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ひとつひとつ

そこまでの頻度ではないけれど、見た夢や思い立ったことをそのまま言葉にして記録するのにtwitterを使い始めてみて、手軽に記録ができる感じが気に入りだしている今日この頃。twitterで書いてる文章は、文字数を気にする上での修正以外はほぼしていない生々しい言葉の羅列になっている。

今朝、忘れたくなくて昨日過ごした時間のことを少し言葉にした。半年ぶりに再会した友人とは、お互いに話しだしたら止まらなくて、日帰り温泉という本来の目的すらもどうでもよくなってしまい(笑)、次々場所を変えては、お互いに話し続けること丸1日、笑ったり泣いたりしながら共有した時間はあっという間に過ぎてしまった。「会話」や「対話」って双方向ででしか成り立たないよな、とつくづく思う。相手の話も凄く聞きたいし、自分からも相手に共有したい考えや想いがある。ただ受け止め続けるのでもなく、一緒に考えたりしながら、でもそこには善し悪しの判断自体もない。そんなコミュニケーションから得られるものの大きさを体験することができた1日だった。今もまだなんかジーンとしてる。

友人にただただありがとう。

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画像:日帰り温泉に行く途中で遭遇したニホンザル@湯の山温泉

今朝、少し遅めに起きてキッチンへ行くと、なにやらそこには険悪な空気が漂っていた。両親それぞれの虫の居所というやつが悪いという場面に遭遇。今朝は、子供頃に同じような場面に出くわしたときに感じる「苦手感」を思い出すきっかけとなった。子供の頃よく遭遇したシーンは、一見、父と母の言い争いだったりするのだが、その背後には祖母(母にとっては姑)の存在があって、子供のわたしには、父・祖母VS母という構図に見えていたのだった。その構図のせいか、父と母が離れてしまうのではないか、親子3人がバラバラになってしまうのではないか、という恐怖感をいつも感じて、直接言い争う場面にはいなかった祖母を探しにいって両親二人をなだめるよう頼んだり、責めたり、あの手この手を使ってその恐怖感を遠ざけようとしていたことを結構今でもリアルに思い出せる。

そうやって「父と母の間」に入ろうとしてきた「子供」であるわたしの行為は、家族の座的セオリーでいくと、子供が親より「大きく」なろうとしているに等しい行為なのだ。端的に言うと「出過ぎた真似」というやつだ。自分より大きな存在である「親」の問題は、「親」である大人たちに託すより他ない。そうやって、わたしは「親と親の間に居場所を持とうとする子供」で長年あり続けてきた気がする。もちろん、無意識に、もちろん、愛ゆえに。過去これまでにその「父と母の間」というポジションに居ることをやめようと思ったことは、何度も、何度もあった。それでもなお、今朝、昔から慣れ親しんだ類の「両親の険悪モード」という匂いを嗅いだ時、無意識にまた「父と母の間」に居続けようとする自分を観てしまった。自分のその無意識な習性のしつこさを体感したからこそ、「ああ、もう彼らの間に居続けることはこの瞬間からやめよう。」と心底思った次第。

いくつの頃からかわからないが、30代半ば~後半あたりからだろうか、時間をかけて、自分に属さないものを握り続けた手をそっと広げ、その手の中に握りしめていたものを一つずつ手放していく作業をしているわけだけれど、その小さな一つ一つの積み重ねを大切にしていきたいよね、と、昨日一緒に時間を過ごした友人と話していた。この小さくて地味な作業プロセスを限りなく自然に共有し合える人たちがいてくれることのありがたさは、何にも代えがたい。そんな場と機会を創っていくことが2020年始められたらステキだな、なんてことも少し脳裏を過る年の瀬。

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画像:支留比亜のハムエッグトースト。もちろん美味い。

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