麦とろの日
今日は、麦とろの日である(語呂合わせ)
麦とろ・・・麦飯にとろろをかけた料理である。
私の同級生に東海道線の駅をすべて諳んじることができる者がいた。
とろろはいつも、そんなことを粘っこく思い出させる。
すごいな・・・正直な感想だ。
悔しいな・・・これも正直な感想であった。
それで東海道五十三次で出てくる宿場をすべて言えるように覚えようとした。でも駄目だった。なぜなら、すぐに他の才能に目移りするからだ。
計算力をあげたい・・・ギリシア・ローマ神話を読破したい・・・
百人一首を覚えたい・・・
潜水で25メートル泳ぎたい・・・etc
私はそれらを気が向いたときに、少し練習しては、あきらめるを繰り返す。
この性癖はいまも変わっていないんだと思う。
とろろとは、山芋をすりおろしたものである。
山芋は総称みたいなもの。長芋、大和芋、自然薯など、すべてヤマノイモ科の植物であるが別種のもので、中でも自然薯が粘り気も強く、栄養価も高いとされている。量も少なく収穫にも苦労するのも自然薯である。
自然薯と大和芋の成分はほとんど変わらないという説もある。
収穫に苦労した分、あるいは希少な分、自然薯をありがたがってしまうバイアスがかかるのかもしれない。そうではないのかもしれない。
ブランド志向と短縮形でいえばそれまでである。
私はといえば、麦とろに関しては、さらさらと喉越し良く食べられる方が好みである。
丸子(鞠子)宿は東海道五十三次でいうと20番めの宿場である。
このあたりは自然薯の産地で、十返舎一九の「東海道中膝栗毛」の弥次さん、喜多さんが歌川広重の版画にも登場する。
右下に見えるのは、自然薯を掘るための道具であり、この鞠子(いまでいう静岡市にあたる)の周囲は自然薯が名産であったという。
この丁子屋はいまでも現存し営業しているお店である。創業は戦国時代から、、、芭蕉も”梅若菜 丸子の宿の とろろ汁”と詠み、その句碑が国道1号線に残っている。
ジェイムズ・ジョイスの「ユリシーズ」という作品がある。
ギリシアの壮大な叙事詩オデュッセイアを下敷きにしながら1904年の6月16日(つまり1904年の今日だ!)の一日の出来事に圧縮した小説である。かなり前衛的な手法で18章すべて違う文体で構成する。また、「意識の流れ」を書き起こすことに工夫が凝らされている。
ガリマール版のプレゼンテーションを引用しよう。
Le 16 juin 1904, à Dublin. À partir des déambulations, élucubrations, rencontres et solitudes de trois personnages, Leopold Bloom, Stephen Dedalus et Molly Bloom, Joyce récrit l'"Odyssée" d'Homère. L'architecture d'"Ulysse" est un incroyable tissage de correspondances : le roman foisonne d'échos internes, de réminiscences, de choses vues et entendues, digérées et métamorphosées. En même temps que Proust, Joyce écrit le grand roman de la mémoire et de l'identité instable. Dans ce livre qui tient de l'encyclopédie et de la comédie humaine, l'auteur convoque tous les styles, tous les tons - y compris comique -, du monologue intérieur au dialogue théâtral. La lecture d'"Ulysse" est de ces expériences déterminantes qui changent notre perception du roman comme notre vision du monde.
抄訳)
(前略)
同時代のプルースト同様、記憶と不安定なアイデンティを編んで小説を書き起こしたのである。この本の中で百科事典的な記述と人間劇を表現していて、作家はすべての文体と音節を駆使し、劇中のセリフの背後の独白をも書き付けた。ユリシーズを読むことは世の中における我々の観点として小説に対する認識を変える決定的な経験をもたらすのだ
音楽をやっている人なら話が早いのかもしれない。コード進行を追っているうちに、その作品の意図や斬新な部分、新規性を理解できるような経験をする。
小説でも同様である。ジュリア・クリステヴァは「すべてのエクリチュールはレ・エクリチュール」であるといった。物語や構造の異様さや工夫をこの小説は感じさせてくれる。新しいものを生み出すというが、音楽が有限の音やリズムから構成されるように、小説もまったく新しい言葉を生み出すわけではない。その使われ方や構造の変化をいわば編集することで、新しいものを生み出すのだ。この小説もつまりはオデュッセイアの書き直し(レ・エクリチュール)なのであるが、そこで表現したかったことはいったいなんなのか。凝りに凝った文体に翻弄されて私は見抜けなかった部分がある。
さて、私が注目したのは、ジョイスの意志についてである。
ダブリンの街を詳細に描いたジョイスはたとえ「ダブリンが滅んでもこの小説によって復活できる」という。プルーストが自分の思い出をすべて1冊の本(「失われた時を求めて」)に閉じ込めたように、バルザックが「人間喜劇」にパリのすべてを書きつけたように、ジョイスはダブリンを1冊の本に閉じ込めようとしたのである。そして、「ユリシーズ」の執筆がダブリンでなくチューリッヒでなされたことを考えあわせると、目眩に似た感覚を覚えるのである。
その目眩は子宮回帰願望まで意識の流れを撹乱しながら私に迫るのだ。
私が東海道五十三次を覚えたかったのは、記憶力というよりも、それを超えて脳内旅行を楽しみたかったのである。東海道の宿場町が鉄道駅に上塗りされてしまっても、”なんとか復活させ、その街道を歩きたい、しかも脳内で”・・・という願望なのである。
辞書への憧れは世界の”写し”がそこに閉じ込められているから。いつでもその世界の中を闊歩できるという再生性に憧れをもったのではないかという分析を自分自身にしている。だから、いろんなものを覚えたかったのだ。
加えて、外界を無化したいという感情も影響している。実際にはどこへも行きたくなく、かつ、どこへでも瞬時に行きたいのである。家から一歩も出ずにダブリンやパリや東南アジアに思いを馳せているのに対し、実際にそれを行動に起こすと、危険があったり思い通りことが進まなかったり、さまざまなトラブルがあったりする。その外界で当然起こすさまざまを私は極端に恐れるのである。けれども、自分の脳内にとどまっている限り、安全でかつ無償で時間も自由に闊歩できるのだ。しかもオンデマンド性もあるのである。それは”甘え”であったり、外界に出ていきたくないという閉じこもりの感情であり、敷衍していえば子宮回帰願望なのである。この願望は錬金術師の賢者の石への憧れに飛翔するのである。
麦とろは、とろろ芋を擦り、すり鉢に投入する。出汁を加えて伸ばし、そして味噌を加える。すりこぎ棒でなめらかになるまで擦り潰す。それを麦ごはんの上のたっぷりとかける。
この工程にイザナギとイザナミの国産みの儀式のようなものを私は感じるのである。すり鉢はまさに宇宙で、とろろは混沌で、味噌は魅惑の物質のように私には映るのである。
いろんなものを混ぜ混沌をつくり、それをご飯にぶっかけてかっこむ。
幼少の時に覚えた知識欲への憧れを具象化したような料理に、私は憧れの眼差しを注いでしまうのである。
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表題の写真は淺草麦とろ本店、東京でとろろを食べるならここは外せない。行列ができるお店だが、今は感染症対策を施しているだろう。
実はまだ一度もお邪魔していないので、落ち着いたらぜひとも訪ねたい。