まえがき
家庭文化の日と文化の日
いつも家庭文化の日は家庭について
文化の日つまり11月3日は書道について書くことにしているので
今回もそのようにしよう
上記の課題では、アリエスという日曜歴史家について書いている
まずは、そちらの復習からいこう。
日曜歴史家アリエス
フランスの歴史家アリエスは、いわゆる大学の教授ではなく、日曜歴史家として独自の研究を続けた。社会科学高等研究院(d'études à l'École des hautes études en sciences sociales)の研究主任になるまで、アカデミズムの外側で研究を続けた人である。
つまり、自由闊達に研究ができたということである。
アリエスの方法は、"l'histoire des mentalités"つまりは心の歴史という方法である、人々の意識や心のあり方について焦点をあてた。
日記、手紙、絵画、墓碑銘など多様な資料を用いて歴史を、つまりは人々の心の変化を読み解いたのである。
子ども、死、家族などをテーマに独自の研究を行ったのであるが 基調として、現代の人間のあり方について批判的な意識を出発点として、仮説やモデルをもって事実を分析した。あくまで政治の歴史ではなく、法制史でもなく日常生活や庶民の意識に注目したのだ。特に子どもに関する概念の歴史的形成過程を研究して、近代家族研究に大きな影響を与えた。
パラダイム変換 母性愛、家族愛といった普遍的と考えられていた概念の歴史性(つまりは昔はそんなものはなかった)を明らかにしたのである。
これは、社会学、教育学、歴史学、人類学など幅広い分野に影響を与えたのである。
子どもという概念について
なんだかんだ日本の家族を含めて、家族は子ども中心である。
子どものために育てやすい環境をと家やマンションを郊外に選ぶ人も多い。
こうした考え方の根源それ自体が、近代からの発想だというのである。
アリエスの研究によれば、17世紀以降、子どもを保護すべき存在とする概念が誕生した。この時期、子どもへの教育的配慮が現れ始め、子どもは弱く純粋無垢な存在として認識されるようになり、特別の保護と教育を必要とする存在として扱われるようになった。これには学校教育制度の確立、中産階級における子育て意識の変化、そして子どもの特殊性への認識の高まりが大きく影響している。
徒弟制度時代の家族においては、開放的な家族システムが存在していた。子どもを7歳頃から他家に預けることで経済的負担を軽減し、血縁を超えた社会的なネットワークを形成し、実践的な技能習得の機会を得ることが可能であった。また、家族は社会に対して開かれており、友人、顧客、奉公人たちが頻繁に介入する場として機能し、感情の交流や社会的なコミュニケーションは家の外で行われていた。
しかしながら、近代家族には深刻な問題点が存在する。家族が社会から隔離され、閉鎖的な私的空間となったことで、子どもは外部世界から過度に保護され、家族内の感情的負担が増大することとなった。さらに、子ども中心主義がもたらした弊害として、子どもへの過度な期待と保護、子どもの自立性の阻害、親の過剰な教育的介入が挙げられる。
このように、近代家族は子どもの保護という崇高な理念の下に形成されたものの、結果として子どもと社会の健全な関係を阻害する事態を招来したのである。
引きこもりについて
アリエスの視点から日本の引きこもり問題を分析するならば、それは近代化がもたらした構造的な問題として把握することが可能である。近代化の過程において、家族は社会から「私事」として分離され、共同体から引きこもる形態が生まれた。かつての開放的な家族形態から閉鎖的な核家族へと変容したことにより、子どもの社会性を育む機会は著しく失われることとなった。
近代教育制度の確立により、子どもは年齢によって分離され、大人の世界から隔離されるようになった。この分離は子どもを保護するという建前の下に行われたものの、結果として社会との自然な接点を喪失させる結果を招来している。
現代社会における影響は顕著である。日本の引きこもりという現象は、近代家族の閉鎖性が極端な形で表出したものと解釈できる。これが「本音と建前」という日本特有の文化的要因と結びつくことで、より一層深刻な様相を呈している。
さらに、かつての共同体による支援機能が失われたことにより、問題が家族内で抱え込まれる傾向が強まっている。特に8050問題に見られるように、家族の閉鎖性は問題の長期化を招く重大な要因となっている。
アリエスの視座に立脚するならば、引きこもりは確かに近代化がもたらした病理として理解されるべきものである。しかしそれは単なる個人や家族の問題として矮小化されるべきではなく、近代社会の構造そのものに深く根ざした問題として捉える必要があるのである。
いわゆる実家という機能
実家とは祖父母がいて長男が住む家ということであろうか。。。
核家族化が進む中、家族という概念の相対化として、
ボーヴォワールの論を展開しておこう
ボーヴォワールの分析によれば、老人と孫の間には極めて特殊な関係性が存在する。両者は社会的には「穀つぶしであり厄介な重荷」として見られ、「実生活の無能力者」として似た立場に置かれている。また、社会の制約から比較的自由な存在として位置づけられる点でも共通性を有している。
この関係性は相互扶助的な性格を帯びている。孫の教育は祖父母に託され、孫は祖父母に奉仕し、互いに「世話」をし合う関係を構築するのである。
精神的なつながりの観点からは、両者の間には「両親の頭ごしの共犯関係」としての精神的交流が存在する。遊戯的な関係を持ち、冗談を言い合い、遊びに加わるという特徴的な交流形態が見られる。
社会的位置づけにおいても、両者は顕著な共通点を有している。両方とも「世界の神秘と神に近い」存在として認識され、成人の謹厳さから距離を置いた関係性を保持している。また、社会の中心的な生産活動からは離れた位置に存在するという特徴も共有している。
このような老人と孫の関係性は、近代家族における親子関係とは一線を画す独特の絆を形成しているのである。その特殊性は、両者の社会的立場の類似性と、それに基づく相互理解、さらには精神的な親密さに基づくものといえよう。
ここは整理が必要だ。
まずは、近代化で家と外が分断された。とアリエスはいう。
そして祖父母が教育に関わった場合が逃げ道として
独自の絆を築く可能性について、ボーヴォワールはいうのである。
しかしながら、核家族化がさらにこの関係も遮断している状況にあるのではないだろうか・・
近代化による分断
アリエスの指摘
17世紀以降、家族は社会から「私事」として分離された
かつての開放的な家族形態から閉鎖的な核家族へと変化
子どもは社会から隔離され、特別な保護の対象となった
ボーヴォワールの示す可能性
祖父母と孫の特別な関係
現代の問題点
核家族化による関係の遮断
このように、近代化と核家族化の二重の影響により、かつて存在した多様な人間関係の可能性が喪失されつつあるといえよう。
あとがき
今日は、頭出しの記事としておこう
家族を相対化すると、現代における問題点が噴出しすぎていて整理ができていない。焦点を定めて次回から各論めいた論旨の展開にしよう。
とにかく、価値感をすべて家庭中心にするのはどうかと思う、というのが主旨である。家族関係で悩んでいる方がもしいたら、ぜひとも根源から問い直しをお願いしたい。やや失礼を承知でいえば、なんでもないことで悩んでいる可能性もあるのだ。家族はこうあるべきというのは、見直さなくてはならないし親や子どもに過度に期待しないほうがいいかもしれない。