ピコ・デラ・ミランドラあるいはカバラ
今日は海外旅行の日である
私の定義では海外とは怪しさがないといけない
怪しさという表現がおかしければ、非日常がなければいけない。
さて、上記の課題をみるとピコ・デラ・ミランドラについてとある
復習がてら今日は書いてみよう
ピコ・デラ・ミランドラ
ピコ・デラ・ミランドラの思想、特に「人間の尊厳について」と「人間の役割の再定義」に関する考えは、彼の生涯の経験と学問的探求から生まれたものである。以下に、ピコがこのような思想を持つに至った背景と過程を詳しく説明してみよう。
ピコ・デラ・ミランドラ(1463-1494)は、イタリア・ルネサンス期の哲学者、人文主義者として知られている。彼の思想形成には、以下のような要因が大きく影響しているとされる
1. 多様な学問的背景:
ピコは若くして優れた才能を発揮し、ボローニャ大学で法律を、パドヴァ大学で教会法を学んだ。その後、各地で研鑽を積み、プラトンをギリシャ語で、旧約聖書をヘブライ語で読むほどの博識を身につけた。この幅広い学問的背景が、彼の思想の基盤となるのである。
2. フィレンツェでの経験:
1484年、21歳のピコはフィレンツェに赴き、メディチ家の「プラトン・アカデミー」に参加した。ここで彼は、当時の最先端の人文主義思想に触れ、特にマルシリオ・フィチーノの新プラトン主義的な思想から大きな影響を受けた。(今日はフィチーノの誕生日である)
3. カバラとの出会い:
ピコは、ユダヤ人学者ミトリダテスからカバラを学んだが、カバラとの出会いは、ピコの思想に革命的な影響を与えたのである。彼はカバラをキリスト教思想と融合させ、「キリスト教カバラ」という新しい思想の流れを生み出したのだ。
4. 諸思想の統合への志向:
ピコは、様々な哲学や宗教の根本は同じことを言おうとしていると考えた。この考えは、彼の「人間の尊厳について」や「900の提題」に反映されているのだ。
これらの背景を踏まえ、ピコの「人間の尊厳について」と「人間の役割の再定義」に関する思想を以下のように説明しよう。
ピコは「人間の尊厳について」で、人間を特別な存在として位置づけた。彼によれば、神は人間に定まった性質を与えず、自由意志によって自らの本性を決定する能力を与えたとする。この考えは、中世の固定的な世界観から大きく逸脱するものだった。
ピコは次のように述べている:
この文章は、ピコ・デラ・ミランドラの「人間の尊厳について」(De hominis dignitate)の中核を成す部分だ。力強さと人間の自由意志に対する深い洞察・・・とにかく、この言葉は、神が人間に与えた特別な地位を表現している、すなわち、
人間には予め定められた場所がない("ni place déterminée")
固有の姿もない("ni visage propre")
特別な才能も与えられていない("ni don particulier")
そして、これらの欠如こそが人間の最大の特権であるというのだ。なぜなら、人間は自らの意志と努力によって:
自分の場所を選び("ta place")
自分の姿を形作り("ton visage")
自分の才能を獲得する("tes dons")
ことができるからである。
この考えは、人間を神の被造物の中で特別な存在として位置づけるもので。人間は自由意志によって、獣のような下位の存在にも、神的な上位の存在にもなりうるとピコは主張したのだ。
さらに、ピコのカバラ研究は、「人間の役割の再定義」につながった。カバラでは、人間を単なる神の被造物ではなく、世界の修復(ティクン・オラム)に積極的に参加する存在として捉えるのだ。
ピコは、カバラの思想を取り入れることで、人間の役割をより積極的で創造的なものとして再定義し。人間は単に神の命令に従う存在ではなく、世界の完成に向けて能動的に働きかける存在となったという。
現在とパースペクティブが違うので、よく理解できない。
人間を特別扱いというのは、実は進化論もないこの時代には動物の一つではない。聖書の解釈と古代ギリシャの哲学が大元である。当時はむしろ、なにかを選び取れるような存在ではなかったのである。中世の世界観では、神を頂点とする階層的な秩序が存在して、人間はその中に位置づけられていた。
つまり、そういった点で神のほかの被造物と同じである、特別な存在ではないとされていたという意味である。でも自由意志はあるとはみなされていたが、その自由とはなんなのかはっきりとわからないというか当時のほかの思想体系と結びついた自由ということであった。でもピコが、上記のような自由を唱えたのである。
