スエズ運河の日
まえがき
1869年の今日、スエズ運河が開通した。
前回の課題に”レセップスの生涯について”があるので
まず復習がてら、そちらから書いていこう。
レセップス
19世紀半ば、地中海と紅海を結ぶ壮大な夢を抱いた一人のフランス人がいた。フェルディナン・ド・レセップスである。若き日、アレキサンドリアの副領事として赴任した際、彼は一人の少年の家庭教師を務めることとなった。その少年こそ、後のエジプト総督サイード・パシャであった。
この運命的な出会いは、その後の世界史に大きな影響を及ぼすこととなる。当時のエジプトは、名目上はオスマン帝国の一部でありながら、実質的な自治権を持っていた。19世紀前半から、イギリスとフランスの両国は、エジプトへの影響力拡大を巡って激しい角逐を繰り広げていたのである。
1854年、運命の再会の時が訪れた。かつての教え子サイードが総督の座に就いたのである。レセップスは長年温めていた運河建設の夢をサイードに提案し、その許可を得ることに成功した。この時、サイードの決断には、恩師への信頼だけでなく、エジプトの近代化と独立強化への野心も大きく影響していたと考えられている。
しかし、この大事業への道のりは決して平坦ではなかった。特にイギリスは、インド航路への影響を懸念し、強く反対した。イギリスは自国の通商への脅威とみなしてオスマン帝国に圧力をかけ、工事は幾度となく妨害を受けることとなった。オスマン帝国のスルタンも当初は工事に難色を示していたが、ナポレオン3世の外交的圧力もあり、最終的に承認せざるを得なかった。
ここで、ナポレオン三世の暗躍ぶりが小気味よい。
1859年、レセップスは国際スエズ運河会社を設立し、ついに工事を開始した。資金調達は主にフランスの投資家たちによって行われ、エジプト政府も多額の出資を行った。工事は過酷を極めた。当時の技術では想像を絶する困難な作業の連続であり、エジプトの農民たちによる強制労働で進められた。灼熱の砂漠での作業により、多くの労働者が命を落とした。
1869年11月17日、10年の歳月と労力を経て、ついに運河は完成した。開通式には、フランス皇妃ウジェニー、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世をはじめ、7000名もの各国の王族や名士が参列し、世紀の大事業の完成を祝った。ジュゼッペ・ヴェルディが特別に作曲したオペラ「アイーダ」も、この祝祭のために作られたものである。
この運河により、ヨーロッパとアジアを結ぶ航路は約8000キロも短縮された。これは、当時の蒸気船にとって、航海日数を約2週間短縮することを意味した。運河の開通は、世界貿易に革命的な変化をもたらし、特にイギリスのインド貿易に多大な影響を与えた。皮肉なことに、当初反対していたイギリスが、後に運河株式の過半数を取得し、実質的な支配権を握ることとなる。
しかし、レセップスの人生は栄光ばかりではなかった。晩年に挑んだパナマ運河建設は、資金難や熱帯病の蔓延により失敗に終わり、1894年、89歳でその波乱の生涯を閉じることとなった。
今日も砂漠の真ん中を、巨大な船々が行き交うスエズ運河。それは、一人のフランス人外交官と若きエジプト総督の夢が実現した、人類の偉大な功績として私たちの前に存在し続けている。現代では、世界の海上貿易の約12%がこの運河を通過しており、その重要性は建設当時よりもさらに増している。2015年には運河の拡張工事も完了し、より大型の船舶の通行が可能となった。まさに、レセップスの夢は、現代のグローバル経済を支える大動脈として、その意義を深めながら生き続けているのである。
若きサイードの活躍が恩師を助ける。世界的な航路はこうして成果を果たしたのである。まえがきで引用した記事では、中東アジアとヨーロッパの往来に実に喜望峰経由だったことを記している。それがこの偉業によって約半分の距離になり、さらに輸送費は1/3になったのである。いまでも大きな役割を果たしている。それを書いておこう
スエズ運河
スエズ運河は、国際貿易において革新的な貢献をもたらしてきた。特に距離と時間の短縮において顕著な効果を示しており、ヨーロッパとアジア間の航路を約8,900km短縮することに成功した。具体例として、シンガポール-ロッテルダム間では約6,000kmの短縮を実現し、航行時間においては約9日間の短縮を可能としている。
環境面での貢献も特筆すべきものがある。航路短縮により、CO2排出量を44%削減することに成功し、環境に配慮した持続可能な海上輸送を実現している。
