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いい風呂の日
まえがき
前回の記事では、別府観光の父 油屋熊八について少し書いた。
別府温泉について書いたので今日は独鈷の湯について少しだけ書いてみる
温泉
温泉というと、草津、別府、道後の3つが私はまずは浮かぶが
もちろん、日本だけでなく、世界にも温泉はある。
アイスランドのブルーラグーン、イタリアのサトゥルニア、トルコのパムッカレなどなど、、、パムッカレは世界遺産であるしサトゥルニアは世界最古の温泉ということで数千年の歴史をもっている。古代ローマでも入れたということである。よく温泉地で、日本に生まれて良かったというのは、とても狭い見識としか言いようがないが、実は衛生感覚の違いがあり、それは私も同感のところがありつつ、やはり相対的に見たいとは思う。ということであるが、まずは足元からということで、道後温泉について少し触れよう
道後温泉
独鈷
独鈷とは法具である。つまり密教で使う独鈷杵である。これよりも大きなカテゴリーとして金剛杵がある。古代インドでは、武器として使用したものである。神々や鬼神と戦うための武器だ。そして独鈷杵はその中の一つということであるが、本来の意味としては、行者と大日如来が合一するために使うのである。具体的には護摩行、お清め、お祓いのとき使う。中央部が大日如来の目が描かれている両端が尖った形状をしている。象徴的には煩悩を打ち砕く象徴的意味があるのであるが、、、
道後温泉
若き僧侶空海が、愛媛県の道後を訪れた。彼は唐から帰国したばかりで、仏教の知識とともに新たな技術や知識を備えていた。この旅の途中で、病気の父親を抱える少年と出会う。少年は川の水で看病していたが水温が低かった。これをみた空海は、独鈷杵を高く掲げて川中の岩を力強く叩いた。岩は打ち砕け、岩の下から温かい湯が勢いよく湧き出たのである。この霊泉こそが道後温泉のはじまりとされている。
道後温泉の歴史
これがこの温泉のはじまりなら西暦800年ごろを指すのであろうが、
史実とは異なるらしい。日本の歴史はなんか後ろに引き伸ばす趣味がある。
今日はそれに付き合ってみよう
悠久の時を湛える道後温泉は、日本最古級の温泉として約3,000年もの歳月を重ねてきた。その歴史は縄文時代中期にまで遡り、冠山から出土した土器や石鏃が、太古の人々の営みを今に伝えている。温泉を中心に形成された集落の痕跡からは、古代より人々が湯の恵みを求めてこの地に集まっていた様子が窺える。
この地に伝わる神話は、日本書紀にも記されている。大国主命と少彦名命にまつわる物語は、温泉の霊験と神々の関わりを今に伝える貴重な伝承だ。病に伏せった少彦名命を大国主命がこの湯で癒したという説話は、道後温泉の医療的効能の古さを物語るとともに、古代日本人の温泉信仰の一端を示している。その霊泉は、千年以上の時を経た今もなお、変わることなく湧き続けている。
考古学的な発見も、この温泉の歴史的重要性を裏付けている。2005年11月、道後温泉本館の東隣で実施された発掘調査では、7世紀頃の地層から温泉成分である高濃度の硫黄とケイ藻の痕跡が確認された。この発見により、飛鳥時代には既に現在と同じ場所で温泉が湧出していたことが科学的に証明された。また、周辺からは奈良時代や平安時代の土器も多数出土しており、当時からこの地が交通の要衝として栄えていたことを示唆している。
飛鳥時代に聖徳太子が病気療養のためにこの地を訪れたという記録は、古代における道後温泉の名声を物語っている。その後も多くの皇族がこの温泉を訪れ、平安時代には歌枕としても詠まれるようになった。鎌倉時代には「道後山温泉寺縁起」が著され、温泉の効能や歴史が詳しく記録された。室町時代には連歌師たちがこの地を訪れ、その風情を句に詠んでいる。
江戸時代に入ると、道後温泉は松山藩の管理下で整備が進められ、より多くの湯治客を受け入れるようになった。しかし、自然の脅威に見舞われることもあった。1707年の宝永地震では湧出が停止するという試練に直面したが、145日後には再び湯が湧き出した。同様の事態は1854年の安政南海地震の際にも起こり、105日の沈黙を経て復活を遂げている。これらの出来事は、地下深くから湧き出す温泉と地殻変動との密接な関係を示すとともに、道後温泉の強靭な回復力を証明している。
