314回 むすんでひらいて
10年ぶりくらいに、腱鞘炎になった。
利き手の右手ではなく、左手だ。前回もそうだった。左手を使い過ぎた覚えはないし、特になにか無理な力をかけるようなこともしていない。
それなのに、なぜ。
前の勤め先の病院では、カルテがまだ手書きであった。
精神科の場合、患者さんとのやり取りなどカルテに書く内容が結構膨大になるので、手書きだとかなり辛い。特に私は筆圧が強いので、ボールペンで書いていても量が多ければ手は疲れる。
と書けば、ペンを持つ右手が腱鞘炎になるはずと思うだろう。ところがこれが違ったのだ。右手はもう何十年も筆記をするのに慣れているので、いくら筆圧が強いと言ってもそれなりに力を上手く分散して書くように無意識のうちに調節していると思われる。なのでそれだけ毎日毎日カルテを書いていても、腱鞘炎になることはなかった。
ではどうして左手がなったのか。実はそれだけの分量が書かれているカルテは重い。そのカルテを机の側にあるトレイから左手で出し入れしていたことが、主な原因ではないかと睨んでいる。
しかし段々痛みが酷くなって左手が役に立たなくなってきたので、近くの整形外科を受診したところ、体育会系のドクターに「これは加齢のせいだね!」とはっきり言われてしまった。確かに調べてみると、更年期の女性に好発すると書いてある。加齢か…とちょっとがっかりしたが、まあ加齢なら仕方ない。
腱鞘炎というのは、その名の通り腱鞘の炎症のことだ。手関節(手首)に起こる腱鞘炎には、ドケルバン病(狭窄性腱鞘炎)という名前がついている。
手関節の母指(親指)側にある「手背第1コンパートメント」と呼ばれる腱鞘と、そこを通過する腱に炎症が起こると、腱が腱鞘を通るのがスムーズでなくなり、痛みや腫れが生じる。この手背第1コンパートメントは手関節のところにある鞘で、短母指伸筋腱と長母指伸筋腱がその中をトンネルのように通過している。短母指伸筋腱は、主に母指の第2関節を伸ばす働きをしており、長母指伸筋腱は、母指を広げる働きをする。どちらも日常的に頻繁に行われる動作だ。
また第1コンパートメント内には、上記の2つの腱を分ける隔壁が存在するので、狭窄が生じやすいと言われている。母指を使い過ぎると、腱鞘が肥厚したり腱の表面が傷ついたりして炎症や疼痛が生じるが、使わないわけにもいかないため痛くても動かしていると、それが刺激になって更に悪循環になってしまう。
腱鞘炎の診断は、母指を小指側に牽引した時に痛みが強くなるかどうか(フィンケルシュタインテスト)や、母指を中にして握った手を小指側に傾けると痛みが強くなるかどうか(フィルケンシュタインテスト変法)で行われる。
私の場合はもう見るからに腱鞘の部分が腫れて熱感もあったので、テストするまでもなかった。なかったが、ドクターに母指を引っ張られて悲鳴を上げる羽目になった。「うん、腱鞘炎に間違いないね」と嬉しそうなドクター。私は嬉しくない。
炎症が続いたため狭窄が悪化し腱と腱鞘が癒着していたようで、受診した時には母指を広げることができなくなっていた。それまでサポーター装着で安静を保ったりはしていたが、左手とは言えどうしても使わないわけにはいかないから、悪化してしまったのである。
普通ならステロイド注射といった保存的な治療と固定で様子をみるのだろうが、もう癒着するまでになっていたのでそれでは物足りないと考えたのだろう。ドクターは局所麻酔の注射を患部に打った後、えいっとばかりに私の左の母指を外側に広げた。この時確かに、ペリペリと何かが剥がれる感触があったのをよく覚えている。
あ、母指が広げられる、と感激して帰った30分後、激烈な痛みが患部を襲った。局所麻酔がきれたのである。私は肝臓の代謝が非常に良いらしく、とにかく麻酔が短時間できれやすい。慌ててロキソニンを飲んだがすぐには効いてくれず、痛いよー痛いよーとしばらく泣いていた。
スムーズに動くようになるまでこの治療には何回か通ったが、最初で懲りて次回からは事前にしっかりロキソニンを内服してから臨むことにしたのだった。
こうしていったんは治ったかに思えた左手の腱鞘炎だったが、最近また徐々に痛みと可動域制限(動かせる範囲)が再燃してきた。見るからに腫れていて赤味もある。今回も左手には特に何も負荷をかけていなかったつもりなので、きっとまた加齢のせいなのだろう。
うーん困ったな、また整形外科受診かなと悩みつつ、何気なく左手で何かをやろうとした瞬間、ピキッというような感覚の後にとんでもない痛みが襲ってきた。痛い。とても痛い。少し母指を動かすだけで痛い。でも待てよ、母指広げられるよね?