経済的価値の観点から見ると、運河の利用状況は着実な成長を示している。2012年には年間17,225隻(1日平均47隻)が通過し、世界の近海航路船舶の7.5%が利用するに至った。さらに、2014年の拡張工事により、1日あたりの通過可能船舶数は49隻から97隻へと倍増している。
技術的特徴としては、総延長190kmに及ぶ壮大な人工水路としての規模が挙げられる。平均幅は約200mまで拡張され、大型船舶の通行が可能となった。また、効率的な船団方式による運航システムを採用することで、円滑な海上交通を実現している。
現代における意義としては、地中海と紅海を結ぶ戦略的要衝としての役割が重要である。国際貿易の重要なインフラストラクチャーとして機能し、世界の海運ネットワークの中核を担っている。
このように、スエズ運河は国際貿易の効率化、環境負荷の低減、そして世界経済の発展に大きく貢献する、人類の偉大な工学的成果の一つとなっている。その影響力は現代においても衰えることなく、むしろグローバル化の進展とともにその重要性を増している。運河の継続的な整備と拡張は、今後も世界の海上輸送の発展に大きく寄与していくことが期待される。
世界のコンテナ輸送量の約1/3がスエズ運河を通過、年間1万90000隻ものタンカーや船舶がこの運河を通過している。
スエズ運河は19世紀の最大の遺産を現代に残してくれているといっても過言ではない。そんなレセップスは実はパナマ運河も手掛けているがこちらは失敗した。
パナマ運河は失敗
スエズ運河とパナマ運河の成否を分けた要因は、地形、気候、資金面など、複数の観点から検証することができる。
まず、地形と技術的な側面において、スエズ運河は比較的恵まれた条件下にあった。砂漠地帯を通過する平坦な地形であり、地中海と紅海の水位差が最大2.5mと小さかったため、閘門を必要としなかった。これにより、比較的単純な掘削工事で済むこととなった。
一方、パナマ運河は複雑な地形と硬い岩盤による困難な工事を強いられた。大きな標高差があったため、閘門式にせざるを得ず、技術的な課題も多かった。特に、頻発する地すべりにより工事は何度も中断を余儀なくされた。現代のパナマ運河の閘門は、ミラフローレス閘門、ペドロミゲル閘門、ガトゥン閘門の3か所に設置されており、船舶は最大25.9メートルもの高低差を克服しながら大西洋と太平洋を行き来している。
衛生環境の違いも、両運河の工事進捗に大きな影響を与えた。スエズ運河は乾燥した砂漠気候であったため、疫病の発生は比較的少なかった。これに対し、パナマ運河は熱帯雨林気候特有の黄熱病やマラリアが蔓延し、多くの作業員が命を落とした。特に1881年から1889年までのフランス期では、作業員約2万人が死亡したとされる。後にアメリカが工事を引き継いだ際、ウィリアム・ゴーガス軍医総監による徹底的な衛生管理が功を奏し、死亡率は大幅に低下した。
資金と経営の面でも、両者には明確な違いがあった。スエズ運河はエジプト副王サイードの全面的な支援を受け、比較的計画通りの工期で完成に至った。これに対し、フランス時代のパナマ運河建設では、予想を大きく上回る工事費用により資金が枯渇し、1889年には会社が破産、工事は中断を余儀なくされた。
興味深いことに、パナマ運河建設の失敗後、アメリカ合衆国が工事を引き継ぐ過程では、国際政治の駆け引きも大きく影響している。1903年のパナマ独立にアメリカが関与し、新生パナマ共和国から運河建設権を獲得したことは、当時の米国の中南米政策を象徴する出来事となった。
また、両運河の建設技術の違いも注目に値する。スエズ運河建設では主に人力による掘削が中心であったが、パナマ運河建設でアメリカは当時最新のスチームショベルや軽便鉄道を大規模に導入し、工事の効率化を図った。特に、バケット容量が2.29立方メートルに及ぶ巨大スチームショベル「マリオン」は、パナマ運河建設を象徴する機械となった。
現代では、両運河とも世界の海上物流の重要な動脈として機能しているが、その役割は異なる。スエズ運河がユーラシア大陸と北アフリカを結ぶ東西貿易の要となっているのに対し、パナマ運河は南北アメリカ大陸間の物流と、アジア-北米東岸間の貿易に重要な役割を果たしている。21世紀に入り、両運河とも大型船舶に対応するための拡張工事を実施しており、グローバル化する世界経済を支える重要なインフラとしての価値を高め続けている。
このように地形、気候、資金面の違いが、成否を分けた要因となった。
環境、病気、資金・・・この3つとも困難ならどうしてもこの事業は成り立たなかった。スエズ運河のときには、サイードがいたが、パナマ運河では鬼籍に入っていたのも大きな物語がありそうだ。
あとがき
弟子が暗躍して師匠を助ける物語を想像してみると、なんともいい心地がする。サイードに焦点を当ててみよう。