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TVを観るな!ということについて

まえがき

という自分の記事で、TVを観るなという理論を展開している
いまでもその思いは変わらないが、それを理論的にもう少し説明してみようという記事である。

欲望の社会的構築

まずラカンの欲望理論を引っ張り出そう。

「人間の欲望は他者の欲望である」
(le désir de l'homme est le désir de l'Autre)

ラカンのエクリより

簡単にラカンのいう、欲望が形成されるプロセスを説明すると
・他者が何を欲しがっているのか推測する
・その推測に基づいて自分の欲望を形づくる
・他者の欲望の隙間を見出しそこに自分の欲望の余地を見出す

このように、自分の欲望と呼ぶものは実際には、他者の欲望との関係の中で形成されたものにすぎないとラカンはいう。
ひとつには鏡像段階において自我が他者(鏡像)に依存して形成されること
それから、象徴界への参入がある、象徴界というのは社会の規範や文化に言語を使って参入する過程で、他の体系に組み込まれざるをえないこと。
さらに大文字の他者の存在がそれを本質的なものにする。
人間の欲求には根本に他者からの承認があり、自我とそれにともなう欲望は、常に他者の関係性の中で形成される。

また、ラカンは次のようにいう

欲望は言語化できないものへの欲望である
Le désir est désir de rien de nommable

同上

欲望は常に言語で表現しえないもの、すなわち欠如へとむかうという
ラカンが人間の欲望を、言語と欠如というキーワードで語ったのに対し
バタイユは、エネルギーと過剰という具合に正反対にもみえるアプローチをした。

バタイユは一般経済学で、人間の欲望や行動をエネルギーの流れであると捉えた。社会における非生産消費(芸術、祝祭、エロティシズムなど)に重きをおく。さらにこれを「呪われた部分」と呼んだ。この余剰は、通常の生産活動や成長では吸収しきれない過剰な部分であり、適切に処理されないと社会システムに混乱をもたらす。
現状の資本主義では、この呪われたともいうべき余剰をさらに生産に向けてしまう。これが、貧富の差として人々を苦しめることになる。
マルクスはこの余剰を資本主義の矛盾とよび、それは戦争に至ると結論づけた。(みごとその通りに推移しているように思う)
結論をやや急ぎめに書くと、
バタイユもラカンもアプローチは違えど同じような分析をしているのではないかと推測する。ラカンの場合には、バタイユのいう祝祭や蕩尽が大文字の他者という名のもとに実施されるのである。

現代社会への解決策の考察

現代社会においては前項でみたように、祝祭や消費行動は大文字の他者の欲望に基づいて実施されている。人々は社会や文化あるいは資本主義システムという大きな他者が望むものを自分の欲望として内面化して、それを追求する、昨今の例を出すのもバカバカしいが、SNSで豪華な旅行写真の投稿、高級ブランドの購入の投稿などは他者から承認を得たいという欲望の現れにすぎない。同時に社会が価値あるものとして示す欲望を追求してしまうことが席巻している、。
一方でバタイユの過剰性の概念からすると、これらの行為は社会に蓄積された余剰エネルギーの消費が必ずしも健全(バタイユのいう健全あくまで)な形で行われてはおらず、過度な消費主義が、環境破壊や、格差の拡大といった資本主義の矛盾をそのまま背負っている。

現代への警鐘

・真の自己実現の喪失: 
 他者の欲望に従属することで
 個人の本来の欲望や自己実現が阻害されている。
・社会の不均衡:
 過剰なエネルギーが一部の人々や活動に集中して社会全体のバランスは
 パレート数になって不均衡である
・環境問題の深刻化:
 過剰消費が環境破壊につながっている傾向がある
・精神的な空虚:
 物質的な豊かさの追求が必ずしも精神的な満足につながっていない

解決策の模索

・非生産活動の再評価:
  芸術や文化活動を積極的に(資本主義の枠組みでなく)評価して、
  社会的に余剰エネルギーを消費し(蕩尽)
  同時に個人の生にあふれた活力を復活させる

・欲望の再定義:
  ラカン理論ふまえて、他者の欲望への従属ではなく、自己の本質的な
  欲望を探求させる行動を社会に浸透させる。自己の内面の成長させる
  行動を支援するような教育がよいように思われる

・共同体の再構築:
  個人主義的な社会構造を見直し、地域コミュニティや小規模共同体
  を組織し他者との関係性の中で自己を再定義する仕組みづくりをする
  蕩尽を行う単位を想定している。
  これには、世界共通の通貨ではなく資本主義から離れた仮想通貨の
  創設なども一つの手段である。つまりはDAOの構築である。

・サスティナブル:
  持続可能な消費モデルと循環型社会をラディカルに進めることがよい
  多様性を認め(他者の欲望に従属し中心に向かうのではなく)
  他者と自己の共存をテーゼとする価値観の醸成が急務である

欲望の再定義とDAO

 DAO(分散型自律組織)の構築は、中央集権的な権力構造を排除する点では、大文字の他者から「逃走」「差延(デリダ)」できる可能性を秘めている。資本主義による偏った欲望から逃走して、DAO参加者の欲望と価値で行動することにより、多様な価値が生まれる可能性がある。
さらには、ブロックチェーンでの透明性のある運営は、社会主義の官僚や密室で行われる政治が差し伸べる価値を脱構築できる可能性が十分にある。
DAOも万能ではない(DAO自体が大文字の他者になる可能性)が、
少なくともブロックチェーンの透明性はとても魅力に思うのである。


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