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119番の日

まえがき

119番とは、怪我や病気、また火事のときにかける緊急番号である。
地域では、火の用心を呼びかける声が聞こえてくる時期となった。

上記のnoteでは、ツルゲーネフの誕生日ということで
この初恋で知られる作家についてのみ書いているが 記事の課題に
ナロードニキとツルゲーネフとあるので、そちらを書いてみたい。
ツルゲーネフの「処女地」という作品ではナロードニキが出てくるのだ。

ナロードニキとは

運動の思想的背景と展開

1870年代のロシアにおいて、都市の知識人層(インテリゲンツィア)を中心として展開された革命運動は、「人民の中へ(ヴ・ナロード)」という崇高な理想を掲げて開始された。この運動の根底には、西欧的な近代化の過程で生じた知識人と民衆との乖離を克服せんとする深い思索があった。

農村における啓蒙活動

知識人たちは、自らの専門性を活かし、教師、医師、看護師として農村に入り込んだ。無料診療所や学校を開設し、農民の生活向上に尽力した。さらに、農場や工場を設立し、自らも労働に従事することで、農民との連帯を模索した。彼らの活動は、単なる思想の伝播に留まらず、実践的な生活改善運動としての性格を強く持っていた。

組織的展開

「土地と自由」という政治結社の結成は、運動の組織化における重要な転換点となった。この組織は、ロシアの伝統的な農村共同体であるミールを基盤とした、独自の社会主義社会の構築を企図した。それは、西欧的な発展モデルとは異なる、ロシア固有の道を模索する試みであった。

農民との齟齬

しかしながら、知識人たちの理想は、現実の農村社会との深刻な齟齬を露呈することとなった。保守的な価値観を持つ農民たちは、都市からやってきた知識人たちの革新的な思想を理解することができず、多くの場合、彼らを警察に密告するという事態を招いた。1874年の大規模な農村進出は「狂った夏」と呼ばれ、運動の限界を如実に示すこととなった。

思想的分岐

運動の挫折は、参加者たちを深い思想的模索へと導いた。その結果、運動は二つの潮流へと分岐することとなった。一つは、体制への直接的な抵抗を志向する「人民の意志」派であり、もう一つは、農村共同体における漸進的な変革を目指す「土地総割替」派である。この分岐は、以後のロシア革命運動の展開に大きな影響を与えることとなった。

実はこういった話は現在でもよく聞く話である。
日本でも農家の後継者不足に悩んでいることと
都会での競争生活に疑問を感じた若者がマッチングした。
若者が農業生活に憧れと不安を感じてその地方にいくと、
なぜか排斥するような動きがある。肥料が買い占められていて購入できないとか、悪質なのは、機器が何者かに壊されるといった犯罪まで起きたという。農業自体の不安は解消されても、こうした人間関係で入ったヒビは往々にして解消されない。地方行政側も地元住民たちの機嫌を損ねるわけにもいかず、どっちつかずの対応になってしまう。

ツルゲーネフの「処女地」では、そんなナロードニキの苦悩が描かれている。。主人公のネジダーノフは、理想に燃える革命家として農村に入るが、
保守的な農民たちとの間に深い溝があることを痛感する。農民たちは革命思想を受け入れず、むしろ警戒心を持って革命家たちを見つめる・

農民に寄り添って書かれたものもある。
それはローゼッカーの「最後の人ヤーコブ」だ。

最後の人ヤーコブ

ペーター・ローゼッガー著『最後の人ヤーコプ』は、十九世紀後半のオーストリア農村を舞台に、近代化の波に翻弄される農民たちの運命を描いた悲劇的叙事詩である。

本作は第一部十五章、第二部十七章からなる二部構成を採り、主人公ヤーコプの視点を通して物語が展開される。その眼差しが捉えるのは、貨幣経済の侵食に抗えぬまま、先祖伝来の土地と家屋を手放していく村人たちの姿である。

故郷を離れた農民たちの末路は惨憺たるものであった。工場での過酷な労働に身を削る者、使用人として人としての尊厳さえ失う者、表面的な成功の陰で破滅への道を辿る者など、離郷した者たちの運命は暗澹たる結末を迎える。

