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四つ星に魅せられて―「トラぺジウム」感想―


はじめに

 7月4日。おそらくこれが書き終わり、投稿される頃にはこの映画は多くの劇場で公開終了を迎えてしまうだろう。あと一週間やるというところや、セカンドランで上映するというところもあるらしいが、一度区切りがつくタイミングだ。
 だからこそ、というわけではないが。丁度今日、初めてこの映画に、そして小説に触れた人間として感想を残したいと思う。

※「トラぺジウム」映画、小説などのネタバレを一部含みます。事前に情報を入れたくない場合、読むことは非推奨です。

映画「トラぺジウム」

鑑賞前

 そもそも何故こんな上映最終日のような日に初めて見に行ったのか。

 理由は明白だった。同時期に「ウマ娘 プリティーダービー 新時代の扉」が上映されていたからだ。僕は生粋のアグネスタキオンファンだったため、5月に公開されてからというもの映画館に足を運ぶたびに新時代の扉を開け続けた。旧Twitter(現𝕏)でひたすら「トラぺジウムはいいですよ…」と女将が勧めているのを見ながら、どちらを見るかむっちゃ悩んだりもしながら、5~6月と僕はウマ娘と付き合い続けた。何ならコラボカフェにも行った。タキオンのアクスタも買った。

 そうこうとウマ娘にかまけているうちに、だんだんとタイムリミットが迫り始めていた。映画というものは、無限列車編やゲ謎など―それこそウマ娘も片足は突っ込んでいるが―超人気作品でもなければ上映終了までの期間は短い。気が付いた時には既に猶予がなく、こんなタイミングまで来てしまったというわけだ。

 そして訪れた7月4日。丁度予定も午後に一つあるだけで、これは絶好の映画日和だなと朝から「トラぺジウム」を見ると決めていた。用事を済ませ、近くの映画館を探すとちょうどいい時間を発見し、そこに向かうこととした。

 その段階で僕が持っていた知識というのは、おおむね旧Twitterで流れてきたもので、「AKB系の人が原作」「東ゆうという少女が東西南北のメンバーを集めてアイドルをやろうとするが、結局うまくいかない」「なんか老人がヘイトを買うらしい」「その老人が内村さん」「四聖獣」「ネットのあの界隈が推している」など、その程度だった。
 僕がもともとこういうアイドル物が好きである(以前の作品だと「アイの歌声を聞かせて」も見に行った)ことや、特定の界隈(僕はあの界隈の正式名称を知らないが、「ラブデスター」とか「キン肉マン」はそこで知った)が激推ししていることから、どのくらい好みにハマるかは120%の大当たりor70%くらいの当たりのどちらかなのではないかと考えていた。

 そんな形で、半ば期待し、半ば試されるような気持ちで見たわけだが、結果としては120%好みにされた、という感覚だった。順を追って説明していこう。

前半の不安定さ―東ゆうの危うさ―

 映画の最初に始まるのはいわゆる「仲間集め」のターンだ。東ゆうが"南さん"こと華鳥蘭子を皮切りに、大河くるみ、亀井美嘉と未来のアイドル候補生を選定していくことになるのだが、ここで気になって来るのは東ゆうの彼女らに対する選定方法だ。
 蘭子に対しては“お蝶婦人”で心を掴み、くるみに対しては多少搦め手ではあるが真司を使うことで距離を縮めていくわけだが、美嘉に関しては他二人に対して多少雑にというか、成り行きでメンバーに入れることになる。てっきり他二人のように北にも候補がいるように思わせて、何なら「さて、北をどうするか」とか北野候補が相当な難物なのかと思わせておいて、その上で候補がいなかったというオチに持っていかれているのがどうにも先行きが不安になる。そういう妥協をしてもいいのか。

 その上で、山登りのシーンは印象的だ。美嘉と仲を深めること、ボランティア活動に手を伸ばせること、4人の写真を撮れる可能性があることなど、一石二鳥どころか三鳥四鳥を狙って強引に予定をねじ込んだゆうだったが、当日に2-2でメンバーを分けられてしまう。それに対する不満や、蘭子くるみに対する罪悪感、計画が崩れたことによる焦燥感でゆうが明確にむすっとするのだが、これはゆうの不安定さがとてもよくわかるシーンとなっている。アクシデントに弱いのだ。
 この場では結局雨降って地固まるといった形で仲が深まるのだが、その後の工業祭でのライブに誘う→サチちゃんに引っ張られて頓挫という場面でもなかなか切り替えられずにいる。ここから、立て直しができない上に腹芸もできないという欠点が見えてくる。