この思想は、ルネサンス期の人間中心主義的な世界観と結びつき、近代的な人間観の先駆けとなった。ピコの考えは、人間を固定的な存在ではなく、自己決定できる存在として描いたことで、中世からルネサンス、そして近代へと移行する過渡期において、新しい人間観と世界観を提示した画期的なものだったのだ。
ピコがこのような思想を持つようになった背景には、彼の幅広い学問的探求と、異なる思想体系を統合しようとする試みがあった。彼は、プラトン哲学、アリストテレス哲学、スコラ哲学、ユダヤ教のカバラ、イスラム哲学など、様々な思想を学び、それらの根底にある共通点を見出そうとしたのだ。
特に、カバラとの出会いは、ピコの思想に革命的な影響を与えたとされる。カバラの神秘主義的な世界観と、人間が世界の修復に参加するという考えは、ピコの人間観を大きく変え、カバラの思想をキリスト教の枠組みの中に取り入れることで、新しい人間観を構築したのだ。
カバラ
カバラは、ユダヤ教の神秘主義思想・伝統である。主な特徴は以下にまとめてみよう
起源と発展:
3世紀から6世紀頃に起源を持ち、中世スペインで発展。
13世紀以降、スペインのユダヤ人の著作により広がる。
主な思想:
神を信仰の対象ではなく認識の対象とし、直接神に近づくことを目指す
世界の創造を神からの10段階の流出過程として捉える
「生命の樹」という図式を用いて宇宙と人間の秘密を表現
重要な文献:
『セーフェル・イェツィーラー』(形成の書)
『ゾーハル』(光輝の書)
『セーフェル・ハ・バーヒール』(清明の書)45
影響:
15世紀以降、キリスト教世界にも大きな影響を与えることに
ルネサンス期には、ピコ・デラ・ミランドラらによってキリスト教と融合
特徴的な概念:
セフィロト(神の10の属性)
ゲマトリア(文字と数の神秘的対応)
カバラは、ユダヤ教の伝統に基づきながらも、
独自の宇宙観や神秘的解釈を持つ複雑な思想体系
カバラの神へのアプローチ
1. 能動的アプローチ:
カバラでは、人間が積極的に神に近づくことを奨励する。単に神の命令に従うだけでなく、自らの意志と努力によって神との結びつきを深めるのだ。
2. 神秘的体験の重視:
カバラは個人的な神秘体験を通じて神との直接的なつながりを求める。これは、伝統的なユダヤ教の律法遵守とは異なるアプローチだ。
3. 宇宙の構造理解:
カバラは、神から世界が創造される過程を「セフィロト」という概念で説明。この知識を通じて、人間が宇宙の秘密を理解し、神に近づくことができる。
4. 人間の役割の再定義:
カバラでは、人間を単なる神の被造物ではなく、世界の修復(ティクン・オラム)に積極的に参加する存在。
5. 内なる神性の探求:
カバラは、人間の内にある神性の側面(「神の火花」)を見出し、それを育むことを重視する。
6. 象徴的解釈:
聖典を字義通りではなく、象徴的に解釈することで、より深い真理を見出そうとする
統計学は現代のカバラとなるか
古代の神秘思想であるカバラと、現代の科学的手法である統計学。一見すると、これら二つの分野は全く異なる世界に属しているように思われる。しかし、その本質を見極めれば、両者の間には驚くべき類似性が浮かび上がってくる。カバラは、宇宙の秩序と人間の存在の意味を、数と文字の神秘的な関係性の中に見出そうとした。それは、表面的には混沌とした世界の裏に潜む、深遠なる真理を解き明かすための試みであった。カバラの探求者たちは、聖なる書物に記された文字の組み合わせを通じて、神の意志を理解しようと努めたのである。同様に、統計学もまた、一見無秩序に見えるデータの海の中から、隠された法則性を見出そうとする。統計学者たちは、数学的な手法を駆使して、膨大な情報の中から意味のあるパターンを抽出し、未来を予測しようと試みる。この意味において、統計学はデータという新たな「聖典」を解読する、現代の秘儀と言えるかもしれない。例えば、ある企業が膨大な顧客データを収集したとする。一見すると、それらのデータは無秩序に見えるかもしれない。しかし、統計学の手法を用いることで、顧客の行動パターンや嗜好性が浮かび上がってくる。これは、まさにカバラの探求者たちが、一見無意味な文字の羅列の中から、神の意志を読み取ろうとしたことと類似している。また、カバラが宇宙の構造を「セフィロト」の概念で説明しようとしたように、統計学もまた、データの背後にある複雑な関係性を、数理モデルという形で表現しようとする。例えば、経済学の分野では、様々な経済指標の関係性を、複雑な数式で表現することがある。これは、まさにカバラの探求者たちが、神の創造の過程を「セフィロト」の流出として描いたことと、概念的に類似しているのである。