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文化の日
まえがき
文化の日に顔真卿について、書いている
この日に書道について書いているので、今回もそうしようと思い
前回の↑記事の宿題をみると、杜甫と顔真卿とある・・・
たしかに同時代の人ではあるが、交流についてはどうなのだろう・・
おそらくそんな疑問もあって宿題にしたのであろうが、とにかくやるだけやってみよう(パセリ)
安史の乱について
安史の乱という未曾有の国難に際し、杜甫と顔真卿という二人の文人は、それぞれの立場から芸術的昇華を遂げた作品を残した。その記録は、時代を超えて今日なお我々の心を揺さぶり続けている。
杜甫は詩聖と称えられる詩人として、顔真卿は政治家にして書聖として、ともに乱世を生き抜いた。彼らの残した作品は、単なる時代の記録を超え、人間の魂の深奥に迫る芸術としての高みに達している。
まず、杜甫の「春望」は、安史の乱の渦中である天宝十六載(757年)、長安にて詠まれた作品である。「国破山河在」という冒頭句は、人為による国家の崩壊と、悠久の自然の営みとを鮮やかに対比させている。戦乱により荒廃した都の様子を前に、変わることなく連なる山々と流れ行く河の永遠性を詠うことで、人間世界の無常を浮き彫りにした。
この詩において特筆すべきは、個人の視点と国家の視点とを巧みに織り交ぜた構成である。「感時花濺涙」という句では、春の花を前にして時世を憂い涙する詩人の姿が描かれ、続く「恨別鳥驚心」では、別れを悲しむ鳥の声に我が身の境遇を重ねている。さらに「烽火連三月」では戦火の絶えない国土の惨状を詠い、「家書抵万金」では家族との離別と通信の困難さを嘆く。このように私的感情と公的視点とを行き来しながら、乱世の実相を重層的に描き出すことに成功している。
一方、顔真卿の「祭姪文稿」は、安史の乱で戦死した甥、顔季明への追悼文として、乾元元年(758年)に認められた。この作品は下書きでありながら、或いはむしろ下書きであるがゆえに、より生々しい感情の迸りを今に伝えている。書の遺品としては珍しい草稿であり、それだけに感情の起伏が文字の抑揚に如実に表れている点で、書道史上特異な位置を占める作品である。
顔真卿は平原太守として自ら戦場に赴き、部下たちと共に戦った武人でもあった。その彼が、最愛の甥の戦死という痛ましい出来事に直面し、筆を執って認めた文章には、戦乱の惨禍が生々しく記されている。とりわけ、甥の死を知らされた際の痛切な思いは、狂草に近い文字の揺らぎとなって表現されており、見る者の心を打つ。
両者の記録の特徴を比較すると、まず視点の相違が顕著である。杜甫は詩人として、いわば観察者の立場から戦乱の惨状を記録した。その眼差しは時に俯瞰的であり、時に細部に寄り添うものであった。対して顔真卿は、みずから戦場を知る武将として、また肉親を失った当事者として、より直接的な体験を記している。
表現方法においても、両者は対照的な特徴を示す。杜甫は五言律詩という整然たる形式の中に、戦乱の混沌と悲しみを昇華させた。厳格な韻律の枠組みの中で、感情を抑制的に表現することにより、かえって深い哀しみが浮かび上がる効果を生んでいる。一方、顔真卿は書という表現媒体を通じて、より直截的な感情の表出を行った。特に「祭姪文稿」における文字の揺らぎは、悲痛な感情が筆の運びに直接反映された結果であり、形式的な整斉を超えた表現力を獲得している。
両者は、それぞれの立場と表現手法の違いを超えて、安史の乱という時代の苦難を芸術として昇華させることに成功した。杜甫の詩は、戦乱の世を生きる人間の普遍的な悲しみを詠い上げ、顔真卿の書は、戦火の中で失われていく生命の痛みを文字に刻んだ。
