろう。

観察の理論負荷性という問題提起も重要である。これは科学的観察の客観性という前提に根本的な疑義を投げかけるものだ。この視点は、現代の科学哲学における重要なテーマの一つとなっており、科学的知識の構築過程をより深く理解する上で欠かせない視座を提供している。

ファイヤアーベントは、実際の科学の営みが一般に想定されているよりも遥かに「ぞんざい」で「非合理的」であると主張する。これは、科学の理想化された像と実際の科学的実践との乖離を指摘するものだ。この認識は、科学教育のあり方にも重要な示唆を与えている。

例えばガリレオの事例研究は、実際の科学の活動が、哲学者の描くような整然とした思考の構成ではないことを明らかにしたのである。
なんでも特権をもつとおかしくなる。ガリレオはあらゆる権力から自由な立場だったと主張する。
それが、アナーキーに見えるのか・・・そもそもアナーキーはそんなに悪いことなのか、無政府主義であっても、既存の体制を壊すだけの思想ではないはずだ。
既存の体制が人々を権力でしばることから自由であれと叫んでいるだけである。この議論はここまでにするとして、

Anything Goesという思想は、しばしば誤解を招きやすい表現ではあるが、その本質は極めて重要な哲学的洞察を含んでいる。この概念は、単なる方法論的な無秩序や既存の科学体制への反抗を意味するものではなく、むしろ科学的探究の本質的な豊かさを取り戻そうとする試みとして理解すべきである。

ファイヤアーベントの思想の核心には、科学的方法論への過度の固執によって失われる可能性のある知識や視点を救い出そうとする深い洞察が存在する。特に注目すべきは、彼が提唱する方法論的多元主義の考え方である。これは単一の科学的方法に縛られることなく、多様なアプローチを許容することで、より創造的な科学の実践を可能にしようとするものだ。実際、科学史を振り返れば、既存の方法論的枠組みを超えた大胆な発想が画期的な発見をもたらした例は数多く存在する。例えば、アインシュタインの思考実験や、量子力学の初期の発展過程などは、従来の方法論的枠組みでは捉えきれない創造的な飛躍を含んでいた。

科学の相対化という観点も、ファイヤアーベントの思想において重要な位置を占めている。これは科学を絶対的な知識体系として崇拝することを戒め、伝統的知識や芸術的認識との対話を促進しようとするものである。この視点は、現代社会において特に重要性を増している。というのも、科学技術の発展が加速する中で、人間の経験や知恵の多様性が軽視される傾向にあるからだ。ファイヤアーベントは、科学的知識と他の知識形態との建設的な対話の可能性を示唆している。

自由の増大への志向も、彼の思想の重要な特徴である。各個人が自らの判断で生き方を選択できる「自由な社会」の実現を目指すという理念は、現代社会における科学技術の在り方を考える上で示唆に富んでいる。特に、科学技術が社会に及ぼす影響力が増大する中で、この視点はますます重要性を増している。科学的合理性の名の下に個人の自由が制限される危険性に対する警鐘として読み解くことができる。

批判的思考の促進という側面も見逃せない。ファイヤアーベントは、既存の理論や方法論に対しても批判的に考察する自由を重視した。これは単なる否定のための批判ではなく、より豊かな科学的探究を可能にするための建設的な批判精神の涵養を意味している。この姿勢は、現代の科学教育においても重要な示唆を与えている。

結局のところ、ファイヤアーベントの目指したものは、科学の硬直化を防ぎ、より豊かで多様な知の探求を可能にすることであった。彼の思想は、科学と社会のより良い関係を模索する建設的な試みとして評価されるべきである。それは、科学的思考に縛られて見落とされがちな視点や知識を取り戻し、より自由で創造的な知の探求を目指す壮大な哲学的プログラムとして理解することができる。

ちょっと考えすぎだろうか
簡単にしよう
科学が絶対的な真理のように振る舞うのことを否定したのだ。
そうなると、科学以外を認めなくなってしまう。そして、科学のいうことを無条件に信じてしまう。つまり、科学が宗教のようになってしまう。
学校で科学的な考え方だけ教えるのも危険だとファイヤアーベントはいう。
それは、科学以外の知識の軽視につながり、結局は息苦しさを感じてしまうが、これをまさに不自由だとして、自由を叫んだのである。

あとがき

具体性に欠ける議論を続けてしまったnoteになってしまった。
次回は彼の唱えた各論に迫るとともに、自由とデザインや芸術とどういった考え方をしていけばよいのか方法論について考えていきたい


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