198回 モーション・ドランカー


物心ついた時から、乗り物に酔いやすかった。
車は言うに及ばず、電車ももちろん、公園の遊具で遊んでいて酔ったことだってある。テーマパークのアトラクションなど、もってのほかだ。
小学校の遠足でバスに乗るときなど恐怖である。
酔い止めを飲みビニール袋を持参し、できるだけ前の方の窓際の席にしてもらっても、次第に気持ち悪くなってくる。級友たちがはしゃぐ車内で、誰も話しかけないでくれと眉間に皺を寄せて、目的地に着くまでひとりでうなっていたことが思い出される。
なまじっか視力が良いので、車窓の景色を見れば目が疲れて頭が痛くなり、だからといって目を閉じていると、今度はバスの揺れが強調されて感じ取られて余計に気持ち悪くなる。どちらにせよ乗っている間ずっと緊張しっぱなしなので、到着する頃にはいつも疲れ切っていた。

電車の方がまだましであったが、それもモノによる。
平成5年、中央線の特急あずさに「揺れが少なく酔いにくい」というのが売りの、振り子式特急が配車された。当時東京と松本を往復する機会が多かったため、その車両に当たる確率が高かったのだが、これにはまいった。
振り子式という名前の通り、カーブを曲がるたびに左右に揺れる揺れる。その度に体が振り回されるので、なんとか頭ができるだけ動かないようにと踏ん張るのだが、それでも揺れることにはかわりない。
この振り子式車両の原理は、カーブを曲がる時に車体そのものを内側に傾斜させることによって遠心力を打ち消すということにあり、スピードアップと乗り心地の向上を図る目的で開発されたものである。ところが実際はスピードアップはともかく、乗り心地は決して良いものではなかった。
どこが「揺れが少なく酔いにくい」だと呪いの言葉を吐きながら、早く着きますようにと祈っていたことを思い出す。

そもそも乗り物酔いというのは「動揺病」とも呼ばれるように、止まっている時には起こらない。
揺れや不規則な減速加速の反復などが内耳にもたらす情報と、視覚や体感の情報との間にずれがあったり、情報量が多すぎたりすると、情報を受けた脳が混乱を来す。内耳からの情報は通常、体のバランスをコントロールする役割の、前庭小脳というところに送られて適度に調節される。激しい揺れなどの過度な刺激が送られるとこの前庭小脳が混乱して、上手く調節されてない情報を大脳に送ってしまう。そうすると大脳の空間識と呼ばれる機能が「不快」と判断し、視床下部がそれに反応することで自律神経の働きが乱れるという仕組みだ。
つまり脳がバグったことから生じる自律神経系の病的な反応が、乗り物酔いの正体である。自律神経系が異常になるため、眩暈や嘔気・嘔吐などの症状が引き起こされる。
乗り物酔いには、精神的な影響も大きい。何度も不快な経験をすると、次に乗る時も起こるかもという予期不安が生じて、そのストレスで引き起こされることもある。また嗅覚もかなり影響が大きく、私はクルマの内装の合成皮革やビニールの匂いが駄目だった。

乗り物酔いを克服するために、以前は内耳を鍛えると言って積極的に揺れるものに乗って慣らすといいと言われていた。
慣らすということ自体は正解なのだが、それは内耳が鍛えられるのではなく、脳が情報のずれに慣れて不快に思わなくなるからなのだそうだ。なので最初からずれが不快ではない脳を持つ人というのは、乗り物酔いになりにくい。
あとは進行方向に向いて座ることで、視覚情報とのずれをできるだけ小さくすることも有効だ。運転している人が車に酔わないのは、次にどう動くかがわかっているので、脳が混乱しないことが大きい。
間違っても電車の中で座席を回転させて、進行方向に対して後ろ向きになど座ってはいけない。
ちょっと意外なのは、便秘も乗り物酔いのリスクになるということである。腸の動きも自律神経がコントロールしているため、腸内環境が乱れていると自律神経にも影響が出るのだ。

酔い止めの薬としては、トラベルミンが有名だろう。
主な成分は抗ヒスタミン剤である。抗ヒスタミン剤はアレルギーの薬として使われることが多いが、鎮暈作用という眩暈に対する治療薬としても用いられることがあり、嘔吐中枢への刺激や内耳前庭の自律神経反射を抑制する働きをする。
その他にも副交感神経遮断作用を持つ成分や、中には胃粘膜局所麻酔成分が含まれているものもあり、手を替え品を替えなんとか酔わないようにしてくれるのである。
面白いのは、中枢神経興奮成分として無水カフェインが含まれているものもあることだ。脳を軽く興奮させることで、混乱を抑えたり頭痛を軽減する効果があり、また抗ヒスタミン剤の副作用として出る眠気を抑える働きもするとのこと。

ちなみに私は酔い止めは全くと言っていいほど、効かなかった。
もとより薬が効きにくい体質というか、あっという間に代謝してしまうのですぐに効果がなくなるため、事前に飲んでも長い道中もたないのである。
さすがに今では車や電車で酔うことはまずなくなったが、船だけは苦手である。1泊2日でクルーズ船に乗ったら、東京湾から外洋に出た途端酔って動けなくなった。
どんな豪華客船でも二度と船には乗るものかと、このとき心にかたく誓ったのであった。


登場した車両:振り子式
→日本の電車は山間部を走ることが多いので、カーブが多くスピードが出せない。そこで国鉄時代の昭和48年に世界初の自然振り子式電車381系が開発され、特急しなのに搭載された。しかしカーブを曲がった直後の揺れ戻しが激しく、乗り物酔いになる客が続出したそうだ。ほらー。その後いろいろ改良されたが、振り子式車両は平成が終わると共に廃止されて、現在は車体傾斜装置に取って代わられている。
今回のBGM:「酒とバラの日々」by ヘンリー・マンシーニ
→まあ酔うといってもいろいろあるから。今回のタイトルは造語で、正しくは乗り物酔いは「motion sickness」。

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