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マグロの日

まえがき

今日はマグロの日ということで
かつて↓の記事を書いた

宿題に江戸とマグロとあるので、それを題して書いてみようと思う。

江戸の粋

江戸の「粋(いき)」という美意識を中心に、マグロに関する江戸の美意識、フーコーの思想、レヴィ=ストロースの理論、そしてロラン・バルトの記号論を交えながら、「美味しさ」の概念と文化の関係について再構成してみる。

江戸の「粋」と食文化

江戸時代、「粋」という独特の美意識が花開いた。「粋」とは、気性・態度・身なりがあか抜けしていて、自然な色気の感じられる様子を指す。この美意識は、単なる外見だけでなく、生き方や価値観にまで及ぶ、江戸文化の根幹を成すものだった。

「粋」の美意識は食文化にも大きな影響を与える

1. あっさりとした味わいの重視
2. 季節感の尊重
3. 見た目の美しさへのこだわり

これらの要素は、江戸の人々の「美味しさ」の概念を形成する上で重要な役割を果たしていたのだ。
初鰹をありがたがるのも、この粋の美意識による
そもそも、江戸は出自なんてないも等しい。地方から出てきたものばかりなのだ。
こうしたフォルマリズムがなければ、江戸っ子というアイデンティティなんてどこにもないのだ。

マグロと江戸の美意識

興味深いことに、現代では高級食材として珍重されるマグロ、特にトロは、江戸時代には「下魚(げうお)」と呼ばれ、あまり価値のない魚とされていた。この評価だって、粋の構造に他ならない。さらには昨今 十割そばが持て囃されるが、この頃は田舎臭いと言って二八のが人気があった。

それはおいといても、江戸の人々は、とにかく脂っこいものを好まず、あっさりとした味わいを「粋」とする傾向があった。そのため、脂の乗ったトロは好まれず、むしろ赤身の部分が好まれた。また、マグロの保存技術が未発達だったことも、その評価を下げる一因となっていたんであろう。

フーコーの権力論と「美味しさ」の概念

フランスの哲学者ミシェル・フーコーの思想は、この「美味しさ」の概念の文化的構築を理解する上で非常に示唆に富んでる。フーコーの権力論に基づけば、ある食べ物を「美味しい」と感じることは、その社会の権力構造や知の体系によって形成された「真理」の一部だと解釈するのである。

江戸時代にトロが「美味しくない」とされていたのは、当時の権力構造や知の体系が、トロを価値のないものとして位置づけていたことを意味するということだ。一方、現代においてトロが高級食材として珍重されるようになったのは、社会の価値観や経済構造の変化、さらには日本の食文化が世界に認知されるようになったことなど、複雑な要因が絡み合った結果だ。いや自分は、トロはそんな社会構造なんか関係なくうまいと思うという人がいるだろう。構造主義から言えばそうではないのである。江戸時代には初鰹を粋なんかなくたってうまいと感じていたのだから。

レヴィ=ストロースの「料理の三角形」と江戸の食文化

文化人類学者クロード・レヴィ=ストロースの「料理の三角形」理論は、江戸の食文化を理解する上でも興味深い視点を提供する。レヴィ=ストロースは、「生のもの」「火にかけたもの」「腐敗させたもの(発酵させたもの)」という三つの頂点を持つ三角形モデルを提示し、これらの組み合わせが各文化の料理体系を形成していると主張した。

江戸の食文化を「料理の三角形」の観点から見ると、

1. 「生のもの」への価値付け:江戸前寿司に代表される新鮮な魚介類の生食文化
2. 「火にかけたもの」の洗練:素材の味を活かした煮物や焼き物
3. 「腐敗させたもの(発酵させたもの)」の活用:味噌や醤油といった発酵調味料の控えめな使用

ということになる。ここでは詳しくは割愛する。なぜなら江戸時代に何が食べられていたのか時代考証するほどの知識が私にないからである。宿題とさせていただく。

ロラン・バルトの記号論と「美味しさ」の象徴性

ロラン・バルトの記号論的アプローチは、「美味しさ」の概念をさらに深く理解する手がかりを提供する。バルトは、あらゆる文化的現象を「記号」として捉え、その意味作用を分析した。彼の著書『記号の帝国』(L'Empire des signes)では、日本文化を西洋の視点から分析し、その独特の記号体系を明らかにしている。

"L'aliment ne signifie pas seulement une collection de produits justiciables d'une étude statistique ou diététique. Il constitue aussi un système de communication, un corps d'images, un protocole d'usages, de situations et de conduites."

(訳:「食べ物は、単に統計学的あるいは栄養学的研究の対象となる製品の集合を意味するだけではない。それはまた、コミュニケーションの体系であり、イメージの集合体であり、使用法や状況、行動の規範でもある。」)


この視点から江戸の「粋」と食文化を見ると、「美味しさ」は単なる味覚の問題ではなく、複雑な文化的記号体系の一部である。例えば、江戸前寿司の「美味しさ」は、その味だけでなく、季節感、職人の技、食べる場所や状況など、様々な要素が組み合わさって生まれる総合的な体験である。だからこのモードの体系に従ってうまいまずいが決まるのだ。

マグロの評価の変遷も、この記号論的視点から理解することができる。江戸時代にトロが「下魚」とされていたのは、当時の文化的記号体系の中でトロが「粋」ではないという意味を持っていたからだ。現代においてトロが高級食材とされるのは、新たな文化的記号体系の中でトロが「贅沢」や「日本食文化の精髄」といった意味を持つようになったからだと解釈できるわけである。

「粋」と「美味しさ」の本質

江戸の「粋」という美意識を通して「美味しさ」の概念を考察すると、それが単なる味覚の問題ではなく、文化の本質に深く根ざしたものであるものだ。フーコーの思想は、この「美味しさ」の概念が社会的・文化的に構築されたものであることを示唆し、レヴィ=ストロースの理論は、その構築が人間の思考の普遍的な構造に基づいていることを示唆している。そして、バルトの記号論は、「美味しさ」が複雑な文化的記号体系の一部であることを明らかにしている。

現代において「美味しさ」を単なる味覚の問題としてではなく、文化全体の文脈の中で理解することの重要性がある。食べ物を「美味しい」と感じることは、バルトが指摘するように、コミュニケーションの体系、イメージの集合体、使用法や状況、行動の規範を含む総合的な体験なのである。


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