 ついでに言えば、取捨選択がはっきりしすぎているという欠点も見られる。テレビ出演のために始めた翁琉城のバイトは番組後は全くいかなくなっているし、山登りの後は結局ババハウスの方に出入りすることもなくなっていただろう。サチと工業祭でした約束もあくまでその時限りのもの(もしくは自分の確信に依るもの)であって、彼女のために成し遂げるわけではなかった。人とのつながりを大事にしないという点では東西南北内でも同じで、そこにはゆうの「人を利用する」という精神が垣間見える。

丁寧な伏線回収と「途切れ」の作為性

 そのような危うさを抱えつつも、ゆうは古賀さんによってなんとかテレビ出演を果たし、あれよあれよとアイドルへの道を駆け上がっていくこととなる。途中で蘭子がくるみを励ます際に言っていた「流れに身を任せれば」という言葉をよそに、どんどん流れは速くなっていく。

 その段階で浮き彫りになっていくのが、ゆうと他メンバーとの意識の違いだ。美嘉の彼氏バレやくるみのあがり症な面、蘭子の楽観的な姿勢など、アイドルに対して病的なまでに真摯なゆうと他三人との間に溝が生まれていくことになる。
 しかし、実際これらは初めから示されていた要素でもある。ゆうは美嘉とのファーストインプレッションの際に「男好き」と称しているし、翁琉城のテレビ出演の際にくるみはドタキャンしている。蘭子に関しては、そもそも最初の出会いの段階からケ・セラ・セラ的な思考回路が見え隠れしていた。もともとがゆうを中心とした寄せ集めの4人である以上、またゆう以外はアイドルになろうと思ってテレビに出ていたわけでもないため、このような歪みが出てくるのは時間の問題だっただろう。

 そして、流れは急に途切れる。印象深いのは、4人の新曲を作るとなった際に流れていたデモ曲が突然途切れる場面だろうか。ここは特にアイドルにすべてを捧げているゆうと他三人との決定的な違いを見せる場面でもあり、蘭子は「本を読んでいるだけで終わってしまった」、美嘉は「収録とかもある(ここはうろ覚え)」、くるみは「テスト勉強」とアイドル活動以外の理由でそれぞれ歌詞を考えられなかったとしている。これまでも何個か積み重ねはあったものの、ここをきっかけとして物語は急速に流れを曲げていく。

東西南北の決壊と、それから

 結局のところ、くるみの爆発をはじめとして、ゆうに付いていけなくなった3人がステージを降りることによって東西南北(仮)は終わりを迎えることになる。そして、ここからがこの映画の本当の見せ場だと僕は考える。

 普通の話なら、グループが解散して、ゆうもアイドルを辞めて、でも古賀さんからCDの話を聞いて、その上であのラジオのシーンを踏まえてそこで締めるというのが話の落としどころとしても綺麗だろう。実際見ているときの僕はそう思っていた。一応ではあるが、ふわっとしたままだった過去のゆうと美嘉の話も済ませている。切れるならここか……と思っていたのだが。

 終わらなかった。ラジオを聞いている4人(+サチ)が出てきた後、不意に「なりたい自分」は途切れ、CDショップの場面に移る。何が起きるのかと身構えていれば、最後に一つアツい展開を差し込んできたのだ。そう、全員集合だ。
 その上で、和解と本音のぶつけ合い、歌詞の宿題、それから合唱と粒ぞろいで見たかった場面が見せられていく。最初のもどかしさや不安をここにおいてすべて流してしまう。

 その上で、さらに時間は過ぎる。年を経て、再び会い、そうしてラストのあの場面に収束されていく。「トラぺジウム」という題字を見たときに、とてもそれが美しいものに見えた。

 ということで、映画としては本当に120点の出来だったと思う。僕は好きだった。綺麗な面だけでも汚い面だけでもなく、双方踏まえたうえで続いて行った世界の先が見れた気分だった。

小説「トラぺジウム」を踏まえて

 映画が終わった後、ちょうど下に本屋があったため原作小説を手に取ってみた。ここでは小説内の描写と比較したうえで、改めて映画のシーンについて言及したい。

「アイドル」と「進路」の二項対立

 これは小説を読んで驚いたことなのだが、原作ではアイドルの打診が来るのは全体の8割ほどを過ぎてからだった。映画での体感の尺としては1:1もしくは2:1くらいだったので、いかにアイドルパートを重点的に描いていたかがわかるだろう。

 具体的に何が削られたかとなると、真っ先に「進路」についてだろう。小説版では、ゆうは進路志望書や進路説明会など彼女自身が進む先に対して考える機会を与えられている。また、そこに重なるように学校の宿題や幼馴染なども登場するなど、「アイドル」と対比されるように現実の話が持ち出される。映画ではそれこそ蘭子の進路については触れられていたが、他の要素に関しては大幅に削られている。
 これに関しては、恐らく今回の映画で描きたかったものが「アイドル」に絞られていたから、という理由だと考えている。東ゆうという少女を改めて映像化するにあたって、他の要素による濁りを排除する考えだったのではないか。学業面や学校での交友関係などはゆうの人間性を表すうえで必要だが、それ以上のものは今回の映画ではむしろ邪魔になってしまったからだと考えている。

