太平洋の日
まえがき
太平洋の日、なんのための日かよくわからない
というのも、マゼランが喜望峰を通過した日なんだが、グローバリゼーションの時代になんだかそぐわない日にも感じられ、なおかつヨーロッパ中心主義丸出しだからだ。マゼランが通ろうが通るまいが太平洋はそこにありたくさんの人々の暮らしがそこにあったのだから。
視線を変えて、グローバリゼーションに考える日にしてみよう
オリエンタリズム
サイードの著作に「オリエンタリズム」がある
ヨーロッパ中心主義について、鮮やかに指摘した本である。
エドワード・サイードの『オリエンタリズム』は、西洋による東洋表象の問題を根源的に問い直した革新的著作であり、ポストコロニアル理論の礎石となった業績である。
西洋は東洋を「他者」として捉え、「未開」「劣等」という言説を通じて支配を正当化してきた。この過程において形成されたオリエンタリズムは、単なる学術的営為を超えて、政治的支配と不可分の関係にあったと言えよう。本質的に重要なのは、サイードが指摘した知と権力の結合である。オリエンタリズムは、東洋を研究対象として客体化すると同時に、その知識体系自体が支配の道具として機能していたのである。
ここで注目すべきは、この構造が単純な二項対立にとどまらない点である。東洋は、完全な他者でありながら、同時に西洋システムに組み込まれた従属的存在として位置づけられた。私見では、この両義的な関係性にこそ、オリエンタリズムの巧妙さが表れている。東洋は、西洋の解釈行為に奉仕する「文化的プロレタリアート」として扱われ、その過程で受動性、非合理性、幼児性といった性格を付与されていったのである。
さらに深刻な問題として、西洋のアイデンティティ形成における「オリエント」の役割がある。「オリエント」は、西洋が自己を規定し、その優越性を確立するために不可欠な他者として創造された。この意味で、オリエンタリズムは単なる認識の歪みではなく、西洋の自己認識を支える構造的な装置として機能してきたと解釈できる。
現代のグローバリゼーションの文脈において、この問題は新たな様相を呈している。表面的には文化的多様性が謳われる一方で、西洋中心主義的な価値観は依然として強固に存在している。特に看過できないのは、経済発展や近代化の名の下に行われる文化的支配の形態である。これは、かつての植民地主義的支配とは異なる様相を呈しながらも、本質的には同様の権力関係を内包している。
デリダの脱構築的視座を援用するならば、我々に求められているのは、このような二項対立的思考そのものを解体することであろう。東洋と西洋という区分自体が、既に特定の権力関係を前提としている。したがって、真に必要なのは、このような二項対立を超えた新たな思考の枠組みを構築することである。
ブルデューの文化資本論を踏まえれば、オリエンタリズムは象徴的暴力の一形態として理解することも可能である。それは、支配される側が支配の正当性を無意識のうちに受け入れてしまうメカニスムとして機能している。この観点から、現代における文化的ヘゲモニーの問題を再考する必要があるだろう。
サイードの功績は、このような複雑な権力関係を明らかにし、我々に新たな思考の地平を開いた点にある。現代において我々に求められているのは、このサイードの洞察を更に推し進め、より包括的で公正な文化間の対話を可能にする理論的枠組みを模索することである。
ミミクリーとハイブリティ
大航海時代から、いわゆる征服者に服従するときのメカニスムとして
ミミクリーとハイブリティが見られる。
大航海時代から現代に至る征服と文化的適応のメカニズムは、人類の文化交流史における最も複雑かつ重層的な現象として捉えることができる。
征服と支配の歴史において、被征服者たちは単に支配者の文化を受動的に受容したわけではない。彼らは表層的には支配者の文化を模倣しながらも、その内実において「似て非なるもの」を産出してきた。これは、ホミ・バーバが提唱したミミクリーの概念に通底する現象であり、支配に対する巧妙な抵抗の形態として機能してきたのである。
とりわけ注目すべきは、このような文化的混淆がもたらす創造的な力である。ラテンアメリカにおけるシンクレティズム(宗教混交)は、その典型的な例として挙げられよう。カトリックの聖人と先住民の神々が融合し、独特の信仰形態を生み出した過程は、支配文化と被支配文化の単純な二項対立では説明し得ない複雑な文化変容の過程を示している。