さらに、カバラが個人の魂の成長と宇宙の理解を目指したように、統計学もまた、個々のデータポイントから全体像を把握し、より深い洞察を得ることを目的としている。例えば、医学の分野では、個々の患者のデータを統計的に分析することで、疾病の原因や治療法に関する新たな知見が得られることがある。これは、カバラの探求者たちが、個人の魂の旅路から宇宙の真理を悟ろうとしたことと、精神的に通じるものがあるだろう。しかし、カバラと統計学の間には、重要な違いも存在する。カバラが神秘的な直感と個人的な体験を重視したのに対し、統計学は厳密な数学的論理に基づいている。カバラが秘教的な知識として、選ばれた者にのみ伝えられたのに対し、統計学は科学的な方法論として、広く開かれた学問となっている。とはいえ、現代社会において統計学が果たす役割は、かつてカバラが担っていた役割と驚くほど似通っている。不確実性に満ちた現代世界において、人々は統計学による予測と分析を頼りに、意思決定を行っているのである。ビジネスの世界では、統計的な市場分析に基づいて経営戦略が立てられる。医療の現場では、統計的な臨床試験の結果が、新薬の開発や治療方針の決定に用いられる。政治の舞台では、世論調査の統計データが、選挙戦略や政策立案に活用されるのである。この意味において、統計学は現代人の意思決定を導く「神託」となっていると言えるかもしれない。それは、不確実な未来に対する人々の不安を和らげ、合理的な判断を下すための指針を与えてくれるのである。また、統計学の習得には、高度な数学的知識と論理的思考力が要求される。データの背後に潜む真理を読み解くためには、複雑な統計モデルを理解し、適切に運用する能力が必要とされる。この点において、統計学は一種の「秘儀」的な性格を帯びている。それは、選ばれた者のみが到達できる知の領域なのである。実際、現代社会において統計学の専門家は、まさに「データの神官」とも呼ぶべき存在となっている。彼らは、データの海を自在に操り、そこから意味ある知見を引き出すことができる。企業や政府機関は、統計学の専門家の助言を求めて、重要な意思決定を委ねているのである。このように見てくると、統計学は現代社会における「知の探求」の最前線に位置づけられるべき学問であることがわかる。それは、データという新たな「神託」を通じて、世界の真理に迫ろうとする営みなのである。ただし、統計学が科学的な方法論に基づいている以上、それが導き出す知見は、あくまでも確率的なものにとどまる。統計学は、不確実性を完全に払拭することはできない。この点において、統計学はカバラとは異なる謙虚さを持っていると言えるだろう。とはいえ、統計学が現代社会に与えるインパクトの大きさは、もはや無視できないものとなっている。ビッグデータ時代の到来とともに、統計学の重要性はますます高まっているのである。例えば、インターネット上の膨大なデータを分析することで、人々の行動パターンや嗜好性を予測することが可能になっている。これは、マーケティングや広告の分野に革命をもたらしつつある。また、医療の分野では、ゲノムデータの統計解析によって、個人に最適化された治療法の開発が進められている。これらの事例は、統計学が現代社会を根底から変えつつあることを示している。それは、まさに「データの錬金術」とも呼ぶべき営みなのである。このように見てくると、統計学は単なる数学の一分野ではなく、現代における知の探求の最前線に位置する学問であることがわかる。それは、データという新たな「聖典」を解読することで、世界の真理に迫ろうとする、現代の知的冒険なのである。そして、この冒険に挑む統計学者たちは、まさに現代のカバリストたちと呼ぶにふさわしい存在なのかもしれない。彼らは、データの海を航海する「知の探求者」であり、その航海の果てに見出される真理は、現代社会を導く羅針盤となるのである。かくして、統計学は現代のカバラとなる。それは、数字の海に潜む真理を追い求め、世界の秩序を解き明かそうとする、崇高なる探求の道なのである。
あとがき
最後のほうがは、ちょっと筆が滑ってる感があるが、
フィチーノから、ピコ・デラ・ミランドラそしてカバラにつながる流れある
カバラは、宇宙の秩序と人間の存在の意味を数と文字の神秘的な関係性から読み解こうとした。同様に、統計学もまた、膨大なデータの中に潜む法則性を数学的手法によって明らかにしようとする。両者ともに、表面的には混沌としたものの中に秩序を見出そうとする試みなのである。
そして、カバラ同様それを読み解くには特別な訓練が必要であったことはいうまでもない。統計学もリテラシーが必要となるところは変わらない。
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