物語後半では、主人公ヤーコプの個人的悲劇が前面に現れる。妻との死別、娘夫婦の失踪という不幸が重なり、彼の魂は深い孤独の淵へと沈んでいく。

ローゼッガーは本作を通じ、大地主や狩猟利権者への痛烈な批判を展開すると同時に、消滅の危機に瀕する農民階級の存在を強く訴えかける。伝統的な農村社会の解体への抵抗を示しながら、地域社会に根付いた習慣や信仰が崩壊していく過程を写実的に描き出した本作は、近代化がもたらす社会の質的変容を鋭く告発する警世の書として、現代にもなお深い示唆を与え続けている。

処女地と最後の人ヤーコブ

十九世紀後半のヨーロッパにおける農村共同体の崩壊は、複合的な要因によって引き起こされた。ローゼッガーの作品は、この過程を鮮明に描き出している。

近代化の波は、まず貨幣経済の浸透という形で農村社会に押し寄せた。工業化の進展は伝統的な共同体を根底から揺るがし、地域固有の習慣や信仰を解体していった。この変容は、とりわけ土地所有の形態に顕著な変化をもたらした。大地主や狩猟利権者による土地の集積が進み、先祖代々の土地を手放す農民が続出した。さらに、伝統的な土地共有システムは崩壊の一途を辿った。

労働形態の変化も著しく、多くの農民が工場労働者へと転身を余儀なくされた。過酷な労働条件下での事故が頻発し、農村から都市への人口流出が加速した。この現象は、単なる物質的な変化にとどまらず、共同体意識の喪失や地域固有の文化・方言の衰退、ひいては農村社会の価値観そのものの変容をもたらした。

『処女地』と『最後の人ヤーコプ』は、いずれも農村社会の変容を描きながら、その本質において対照的な視座を示している。前者は革命運動家の眼差しを通じ、農村を社会変革の舞台として捉える。そこでは、革命思想を理解しない保守的な農民像が浮き彫りにされ、都市インテリゲンツィアとの価値観の相克が強調される。

一方、『最後の人ヤーコプ』は農民の視点から農村の崩壊を描出する。作品は伝統的な農村共同体の価値を擁護し、工業化による社会解体を痛烈に批判する。貨幣経済の侵食による共同体崩壊の過程、先祖伝来の土地を喪失する農民たちの苦悩、工場労働者と化した元農民の悲惨な境遇が克明に描かれる。

両作品の本質的な差異は、その問題意識に如実に表れている。『処女地』が社会変革の可能性と限界を模索するのに対し、『最後の人ヤーコプ』は伝統的農村社会の価値保全に主眼を置く。すなわち、前者が農村を変革の対象として捉えるのに対し、後者はそこに守るべき価値の源泉を見出すのである。

一枚岩でない革命派

解体される農村はそれなりの苦労がある。先祖が守ってきた土地を手放してしまう精神的労苦がある。守るものがあると変革を敵とみなしてしまう心理も働く。
さらに、革命運動側も一枚岩ではなくなる状況がある。革命思想を啓蒙していく途中でだんだんと変容してしまうのは仕方ないことであるし、そもそも革命思想自体が歴史がないのであるから、メンバー同士の理解のズレも生じ内ゲバのようなことが勃発する状況がある。それをみて保守派はやはり敵としてよかったという心理があり、革新派はそこを突かれても本質と違うんだよと憤りを激しくしてますます乖離が進んでしまう。

革命側が一枚岩でない状況をちょっとまとめておこう。
これは、まさに今迎えている変化の時代において大事なことだからだ。

革命運動と対話

革命運動における不透明性の問題は、歴史的に様々な形で現れてきた。組織的には秘密結社としての性質上、活動内容が非公開であり、指導者と一般メンバー間の情報格差が存在している。また、理論と実践の乖離、革命の目的や手段についての解釈の多様性、参加者間での vision の不一致など、イデオロギー的な不透明性も指摘されている。

近年のアラブの春の事例からは、明確な思想的指導者の不在、経済的再分配についての具体的なビジョンの欠如、市場原理を前提とした限定的な要求といった新しい特徴が見られた。これらの問題点は、革命後の具体的プランの欠如、参加者間での目標の不一致、社会像についての合意形成の困難さに繋がっている。

また、ナロードニキ運動の事例からは、農民との意思疎通の失敗、理論と現実の乖離、運動の方向性についての混乱といった不透明性の具体例が確認できる。これらの不透明性が、革命運動の分裂や失敗の原因となることが多い。

こうした革命運動の不透明性に対し、成功への道筋としては、「経済力の向上」ではなく「自らの手で望む未来を掴むこと」という成功の定義の見直しが重要である。そのためには、「運が良い」と考える積極的な心理的アプローチや、成功者の振る舞いを実践するといった行動的アプローチが有効だと考えられる。

