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黒の日
まえがき
↑は、2020年の9月6日に書いた記事である。
高山宏にあこがれて話を広げすぎて
とっ散らかった感じがする記事である。
今日はさらに散らかそうと思う。
黒に染める
本朝ピクチャレスク
この本だけではなく、高山宏の本はどの本でもそうだが
博覧強記ゆえに多岐にわたるので、要約はできないが、
テーマについては語ることはできる。
1.視覚の大変革
2.ピクチャレスク
3.江戸文化論
ピクチャレスクについては、まえがきで引用した記事に拙く紹介はしているが、ヨーロッパで興った文化潮流である。この本では、本朝(日本のこと)
ピクチャレスクである。
つまりは、江戸について書かれた本なのであるが、
博物学、見世物、観相学、表彰文化などを横断して語られる。
そして、日本の視覚文化の変化の特徴を浮き彫りにしている。
題名は黒に染めるだが、文章は極彩色に織り上げたテクストである。
18世紀から19世紀にかけての黒に染めるという行為を通じて、日本の視覚文化が大きく変革していく過程を詳細に分析し、独自の視点から描きだしている。それは、単なる美術様式を超えて日本人の世界観、自然観、社会構造の変化とも密接に関連していることを示す。
History of Ideas が日本にもきた!ということである。
History of Idea
History of Ideasとは、大雑把に説明すると、人々の考えていることが、音楽、文学、美術にまずは天才たちによって掲げられ、それが時代の文化潮流となった歴史のことである。
どんなものを美しいと感じるのか、見たいと思うのかは当然のことながら時代によって移り変わる。その変化には当然、原因や理由がある。
たとえば、地下鉄がロンドンにできたのが19世紀なかばで、19世紀末に
地下構造ともいえる構造を思索に取り入れられる。すなわちフロイトの下意識とマルクスの下部構造である。これが20世紀を席巻する(Idea)考え方に変わっていくのである。
ピクチャレスク
まず風景画の隆盛が挙げられる。ウィリアム・ギルピンに代表されるピクチャレスク理論家たちは、自然の中に「絵画的な」美を見出し、それを描くことを奨励した。これにより、かつては宗教画や肖像画に比べ軽視されていた風景画が、芸術の一ジャンルとして確立されるに至った。
この変化の原因としては、産業革命に伴う都市化の進展が挙げられる。自然から遠ざかりつつあった都市住民たちは、理想化された自然の風景に憧れを抱くようになった。また、啓蒙思想の影響により、自然を科学的・客観的に観察する視点が広まったことも、この変革を後押しした。さらに、ピクチャレスクの概念は、グランドツアーと呼ばれる教育的旅行の流行と密接に結びついていた。若い貴族たちは、イタリアを中心とする欧州各地を巡り、古典的な美を体験することが求められた。この過程で、彼らは風景の「絵画的な」美しさを発見し、それを記録するために風景画や素描を残した。クロード・ロランやサルヴァトール・ローザの絵画は、そうした旅行者たちの美的基準となり、実際の風景を見る際の「フィルター」として機能した。
そして、日本にも当然にこれは来るのである。
なぜなら構造的変化だからである。鎖国しようがしまいがそれは来るのである。
葛飾北斎の「富嶽三十六景」のなかの「甲州三坂水面」では、画面の大部分が黒く塗られている。これは当時の浮世絵としては非常に大胆で革新的な表現方法である。黒い部分は夜の湖面を表現しており、その中に富士山のシルエットが白く浮かび上がっている。
この端緒から、墨絵や水墨画、着物でいえば黒紋付袴、茶道の黒楽茶碗、
建築の数寄屋づくりの黒い焼杉、庭園の黒砂利、、、、
構造とそれを担う者
構造的なダイナミズムは運命のごとく避けられないが、当然変化を担うのは人間である。潮流の実現を支える技巧や業師、伝える者と、実際に仕上げる人がいて、その潮流の一コマになるのである。長崎などには出島があり、そこからバタビア人も日本に来ていた。鎖国があっても人の感銘は鎖をつけられないし閉じ込められない。
さらに、黒の表現と濃淡は、この動きを後押しする、遠近法を表現する技術として、ピクチャレスクが本朝が変化するのを手伝う。ここに視覚変革の受容がなるのである。
そして、黒という色の価値も変わっていく。
冠位十二階では、黒い冠は低い身分を表した。黒はそういう色だったのだ。
(おそらく中国の影響)ところが、今日では黒は格調高い色になる。
柔道や空手の有段者は黒帯をつける。
黒の深淵に宿る気品
前項はやや私見も入ったものの見方だが、さらにその私見を推し進めよう。
我々は幾多の困難と不確実性に直面する。その道のりは時に暗闇に覆われ、前途の見えぬ不安に心を蝕まれることもある。しかし、日本の美意識が教えてくれるのは、この暗闇こそが、我々に最も貴重な教訓をもたらす源泉であるということだ。黒という色彩は、古来より死や喪失、恐怖の象徴とされてきた。しかし、日本の美意識はこの黒を逆説的に捉え、その中に深遠なる美と智慧を見出してきた。墨絵の濃淡、漆器の艶やかな表面、茶室の静寂 ー これらは全て、黒が内包する無限の可能性を表現している。人生の困難や不確実性もまた、この黒に喩えることができよう。一見すると不吉で避けるべきもののように思えるが、実はそこには計り知れない価値が潜んでいる。困難に直面し、それを乗り越えることで、我々は成長し、より深い洞察を得る。不確実性に身を委ねることで、予期せぬ機会や新たな視点を獲得する。禅の教えが説くように、無の中に全てが宿る。黒い画面に描かれた一筆の白線(キアロスクーロ)が、鑑賞者の想像力を刺激し、無限の世界を創造するように、人生の暗闇もまた、我々の内なる創造性と可能性を呼び覚ます。そして、この黒を受け入れる姿勢は、単なる諦観ではない。それは、不確実性を恐れるのではなく、むしろそれを歓迎し、そこから学びを得ようとする積極的な態度である。茶道の侘び寂びの精神が教えるように、不完全さの中にこそ真の美が宿る。人生もまた、その不完全さゆえに美しく、価値あるものなのだ。我々は、人生の黒い部分を恐れるのではなく、それを受け入れ、そこから学ぶべきである。その姿勢こそが、真の智慧と成長をもたらす。黒の深淵に身を委ねることで、我々は自己の本質に触れ、より豊かな人生を紡ぎ出すことができる。
PS:
黒に関する、自分の書いた記事がある