おそらくまだそれ程癒着していなかったところを、整形外科のドクターにやられたように自分で剥がしてしまったものと思われる。その日はずっと刺されるような痛みが続き、ロキソニンを飲んでもサポーターで固定しても痛かったが、次に日になると昨日の痛みが嘘のようになくなり、母指もよく動かせるようになっていた。
今は母指を回すとわずかに引っかかりがある方向はあるが、概ねスムーズに動く。
意図せずしてやってしまった荒療治のおかげである。
手を酷使する職業といえば、楽器奏者が思い浮かぶ。
実際に手領域の疾患は多いようだが、これまで日本にはそういった職業の人向けの専門外来はなかったそうだ。欧米では「パフォーミングアーツ医学」という音楽家やダンサーなど手を使う人専門の医学領域は1980年代から発展しているそうだが、日本ではアスリート向けの外来はあっても、音楽家向けというのはなかった。
音楽家にとって楽器を演奏する手というのは、単に治れば良いというものではない。なので実際に外来で演奏してもらうことで、手自体に問題があるのか、演奏方法に問題があるのかも診断する。演奏動作というものは、複雑で巧緻で非常に難易度の高いものだ。痛みだけでなく、指先の感覚に障害があっても、思った通りの演奏はできない。
この外来を受診する楽器奏者は、ピアノ、ヴァイオリン、フルート、ギターが多いそうだが、中でもピアノが大半を占めるという。確かにピアニストは両手の指をフルに使って演奏する。いや指だけでなく、手から体幹にかけて、つまり身体全体を使っているわけだ。かえって指だけで弾いているようだと負担がかかり、それこそ腱鞘炎にもなりやすくなる。
しっかり体幹を鍛えて安定させるということは、何もピアニストだけでなくどんな動作を行うにつけても、大事なことなのだと思う。
腱鞘炎が保存的治療で改善しなかったり再発を繰り返したりすれば、腱鞘の鞘を切り開く腱鞘切開という手術が必要となる。
最近ではスマホの使い過ぎでなる人も多いという。私は今の若者のように、片手でスマホを持って母指だけで操作することはしないが、そうやっている人を見ると異常に母指だけを酷使しているのがよくわかる。
たかが腱鞘炎と侮るなかれ。
指1本使えないだけでもかなり不便なのに、それが母指とあらば日常生活に支障を来すことは間違いない。
これからも加齢を重ねるわけだから、できるだけ長持ちするように大事に使っていかねばならぬと、心に誓う私であった。
登場した疾患:腱鞘炎
→ドケルバン病以外で有名なのは、ばね指(弾発指)である。指の付け根で屈筋腱と弾帯性腱鞘の間で炎症が起こると、腱鞘の部分での腱の動きがスムーズでなくなり、痛みや腫れが生じる。進行すると、指を曲げようとすると反対にピンと伸びてしまう「ばね現象」が出現してばね指となり、更に進行すると指が曲がらなくなってしまう。
今回のBGM:「ヴェクサシオン」エリック・サティ作曲 / イェローン・ファン・フェーン演奏
→同じフレーズを840回繰り返す最長のピアノ曲。ヴェクサシオンとは「嫌がらせ」という意味だそう。普通は初演のジョン・ケージ等による演奏のように、数人が交代で弾くのだが、これは1人で演奏した録音である。腱鞘炎にならなかったのだろうか。
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