不遇な二人
安史の乱という未曾有の国難に際し、杜甫と顔真卿という二人の文人は、それぞれの立場から芸術的昇華を遂げた作品を残した。その記録は、時代を超えて今日なお我々の心を揺さぶり続けている。
杜甫は、天宝三載(744年)に長安に遊び、十年の間、下級官吏として宮廷に仕えた。しかし、その才能にもかかわらず、大きな出世の機会には恵まれなかった。安禄山の反乱が勃発すると、杜甫は玄宗皇帝に従って蜀へ避難を試みたが、途中で捕らえられ、長安に連行された。この体験が後の「春望」などの名作の背景となる。
その後、杜甫は困難な流浪の日々を送ることとなる。永泰元年(765年)には成都の浣花草堂に居を構えたものの、そこでの平穏な生活も長くは続かなかった。反乱軍の襲来を避けて再び放浪の旅に出た杜甫は、最期まで落ち着く場所を得ることなく、大暦五年(770年)、湖南の長沙で世を去った。この漂泊の人生において、杜甫は数多くの名作を残している。「登高」「秋興八首」などの詩篇は、個人の苦難と国家の混乱とを重ね合わせ、深い洞察を示している。
一方の顔真卿は、開元二十九年(741年)の進士及第後、着実に官位を上げていった。安史の乱が勃発すると、平原太守として反乱軍と対峙し、数々の武功を立てた。特に、永泰元年(765年)には、叛将李希烈の乱を平定する際、説得による投降工作に成功している。この功績により、諫議大夫にまで昇進した。
しかし、顔真卿の人生もまた波乱に満ちていた。德宗の時代に入ると、朝廷における立場は次第に微妙なものとなり、ついには李希烈の再度の反乱鎮圧に向かった際、捕らえられて殺害されるという悲劇的な最期を迎えることとなる。
これについては、まえがきにあげたnoteを参照されたいが
ここでも少し書こう。
顔真卿の最期
徳宗の時代、朝廷では宰相・盧杞の専横が極まっていた。六十九歳にして吏部尚書として朝廷に戻った顔真卿は、その剛直な性格ゆえに、盧杞との対立を避けられなかった。朝廷の儀礼を重んじ、『礼儀集』を著した顔真卿。その真摯な姿勢は、私利私欲のために権力を振るう盧杞の目には、疎ましく映った。やがて盧杞は、表向きは昇進という形を取りながら、顔真卿を太子太師という閑職に追いやる。そして七十五歳。盧杞は最後の一手として、反乱を起こした李希烈を説得する使者として顔真卿を派遣する。周囲の反対の声も虚しく、顔真卿は蔡州へと向かった。捕らえられた顔真卿を救おうと、張薦は長安にいる李希烈の親族との人質交換を提案する。しかし、この案も盧杞によって握りつぶされてしまう。蔡州の龍興寺に移送されていた顔真卿のもとに、一人の使者が現れる。李希烈の弟が長安で処刑された報復のためだった。使者は「勅命」だと告げる。顔真卿は静かに尋ねた。「長安からの使者か」。使者が「長安でなく大梁だ」と答えると、顔真卿は毅然として言い放つ。「ならば逆賊だ。勅命とはなにごとだ」その言葉が空気を切り裂く。すぐさま首に縄がかけられ、顔真卿は縊り殺された。最期まで節を曲げることなく、己の信念を貫き通した生涯だった。その死は、理想を持って生きた一人の官僚の最期であると同時に、権力に屈しない魂の証でもあった。顔真卿の死後、盧杞の専横はさらに続いていく。しかし、顔真卿の残した気概は、後世に大きな影響を与え続けることとなる。
「祭姪文稿」に見られる激しい感情の表出は、単に甥の死を悼むだけでなく、乱世における人間の運命そのものへの痛切な思いを表現したものと解することもできよう。顔真卿は、書の大家として知られる一方で、実は多くの詩文も残している。その中には、戦乱の惨状を記録した作品も少なくない。