さらに、すべての成功法則を鵜呑みにせず自分に合ったものを選び、仕事と私生活のバランスを重視しつつ、完璧を求めすぎないといった、バランスの取れた視点を持つことが肝心である。成功とは単一の目標達成ではなく、継続的な成長プロセスとして捉えるべきだろう。

アラブの春

2010年から2011年初頭にかけて中東・北アフリカ地域で発生した大規模な民主化運動がおきた。これらを民主側の言い方でアラブの春という。
要求内容は、独裁政権の打倒。民主政治の確立、汚職の撲滅、経済的機会創出である。
しかし、蓋をあけてみれば、この変革をした国の多くは冬に逆戻りした。
シリアは内戦が泥沼化し50万にも及ぶ死者を出して550万人以上が難民になった。リビアでは国が東西に分裂して内戦状態に。イエメンでは人道危機に発展した。アラブ諸国のGDPに65兆円の機会損失が起き、観光産業は壊滅的に、難民問題として近隣諸国にも経済的負担をかける始末となった。
しかし、成功した例がある。それがチュニジアである。
チュニジアは、打倒後のビジョンが一枚岩であったといえる。成功要因をみてみると、 政治的、経済的、社会的な基盤の総合的な整備にあると言えよう。

まず、独裁政権の打倒後における具体的な統治システムの設計、民主的な憲法制定プロセスの確立、軍部や宗教勢力との調整メカニズムの構築など、政治的な受け皿の構築が不可欠である。チュニジアの成功例が示すように、穏健なイスラム政党の存在と協調、市民社会の成熟度の高さ、教育水準の高さと女性の社会参画など、前提条件の整備も重要である。

さらに、国際社会による具体的な支援も必要不可欠である。民主化運動の支持にとどまらず、その後の国づくりへの援助、経済的自立支援、教育・人材育成支援の継続など、総合的な支援体制の構築が望まれる。

経済面では、若年層の雇用創出、地域間格差の是正、産業の多角化支援といった施策により、基盤の強化を図らなければならない。

加えて、異なる宗派・民族間の対話促進、伝統的価値観と近代化の調和、市民社会の育成支援など、社会的な統合の実現も課題である。

これら政治、経済、社会の各領域における総合的な取り組みの実現こそが、アラブの春の成功への鍵となるであろう。

再びナロードニキの問題と日本

19世紀のロシアでは、都市部の知識人が農村に入って改革を試みたが、農民との価値観の違いから失敗に終わった。現代の日本でも、似たような構造がみられる。

都会から農村に入る若者たちは、純粋な気持ちで農業に取り組もうとするが、地域の人々との間に壁を感じることが少なくない。彼らは農村の伝統的な価値観や慣習を十分に理解できていないことが多く、また農業技術の習得にも時間がかかる。一方、地元の人々は外部からやってくる若者たちに不信感を抱きがちだ。代々受け継いできた農法や地域の慣習が軽視されるのではないか、ムラの秩序が乱されるのではないかという不安がある。

この問題を解決するため、いくつかの取り組みが始まっている。第三者による事業継承の仕組みを整えたり、地域全体で新規参入者を受け入れる体制を作ったりしている。オンラインでの交流と実際の対面での交流を組み合わせた支援も行われている。ヨーロッパでは、新規就農者への支援制度が充実しており、地域社会との調和を重視したアプローチが取られている。

日本でもこの問題を解決するには、地域コミュニティと新規参入者をつなぐ橋渡し役が必要だ。また、農業技術や知識を段階的に共有していく仕組みづくりも重要だ。何より大切なのは、双方の価値観を尊重しながら対話を続けていくことだ。技術や資金の支援も大切だが、最も重要なのは地域社会との信頼関係を築くことだ。これは時間のかかる取り組みだが、農村の未来のために避けて通れない課題といえるだろう。

あとがき

ツルゲーネフといいながら、話がだいぶそれてしまった感がある
ナロードニキの時代にDAO分散型自立組織があったらよかったのかもしれないという視点で次回は考えて見ることとする。
今は自警団組織が地域社会を作っている。国でいえば119番の仕組みである。119にかけるよりも早く駆けつけてくれる自警団はやはりありがたいものであろう。変化を急ぐ心と、もしもの備えの両方を複眼的にみながら考えていかないといけない。

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