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思い出横丁の日

東京・新宿西口の一画に昭和の風情が残る飲食店などが建ち並ぶ商店街が
1999年11月24日に火災が発生、約70軒あった店舗の内、28軒が全半焼してしまったこの事件の自戒をこめて、東京都・新宿西口商店街振興組合が記念日を制定。

今日は、ダーウィンの「種の起源」が出版された日でもある。
浅学な私にとって、ウォレスの理論と進化論の区別がつかない。
ウォレスと同様の理論をよりあたため考え続けていたダーウィンが進化論の父とされている、とのことだ。
進化論が最近になって否定されているのは、浅学な読み方をしている人がいるのと、キリスト教の影響もあるのかもしれぬ(参考Note:油の日

専門家の記事を読むと、
ダーウィンはDNA理論については知らないが、ダーウィン理論の枠組みは今なお有効だという。そしてDNA理論も進化論を裏付けるデータとして活用でき、進化論は宗教ではなく、紛れもなく科学の活動の記録であるという。

Le cadre général du schéma darwinien demeure valable actuellement, et tout lecteur de l’Origine des espèces (1859) est frappé par la modernité des idées de Darwin. Celles-ci, révolutionnaires à l’époque, sont devenues les nôtres. Bien évidemment, Darwin n’avait pas tout compris et énormément de données lui étaient inconnues, comme celles concernant les mécanismes de l’hérédité. La génétique – qui s’est développée seulement à partir de 1900 – et la sélection naturelle seront ensuite intégrées dans une nouvelle version du darwinisme, la « théorie synthétique de l’évolution ». Cette théorie est fidèle à l’esprit des thèses de Darwin, mais elle est bien entendu plus développée et bien plus précise sur de nombreux points. Par exemple, à côté de la sélection naturelle, elle indique qu’une population peut se transformer génétiquement sous le seul effet du hasard, c’est ce que l’on appelle la dérive génétique. Ce mécanisme n’avait pas été envisagé par Darwin. Actuellement il reste de nombreux aspects ouverts à discussion. Par exemple, la question du niveau auquel opère la sélection naturelle est en ce moment très débattue (est-ce entre les gènes, les cellules, les organismes, les populations ?). Le développement récent de l’épigénétique fait également débat. La possibilité qu’une forme d’hérédité des caractères acquis puisse exister questionne en effet la généralité des modèles darwiniens utilisés depuis le milieu du XXe siècle. Tous ces débats sont évidemment le signe d’une réelle vitalité scientifique, dans la mesure où le « darwinisme » est bien une science et non une religion !

「種の起源」の第5章は、生物のバラつき具合について、詳細に補足し、
観察される変異が、身体の部位や、成長過程で一様ではないこと、もとの種類の形質に戻るような変化もあるなど、単純な説明は難しいことを記述していて、さらにその複雑性をうけて、続く2章(6,7章)では、生物が共通の祖先から変化した、そのメカニズムとしての自然選択という理論について考えうる不備や異論について、謙虚に可能な限りの反論を提示する。

 このような科学的な理論の積み上げの一方で、種についての定義が曖昧であったりすることがある。ダーウィン自身、「すべての博物学者を満足させた種の定義は一つもない、ただ、それでも博物学者なら誰でも種について述べるときは、それがどんな意味であるかを漠然とは知っている」としている。こうしたことから理解を間違えてしまう学者もいる。
 また、社会学などに進化論を適応するような、文系の似非進化論者まで現れてきて不毛な議論が続けられてもいる。まさしく逸脱の典型であり、19世紀の終わりから、この議論は今日でも存在しており、たとえば「ダーウィニズムが教えてくれるように、企業は競争力を維持するために適応しなければならない」と聞くことがある。 この種の定式化は、変革が個人(ここでは会社)のレベルで行われ、より良い「適応」(ファイナリズム)の方向で行われることを示唆する。 ダーウィンの選択は集団内の個人間で行われるが、集団の変化は選択の結論である。

La pensée de Darwin a été et demeure très mal comprise. Ce que l’on a appelé le « darwinisme social » est un exemple caractéristique de dévoiement. Dès la fin du XIXe siècle, on a voulu transposer le schéma darwinien dans le champ social. Ce discours est toujours présent actuellement et on entend par exemple parfois que « comme nous l’enseigne le darwinisme, les entreprises doivent s’adapter pour rester concurrentielles ». Ce genre de formulation suggère que la transformation a lieu à l’échelle de l’individu (ici l’entreprise) et se fait dans le sens d’une meilleure « adaptation » (finalisme). Alors que la sélection darwinienne se déroule entre les individus au sein d’une population : la transformation de la population est bien la conséquence de la sélection.

ダーウィンはこの理論を広く人類に役立てたいと願っていたこともまた間違えのないことである。そしてここで強調しておかないといけないのは、自然に対してやはり畏敬を抱いていることである。

このようにして、自然の戦いからすなわち飢餓と死から、われわれの考えうる最高の事柄、つまり高等動物の産出ということが、直接結果されるのである。生命は最初わずかのものあるいはただ一個のものに吹き込まれたとするこの見方、そしてこの惑星が確固たる重力法則にしたがって回転する間に、かくも単純な発端からきわめて美しくきわめて驚嘆すべき無限の形態が生じ、いまも生じつつあるというこの見方のなかには、壮大なものがある。

 自然淘汰の対象の自然から、人類はずいぶんと、逸脱してきてしまっている。肥満、高血糖、高血圧個体が増加しているのは、後天的なものである。こうした逸脱は、人類だけでなく、ペットとして飼った動物は野生動物よりも寿命が長く、肥満という問題も抱えてしまっている。また、身体だけでなく、心も逸脱している。アルコール、タバコ、鎮痛剤や、ゲームへの依存などが挙げられる。
 こうしたのも変異なのか・・・・あるいは、個体差なのか。
人それぞれだよと差別を嫌うあまり、他人をただあるがままに肯定する様(さま)は、小学校の廊下に掲げられている標語よろしく、思考停止を招かないだろうか。
ダーウィンは次のようにいう

変異の法則についてのわれわれの無知はふかいものである。

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 新宿は私は縁が薄いというわけではないが、郷愁みたいなものは、学生時代をすごした渋谷の方に感じる。このため、渋谷にも同様にあった飲み屋街が無残にもつぶされ、マークシティという複合施設ビルによって上書きされたときは、ちょっとした、故郷を失った喪失感に囚われた。思い出横丁の火事は、いまこそ進化のときだ潰せ!と思ったのであるが、なぜか生き残った。どういう自然淘汰で、思い出横丁だけ残されたのか、まさに個人差でなく、政治という歪んだ不公平なものや、あるいは最大多数の最大幸福といった論理で結果がそうなったということで、進化とは無縁であろう。マークシティみたいに再開発の対象としてしまうのは、進化の間違った捉え方の典型と、自分のこの記事の中で言及したことと同じ誤謬にほかならぬが、思い出横丁にしても渋谷のかつてあった飲み屋街にしても、自然からの逸脱によってできたものである。進化を考える前に、自然とはなにかを考えていくことこそが、欲望一辺倒な思考停止的な開発から人類の幸せを考えることにつながるだろう。
いまこそ、進化論を読み直しが迫られる時代であるともいえる。

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<来年の宿題>
・種の起源を読み直す
・自然について、AIについて
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