東ゆうにとっての「嘘」

 これに関連して、僕が小説を読んで一番納得した点として、「東ゆうは嘘が下手だ」ということがある。
 前の項で彼女は腹芸ができない(自分の感情を素直に出してしまう)ということには触れていたが、本来なら東ゆうとしてはそこは初めに直すべきところなはずだ。負の感情を隠せないというのはそれだけでデメリットとなる。何故隠さないのだろうか、と思っていたのだが、答えとしては意外と単純で「できないから」だった。

 確かに、準備をしてきたものに関しては基本完璧だったゆうがアクシデントに弱いというのも、状況に対応できない理由として「方便が使えない」というなら納得がいく。ついでにあんなに直接的に悪感情を美嘉や蘭子にぶつけていたり、それを素直に謝れたりすることにも説明がつく。それしかできないのだ。意外なところで不器用さが見えた。正直あまり周りにいて欲しくないタイプではあるが、かわいいと思う。

カメラの切り替わりと場所の固定化

 また、小説と映画の違いとして、カメラの動き方が挙げられる。言い換えれば「場面転換の少なさ」だろうか。これは特にメインのシーンに当てはまり、顕著なのは工業祭だろう。

 小説版では集合→くるみ合流→先輩にライブに誘われる→タピオカ取りに戻る→サチ発見→くるみ残ってライブ側の蘭子美嘉にゆうが説明→二人もそっちに、ゆうのみライブ鑑賞→再合流、という流れになる。場面数としては8シーンとなり、少し展開としては重たく感じてしまう。
 映画では、ここは集合→くるみ合流→ゆうがライブ鑑賞を提案もサチ発見→サチと回るためライブを諦める、4シーンに短縮されており、また場所の移動も少ない。流れが単純化されており、なおかつ情報の圧縮もできている。

 これは他の場面でも応用されている。例えば喫茶店のシーンは、小説では「腰を据えて話をする」場所として使われていた。真司との会合だけでなく、解散後に4人で集まった会場も喫茶店だった。しかし、映画においては喫茶店は「真司との密会の場所」としての意味のみを持たせ、場面の持つ情報を単純化している。その代わりに、東西南北で集まる場所としては翁琉城の近くの高台の空き地やフードコートの一角を当て、都度リフレインさせることによって視聴者にその役割を伝えている。
 特に空き地に関しては、映画で幅を取ったアイドルになるパートにおいての4人の定位置として描かれている。いつも練習をしている場所として、また大事な時に集まれる場所として空き地が描かれており、そのため終盤のCDのシーンで全員がそこに集まる理由付けとしても用いられている。

ラストの一言

 最後に一つ。実は小説と映画では終わり方が異なっている。
 映画ではほとんど真司と話すことなく写真の中を巡っていき、最後にあの写真に辿り着くのだが、小説だとそこにもう一言、真司からゆうに対しての言葉がある。

 この言葉が映画で使われなかった理由として、僕は視点の違いだと考えている。
 真司からゆうに投げかけられるこの言葉は、昔の彼女からの言葉への返答となる言葉だ。しかし、それはある意味で「他人からの承認」になってしまう危険性を孕んでいる。
 ゆうが映画の中で受ける試練は「アイドルへの向き合い方」「他者との付き合い方」であり、それに対する回答は彼女自身の中で見つけるしかなかった。そしてそれを見つけた以上、彼女にはもう他者からの言葉は必要ないのだ。だからこそ、真司は写真展に彼女を招いて、ただそれだけの関係で終わることになる。

 少しだけ追記すると、恐らくこのセリフは作者自身を重ねた労いの言葉にも見えるから「東ゆう」には向かないと判断して使わなかったという説もあるのだが、これは本当に憶測なので憶測にとどめておく。失礼な気もするので。

おわりに

「方位自身」の歌詞

 小説の「方位自身」と映画の「方位自身」は立位置が変わっていおり、その影響もあって歌詞も相当変わっている。
 雰囲気としては映画の方がより前向きに、より明るく先を見るという要素が強くなっているように感じた。映画における「方位自身」は叶わなかった夢の話であり、帰らない過去からこれからの未来を見る歌になっているようだった。東西南北の四人がそれぞれに見つけた、これまでとこれからの話をしているようで、それがとても好ましく、それでいて寂しく思えた。

 4つの星がそれぞれに光るこの作品に触れられて本当に良かったと思っている。できればもう一回は劇場で見たい、劇場音響で見る価値がある作品だった。


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