さらに、レヴィ=ストロースの「ブリコラージュ」の概念を援用するならば、被征服者たちは既存の文化要素を創造的に再構成することで、新たな意味体系を構築してきたと解釈できる。例えば、アフリカのポストコロニアル文学における欧米言語の使用は、支配者の言語を流用しながら、独自の表現様式を確立した好例である。
文化資本の観点からこの現象を分析すると、より興味深い様相が浮かび上がる。被征服者たちは、ブルデューの言う「ハビトゥス」を創造的に変容させることで、新たな文化資本を創出してきた。明治期日本における「和魂洋才」の思想は、この過程を如実に示している。西洋の科学技術や制度を積極的に摂取しながらも、日本固有の精神性や価値観を保持しようとする姿勢は、文化的適応の戦略的性格を明確に表している。
デリダの差延の概念を援用すると、このような文化的適応は、終わりなき意味の生成過程として理解することができる。支配文化と被支配文化の邂逅は、両者の単純な混合ではなく、絶えず新たな意味を産出し続ける動的なプロセスとして機能してきたのである。
現代のグローバリゼーションの文脈において、この問題は新たな位相を見せている。デジタル技術の発達により、文化的接触と混淆の様相は一層複雑化している。しかし、その本質において、文化的適応のメカニズムは依然として創造的な抵抗と新たな価値の生成という二重の性格を保持している。
ただし、この過程で不可逆的に失われた文化的価値の存在も看過してはならない。特に、少数民族の言語や伝統的な世界観の喪失は、人類の文化的多様性という観点から深刻な問題を提起している。
グローバリゼーションにおける観点
経済発展と格差、文化的融合の問題は、現代社会の根源的な課題として深刻な様相を呈している。この問題に対する現代思想からのアプローチは、単なる経済的分析を超えて、より深遠な文化的・社会的次元への洞察を提供している。先には、ホミ・バーバとサイードについて述べたがそのほかの観点として以下のように挙げられる。
アクセル・ホネットの承認論は、この問題に新たな視座を提供している。経済的再分配の問題は、より根源的な相互承認の構造と不可分に結びついているのである。この観点からすれば、現代の経済格差は単なる所得の不平等ではなく、承認の欠如という深刻な社会病理の表現として理解されねばならない。
フレイザーの再分配と承認の二元論は、この問題をより精緻に理論化している。経済的公正と文化的承認は、車の両輪のように相互補完的な関係にある。私見では、この視点は現代の社会運動を理解する上で極めて重要である。例えば、アイデンティティ・ポリティクスと階級闘争の関係性を理解する上で、フレイザーの理論は重要な分析枠組みを提供している。
バウマンの「リキッド・モダニティ」論は、現代社会における不安定性と不確実性を鋭く描き出している。グローバル化による社会の液状化は、既存の社会的紐帯を解体し、新たな形態の格差と分断を生み出している。この分析は、ブルデューの「文化資本」論と接続することで、より深い理解が可能となろう。
アパデュライの文化的想像力への着目は、グローバル化時代における新たな可能性を示唆している。文化の流動性は、確かに新たな格差を生み出す一方で、創造的な文化的実践の可能性も内包している。この観点は、ドゥルーズの「リゾーム」的思考と共鳴し、支配構造に対する新たな抵抗の可能性を示唆している。
現代の視点から見れば、これらの理論的蓄積は、経済発展と文化的融合の問題を、より複雑な社会的・文化的文脈の中で捉え直すことの重要性を示している。特に、デジタル技術の発達による新たな形態の文化的支配と抵抗の出現は、これらの理論をさらに発展させる必要性を示唆している。
あとがき
つまりは経済発展と格差の問題は、単なる経済的次元を超えて、より深い文化的・社会的次元における変革を必要としている。それは、フーコーの言う権力関係の再編成であり、同時にラカンの言う象徴的秩序の組み換えでもある。少々面倒な問題かもしれない。
しかし、時代を経てグローバリゼーションはリベラルな思想と相まって
より複雑性を増している。
上記でみたように、個人主義の発展とそれにともなう分裂の問題は
より一層深刻さを増しているかのように思われてならない。
本日は文化間の交流には、みずからのアイデンティティ、そして
自己肯定感が必要だが、いままさにそれが危機的な状態にあるとも言える
現代がグローバルを標榜すればするほど、分裂の問題と自己肯定の問題はさらなる複雑で、それこそめんどくさい問題に思われる。
次回はできれば、もう少しこのめんどくさい問題を取り上げてみたくはある。