近代に入ると、この温泉場は多くの文化人たちの心を捉えた。1795年には俳人・小林一茶が訪れ、温泉情緒を俳句に詠んでいる。1862年には蘭学者・緒方洪庵が来訪し、西洋医学の観点から温泉の効能を考察した。特に注目すべきは、1895年に松山中学の英語教師として赴任した夏目漱石の存在である。漱石はこの地で『坊っちゃん』の着想を得ただけでなく、温泉町の風情や人情を鮮やかに描き出し、後の日本文学に大きな影響を与えることとなった。
1894年に建てられた現在の道後温泉本館は、明治期の和洋折衷建築の傑作として知られている。三層楼閣の荘厳な佇まいは、当時の建築技術の粋を集めており、1994年には国の重要文化財として指定された。本館内部に設けられた又新殿は、明治天皇の行幸を想定して造られた特別浴室で、その豪華絢爛な意匠は、明治期の文明開化を象徴する建築として高い評価を受けている。
日本三古湯の一つとして名高い道後温泉は、現代においてもなお、その価値を高め続けている。湯治場としての機能を保ちながら、文化財としての保存も進められ、伝統と革新が共存する温泉地として世界的にも注目を集めている。温泉に纏わる数々の逸話や歴史的事実は、この地が単なる療養の場にとどまらず、日本の文化や歴史が交差する特別な場所であることを雄弁に物語っている。時代とともに変化を遂げながらも、道後温泉は今なお、日本の温泉文化を代表する存在として、悠然と湯煙を立ち昇らせ続けているのである。この温泉は、過去から未来へと続く日本の温泉文化の象徴として、これからも人々の心と体を癒し続けていくと思いきや、実は2019年から営業を制限しつあ。主には120年以上経過した建物の老朽化が原因である。この工事中は、年間80万人に登った訪問客も6割に、さらにコロナ禍の影響で20万人にまで減少した。
道後温泉の現状
伝統と革新が織りなす新時代の幕開けを、道後温泉は今、迎えている。2024年7月11日、約5年半の歳月を費やした保存修理工事を経て、道後温泉本館は満を持して全館営業の再開を果たした。この工事は、文化財としての価値を守りながら、現代の利用者の要望に応える繊細なバランスを追求した、まさに匠の技の結晶といえよう。
本館3階には、新たに「飛翔の間」「しらさぎの間」という2つの貸切室が設けられた。その名が示す通り、優雅な白鷺が羽ばたくように、訪れる人々の心を解き放つ空間として設計されている。また、洗面所の新設や脱衣室の内装刷新、最新の冷暖房設備の導入により、古き良き伝統を守りながらも、現代的な快適性を追求した空間が実現された。
料金体系も時代に即した見直しが行われ、神の湯の入浴料は700円となった。2階の趣ある休憩所の利用を含む神の湯のコースは1,300円に改定された。この値上げは、文化財の維持管理や施設の品質向上に必要な投資を見据えた、将来を見据えた判断といえよう。
さらに、道後温泉は特別なキャンペーンも展開している。2024年7月11日から2025年1月13日までの期間限定で、道後温泉本館、飛鳥乃湯泉、椿の湯を巡る3館周遊チケットを1,400円という魅力的な価格で提供している。これは通常価格から2割引きとなる特別価格であり、道後温泉の多彩な魅力を存分に堪能できる機会となっている。
現在、道後温泉は18本の源泉から湧き出る温泉を42℃程度に調整し、朝6時から夜23時まで、年中無休で営業を続けている。ただし、12月には施設の保守点検のため1日の休館日を設けており、これは悠久の歴史を紡ぐ温泉の持続可能性を守るための大切な取り組みである。
湯けむり立ち昇る本館には、いにしえの時代から変わらぬ温泉の恵みが今も息づいている。そこには、歴史的価値を守りながら、現代のニーズに応える新しい取り組みが見事に調和している。道後温泉は、まさに「不易流行」の精神を体現し、これからも日本の温泉文化の象徴として、新たな歴史の1ページを刻んでいくことだろう。
温泉に集う人々の笑顔と、静かに流れる時間の中で、道後温泉は今日も、伝統と革新の調和を奏でながら、悠然と湯煙を立ち昇らせ続けている。その姿は、日本の温泉文化の過去と未来を繋ぐ架け橋として、私たちの心に深い感銘を与えてやまないのである。
あとがき
次回は、世界の温泉について書いてみたい
その前に、独鈷の湯は道後だけでなく全国各地にある。
それは、空海の功績をたたえる民間伝承としてであろう、神格化されて各地に開湯伝説として伝わったのである。