両者は、それぞれに波乱に満ちた人生を送りながら、芸術による表現を決して止めることはなかった。杜甫の漂泊の人生は、むしろ多様な地域の風物や人情を詠う機会となり、その詩業をより豊かなものとした。顔真卿もまた、政治的な浮き沈みの中で、書の芸術性をより深めていった。
後世、杜甫の詩は「詩聖」として、また顔真卿の書は「書聖」として、それぞれ最高の評価を受けることとなる。特に宋代以降、彼らの作品は文人たちの必須の学習対象となり、その影響は日本や朝鮮半島にまで及んだ。
二人の文人の生涯は、乱世における知識人の運命を如実に物語っている。しかし同時に、いかなる困難な状況にあっても、芸術的創造の営みを継続し得たという事実は、人間の精神の強靭さを示す証左となっている。その精神は、彼らの残した作品を通じて、今なお我々に語りかけているのである。
顔真卿の楷書
顔真卿の「自書告身帖」は、唐の建中元年(780年)、七十二歳の高齢にして認められた不朽の名作である。白麻紙に墨痕淋漓と認められたこの作品は、縦三十センチメートル、横二百二十センチメートルという堂々たる大きさを誇る。楷書三十三行、蠅頭の小楷十三行という構成で、全文三百八十六字からなる気迫に満ちた書である。
この作品が生まれた背景には、深い政治的含意が潜んでいる。表面上は栄誉ある太子少師、すなわち皇太子の教育係への転任辞令ではあったが、実質的には宰相盧杞による左遷の意図が込められていた。しかし、顔真卿はこの辞令を自らの手で認めることにより、逆境に屈しない強靭な精神を表現した。
「自書告身帖」の歴史的価値は計り知れない。顔真卿の肉筆楷書として現存する唯一の作品という稀少性に加え、その伝来の系譜も極めて由緒正しい。南宋の高宗より始まり、明代には韓世能、張維芑、徐守和の手を経て、清代に至っては安岐、さらには乾隆帝の内府にまで収められた。まさに中国書道史における至宝というべき作品である。
書法の技術的特徴において、本作品は顔真卿の円熟した技法の粋を示している。とりわけ特筆すべきは、縦画における送筆部分を最も太く表現することで生み出される迫力である。また、線の内側を直線的に保つことにより、文字の骨格における空間の美しさを見事に表現している。蚕頭燕尾と称される特徴的な筆法も、この作品において見事な均衡を保っている。
さらに注目すべきは、その精神性の表現である。名誉職とされる太子少師への任命ではあったが、そこには顔真卿の現役たらんとする強い意志が滲み出ている。七十二歳という高齢にもかかわらず、その筆致には衰えを感じさせない気迫が満ちている。この精神的強さこそが、本作品を単なる辞令書の域を超えた芸術作品たらしめている。
現在、この稀代の名品は日本の書道博物館に収蔵されている。唐代書道芸術の最高峰として、また顔真卿の代表的作品として、その価値は時を経るごとに増大している。「自書告身帖」は、書の芸術性と歴史的重要性とが見事に結実した作品として、今なお我々に深い感銘を与え続けているのである。
76歳という高齢でありながら、最後まで節を曲げなかった強い意志
「勅命」を装う使者に対し、真偽を見抜く冷静な判断力
死を目前にしても「逆賊」と断じる忠義の精神
この最期の場面は、顔真卿の生涯を貫いた「剛直不屈の精神」を象徴的に表している。彼の死は、単なる政治的な犠牲ではなく、理想と信念を貫いた殉教者としての死でもあるのだ。
あとがき
最期まで自説を曲げない強い意志と精神力が楷書の太い線に
その性格が現れている。彼の最期を思うと壮絶で思わずこの書をみて
楷書が嫌いになりそうな弱い自分を見つめるのである。