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初夢の日

まえがき

さっそく今日の記事を書いていくことにしよう。
私の指針に付随して、価値観の固定化をなるべく防ぎたいという姿勢がある。そうすることが、自分や物事を相対化していくことに繋がると思う。
常識に囚われるなんて、すごくもったいないと思うのである。
なので、本noteではなるべく世界的な視野で、なるべく自分の固定観念を壊す方向で書いていくことにする。さっそく、各国はどんな新年をすごしているのかみてみる。

各国の新年

世界の新年は、その土地の文化や歴史、そして人々の想いが織りなす壮大な祝祭として、実に多彩な形で表現されている。新年を迎える喜びという普遍的な感情が、それぞれの地域で独自の発展を遂げ、豊かな文化的表現となっている。

旧暦による新年は、東アジアを中心に深い精神性と華やかさを兼ね備えた祝祭として今なお人々の心を魅了している。中国の春節は、その代表格と言えるだろう。街中が赤い提灯や対聯で彩られ、爆竹の音が響き渡る様は圧巻である。特に、北京の胡同で見た獅子舞は、古き良き伝統と現代の活気が見事に調和した光景として今でも鮮明に記憶に残っている。

韓国のソルラルでは、家族の絆が最も重視される。ソウルの伝統的な韓屋で、祖先を敬い、トッククを食する家族の姿には心打たれるものがある。ベトナムのテトもまた、独特の魅力を放つ祝祭だ。ハノイの旧市街で見た金色と赤色の装飾、そして空気に漂うバインチュンの香りは、春の訪れを華やかに告げる風物詩となっている。

新暦による新年は、より現代的な祝い方が主流となっている。ニューヨークのタイムズスクエアで体験した年越しの興奮は格別だ。数十万の人々が一斉に歓声を上げ、見知らぬ者同士がキスを交わす瞬間には、人類の一体感すら感じられた。ロンドンでは、テムズ川に映る花火と「オールド・ラング・サイン」の調べが、古都の風格と現代の華やぎを見事に融合させている。

リオデジャネイロのコパカバーナビーチで迎えたヘベイヨン。白い服に身を包んだ人々が波打ち際で新年を祝う姿は、南半球の夏の熱気と祝祭の高揚感が溶け合った独特の光景を作り出す。

その他の新年の祝い方も実に興味深い。タイのソンクラーンの水かけ祭りは、単なる娯楽ではなく、穢れを清め、新たな出発を願う深い精神性を持つ儀式である。
ロシアの新年は、厳寒の地で育まれた独自の文化を色濃く反映している。家族でペリメニを作り、もみの木の周りに集う時間は、寒さを愛おしさに変える不思議な魔法のようであるという。

このように、世界各地の新年の祝い方は、その土地の風土や歴史、そして人々の願いが複雑に絡み合って形作られている。しかし、その根底には常に、新たな始まりへの期待と希望という普遍的な想いが流れているのだ。

水掛けまつり

東南アジアの水掛け祭りについて タイとミャンマーに着目して、ちょっとnoteしておく。

タイのソンクラーンは、4月13日から15日にかけて行われる伝統行事である。この時期、バンコクからチェンマイまで、タイ全土が水しぶきと歓声に包まれる。私が特に注目するのは、この祭りにおける「水」の二重性だ。一方では仏像や年長者に対する清らかな浄水として敬意を表現し、他方では若者たちの間で交わされる活気に満ちた遊びの道具となる。この二面性こそが、タイ社会における伝統と現代性の共存を象徴的に表現していると考えられる。

一方、ミャンマーのティンジャンは4月13日から16日まで行われ、より強い宗教的意味合いを帯びている。特に人々が過去の罪や不運を洗い流すという精神的な浄化の儀式としての側面でいうと、街中で水を掛け合う光景は一見タイと似ているが、その背後にある文化的文脈は微妙に異なる。伝統的な音楽やダンスと組み合わさることで、より複層的な文化表現となっているのだ。

両国の水掛け祭りが4月中旬に行われ、新年を祝う行事として位置づけられているのは興味深い事実である。これは、インド文明の影響を受けた仏教文化圏における暦の共通性に起因する。しかし、この表面的な類似性の下に、それぞれの社会が育んできた独自の文化的解釈や実践が存在する。

水を掛け合うという行為は、人類学的に見れば極めて象徴的な意味を持つ。それは単なる肉体的な清めを超えて、社会的紐帯の再確認や、階層構造の一時的な解消という機能を果たしている。特に注目すべきは、この祭りが持つ「コミュニタス」的性質だ。普段の社会的地位や役割が一時的に宙づりにされ、水を介した直接的な交流が可能になる空間が創出されるのである。


それぞれの起源

では、それぞれの起源はどんな違いがあるのか、ちょっとnoteしておこう。

東南アジアの水掛け祭りの起源を探る。タイのソンクラーンとミャンマーのティンジャンという二つの祭りは、その語源を辿ると、それぞれサンスクリット語の'saṃkrānti'とパーリ語の'Sankanta'に行き着く。これは極めて示唆的な発見だ。両者とも「移動」や「経路」を意味し、より具体的には太陽の運行、特に白羊宮(おひつじ座)への移動を表している。

私の興味はこの天文学的な意味付けが、両国でどのように異なる文化的解釈を生み出したかという点だ。タイのソンクラーンは、15世紀のアユタヤ時代に遡る記録が存在する。当初は仏像や仏塔に清水をかけて新年の邪気を払う、極めて儀礼的な性格を持つ行事だった。さらに注目すべきは、この祭りが農事暦と密接に結びついていたという事実だ。農作業の区切りとして新年を迎えるという解釈は、タイ社会の農耕文化との深い結びつきを示している。

一方、ミャンマーのティンジャンには、より直接的な精神的浄化の意味が込められている。過去の罪や不運を水で洗い流すという考え方が、社会の中で極めて具体的な形で表現されている点だ。これは単なる象徴的な行為を超えて、人々の心理的な再生や更新の機会として機能している。

両国の水掛け祭りは、確かにテラワーダ仏教圏という共通の文化的基盤の上に成り立っている。しかし、その実践と解釈には微妙な違いが存在する。タイでは仏像や仏塔への清めという宗教的儀礼から発展した一方、ミャンマーではより個人的な精神浄化の側面が強調される。この違いは、同じ仏教文化圏でありながら、それぞれの社会が独自の文化的解釈を発展させてきた証左と言えるだろう。

さらに興味深いのは、タイにおける農作業との関連性だ。これは単なる暦の問題を超えて、社会の生産活動と祭礼の統合という、より深い文化的な意味を持っている。一方、ミャンマーではこのような農耕との結びつきは比較的希薄で、より純粋に宗教的・精神的な意味付けが強調される傾向にある。


タイとミャンマーの水掛け祭りは、表面的には似通った特徴を持ちながら、それぞれの社会の文化的文脈の中で独自の発展を遂げてきた。これは、東南アジアにおける文化伝播と独自発展の複雑な相互関係を理解する上で、極めて示唆に富む事例だと言える。

あとがき

これからは、東南アジアの時代になると勝手に思っている
それは、各国の平均年齢である、日本はもはや老年の国であり、お隣の中国だってそうである。平均年齢が若い国のほうが、これから発展する。
これから発展する国のほうが私には魅力的に映る。

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