324回 コミュニケーション・オーバーフロー
SNSを開く。
スクロールすると流れてくる、理不尽な社会情勢、腹が立つ政治の貧困、興味がない広告。
トレンドに並ぶ言葉は無視しようとしても、ずっと表示されていると段々気になってきて、つい見てしまう。肝心なフォロイーの投稿は間引きして表示されている上に、フォローしてしまった企業のアカウントから流れてくる大量の情報に埋もれて、なかなか辿り着けない。
あなたも日々そういう経験をしてはいないか。
完璧主義とは違うのだが、全部隅から隅まで確認しないと気が済まない性分なので、SNSも見ていない部分が残っていると落ち着かない。なのでつい前回開いた時に見たところまで遡って、全てもれなく確認してしまう。
それだけでかなりの労力を消費していると思うのだが、やらずにはいられないのは、もう十分依存になっているということだろう。あまりにも膨大な量になると見るだけで時間が取られるので、定期的にフォローを外したりリツイートを制限したりするのだが、それでも多い。当然目も手も疲弊する。
見なければいいというのはわかっている。確認しなければ落ち着かないというのはもう、強迫神経症と言ってもおかしくない。全ての情報を咀嚼することは不可能だ。わかってはいるが、やらずにはいられないというのは、大変よろしくない。
それに加えて昨今はSNSの種類自体が増えている。TwitterがXになってから劣化が激しいため、他のSNSに移動する人も多い。いくつものSNSを使い分けている場合もあるので、そうすると他でもフォローして読みたくなる。キリがないのだ。
このような状態はFOMO(fear of missing out 見逃すことへの恐怖)と呼ばれている。SNSのどこにも「真実」や「正解」は落ちていないのに、あろうことか「事実」さえも今や定かではなくなっている。フェイクニュースはもはや当たり前で、全て疑ってかかった方がいいくらいだ。
それにしてもインターネットがなかった時代、いったい何をして時間を過ごしていただろう。
もっと本を読んでいただろうか。パートナーといろんなボードゲームをした気がする。ああ、その頃はまだTVも楽しかった。
動画は好まないので、YouTubeなどを観ることはない。それでもSNSにこれだけ時間を取られるのだから、配信される動画を観ていればそれだけで時間はあっという間に溶ける。暇を潰すのにこれほど便利なアイテムはないが、いつの間にか暇だけでなく他の時間までも侵食されてゆく。
公共交通機関に乗るとほぼ全ての人がスマホを見ている。ずっと動画を観ている人もいれば、絶え間なくクリックを続けあちこちただ流し見している人もいる。
いつの間にか我々は「何もしない」ことをしなくなった。もはや「何もしない」ことを恐れていると言ってもいい。寝ている時間以外、少しでも空いている時間があると、まるで1秒でも無駄にするのが惜しいようにスマホを手にする。
怒涛のように流れゆく情報に置いていかれないように。知らなくてもいい情報を少しでも拾い上げないと生きていけないかのように。
SNSで虐殺や動物虐待といった悲惨なニュースが目に入る。
見たらきっと気分が悪くなり心が傷つく。それがわかっていてもクリックして読んでしまう。そしてそれに関連するリンクやコメントを沢山辿り、結局辛い気持ちだけが残る。
このようにSNSで延々とマイナスの情報を掘り下げてしまう行為を、「doomscrolling ドゥームスクローリング」という。コロナ禍に生まれた言葉だ。家に閉じこもってこれからどうなるのか不安に怯えながら、人々はひたすらSNSをスクロールし続けた。
「doom」というのは元々「世界の終り」や「破滅」を意味する言葉だそうだ。
SNSを見ても世界の終りを回避できるわけではない。それどころかかえって破滅に向かって転げ落ちていきそうである。不安を積極的に増やす必要はない。今すぐ天が落ちてくるわけではないのに、SNSを見ていると明日にでも世界が終わるような気になってくる。
こういうのを「杞憂」というのだ。
そして厄介なのが、SNSは承認欲求と非常に相性が良いということである。
いいねが付かない、既読スルーだ、フォロワー数が増えない、などなど。気にしなければいいなどという建前を言っても仕方ない。
SNSをやっている以上、このような承認欲求を完全に排除するのは難しい。知ったこっちゃないと言えるのなら、初めからSNSなどやっていないからだ。
一時期「インスタ映え」が問題になったことがあった。いいねの数を競って、食べ物を粗末に扱ったり、危険な行為や非常識な行動をわざとやる人が増え、とうとういいねの数は他人には見えないようにするという変更に至ったが、本人はわかるのだから抜本的な解決にはならないのは自明である。
SNSなんて独り言を言い合っていればいいのだ。「王様の耳はロバの耳」と虚空に向かっていっていれば良かったものを、返事が返ってきてしまうからいけないのだ。
またSNSではその匿名性を利用して、悪質な誹謗中傷が行われることも多い。
そのせいで赤の他人が命を断つまでになる事件が、何件も起きている。やっと最近になって誹謗中傷を書き込んだ投稿者の開示請求が行われるようになっているが、少しは抑止力になっているだろうか。もしそうだとしても亡くなった人は返ってこないし、裁判を起こすにしても多大な労力と時間がかかる。
言葉は双刃の剣だ。匿名だろうがなんだろうが、自分の言葉には責任が伴う。SNSというのは閉じた空間ではない。世界に開かれたインターネットという広大な海に放たれた言葉は、たとえ後で消したとしても何処かに残り続ける。
それを常に意識しながらSNSに関わらなければならないのだが、その自覚がない人が多すぎる。
現代はコミュニケーション過多であると同時に、コミュニケーション不全の時代でもある。
社会にいれば否が応でもなんらかのコミュニケーションは取らざるを得ないわけだが、SNSというのはやらなくてもいいようなコミュニケーションをせっせとやっているに等しい。そのくせ現実の生活では他人と上手くコミュニケーションが取れない悩みを持つ人も多いだろう。
スマホ依存、SNS中毒。
つながっていないと不安だが、つながっていても不安なら、それはもうやめた方がましだ。
ここまで書いて気付いたが、私はSNS中毒ではなく、情報中毒なのかもしれない。
孤独耐性は強い方で承認欲求もそれほどではない。
しかし全てを知っておきたいという情報に対する貪欲さは、自分でもかなりだと思う。
Curiosity killed the cat.
自戒の念を込めて、何事も程々にしておきたい。
登場した言葉:SNS
→言わずと知れた「social network service」のこと。1997年に誕生した「SixDegrees.com」が原型と言われている。日本では2004年に登場した「mixi」で一気に一般化したが、次第にTwitterやInstagramに押されて衰退。最近「mixi2」が登場して、他のSNSに疲れた往年のmixiユーザーが殺到した。さて今後どうなるか。
今回のBGM:オラトリオ「最後の審判」 ルイ・シュポーア作曲 ボルトン&モーツァルテウム管弦楽団/ザルツブルク・バッハ合唱団
→シュポーアはヴァイオリニストでもあり、近代的なヴァイオリン奏法の確立に寄与した。ヴァイオリンの顎当ては、1820年頃シュポーアによって発明されたという。それまでは安定して演奏ができなくて大変だったらしい。偉大な発明である。