歴史探訪カレンダー 2024年12月
第3回 今川貞世(了俊)さん 卜部兼好さん 命松丸さん 今川氏親さん 瀬名氏貞さん
2024年も最後の月。今月はいきなり大勢出てきます。
卜部兼好さん (1283~1352)
「徒然草」の作者、兼好法師としても知られ、今川貞世さん(1326~1420?)とは親交がありました。兼好さんは神道の家で、一般には吉田兼好としても通っていますが吉田流卜部氏の出であるからとされています。しかし、現代では吉田流卜部氏の出である事自体も室町時代の神道家、吉田兼倶さんの捏造だったのではないか、という見解もあります。本稿では吉田流占部氏の出自であるという説をとりますが、以後、呼び名としては「兼好法師」を用いる事にします。
命松丸さん (生没年不詳)
今回の主人公です。兼好法師の侍童として、主に今川貞世さん著とされる資料でその存在が記録されていますが実在したかどうかは定かではありません。本稿はファンタジー指向なので実在説をとります。今川貞世さんによると、兼好法師が亡くなった後、庵のあちこち、ふすま等に貼ってある原稿を剥がして整理して持ってくる様に命松丸さんに指示を出し、後に「徒然草」として出版した、という事になっていますが、これについても真偽の程は定かではありません。
命松丸さんは今川貞世さんに連れられて駿河、瀬名の地にやってきます。今川貞世さんはその後遠江に行ってしまいますが、命松丸さんはその後も瀬名館に居続けた様です。命松丸さんの子は荻野左衛門尉を名乗り、さらにその子である荻野太郎右衛門尉の時正長の乱に功があり、今川家に仕えたとされています。その子孫の荻野帯刀さんの代には瀬名砦(壘)に居住していましたが、後に子孫が静岡市の牛妻村に土着、さらにその子孫として荻野伊予守政元さんの名が見える、という事になっています。今川家では今川義元さんが当主の時代です。
我が家ではご先祖様として知られているのが荻野伊予守政元さんで、そこから16代後が筆者の世代になる事が分かっています。荻野伊予守政元さんより前が本当に命松丸さんにつながるのであれば、まちがいなく先祖様といえるのかもしれないと思いますが、命松丸さんが実在が怪しい人物だとすると、筆者も実は実在しないのかもしれません。
ともあれ先述のお師匠様である兼好法師ともどもこれからはもう少し注目して色々書いていきたい人物ではあります。
今川氏親さん (1471/1473~1526)
駿河今川家の九代目当主です。義元パパでもあり、北条早雲こと伊勢宗瑞さんの甥っ子になります。氏親さんが幼名龍王丸(たつおうまる)さんと呼ばれていた頃、1476年、とーちゃんの今川義忠さん(1436~1476)が戦死した後、一部の家臣が義忠さんのイトコ小鹿範満さん(?~1487)を擁立してお家騒動が勃発しました。堀越公方の足利政知さん(1435~1491)や執事の上杉政憲さん(?~1487)と扇谷上杉家家宰の太田道灌さん(1432~1486)をも巻き込みました。このお家騒動で父、伊勢盛時さんの命を受けて調停役として活躍したのが伊勢盛時さん(1432~1519)、後の北条宗瑞(早雲)さんでした。彼は龍王丸さんが成人するまで範満さんが家督を預かるという案でその場をまとめましたが、龍王丸さんが成人しても範満さんは家督を返そうとはしませんでした。1487年、龍王丸さんは、ママの北川殿(?~1529)と京都の九代将軍足利義尚さん(1465~1489)に仕えていた伊勢盛時さんに再び助けを求めました。これを受け、盛時さんは駿河に下向し、今の焼津市にあった石脇城を拠点にして今川館に攻撃をしかけ、範満さんを見事討ち取りました。この時の範満さんには、嘗て頼みの綱としていた太田道灌さんは暗殺されて既になく、堀越公方足利政知さんは幕府との折り合いから方針を変えており、助けはなかったと見られています。
龍王丸さんは晴れて今川館に入って氏親を名乗りました。
実は元服してから氏親を名乗るまでに数年かかっていますが国内安定や堀越公方足利政知さんとの対立など、諸問題がひと通り落ち着くまで幼名のままだった、と言われています。
この後もごたごたは続き、戦場は三河まで拡がり松平家や武田家も出てきて大乱戦となります。武田家の信虎さん(1494~1574)とはこの後も長きにわたって戦い続ける事になります。信虎さんは晴信(1521~1573)ぱぱです。
その戦乱の最中、1505年頃に中御門 宣胤(なかのみかど のぶたね)さん(1442~1525)の娘、後の寿桂尼さん(?~1568)になる女性を正室に迎えました。これにより京都とのつながりが強まり、京の文化の駿河への導入が進んだとされますが、応仁の乱以来の戦乱で荒れ果てた京から脱出して今川を頼って駿河の地に来た文化人を今川家が保護したからともいえます。また、氏親さん本人も和歌と連歌が好きでした。実際、以前義忠さんに仕えていて、義忠さん戦死のお家騒動の時に京に逃れていた連歌師の宗長さん(1448~1532)が1496年、京から駿河に戻って今度は氏親さんに仕えたという事例もあります。宗長さんは駿河の丸子郷の泉谷に柴屋軒を結び晩年を過ごしました。ここは現在吐月峰柴屋寺として残っています。
1508年、足利義稙さん(1466~1523)が足利善澄さん(1481~1511)を追い落として将軍職に返り咲くと、氏親さんは正式に幕府から遠江守護に任じられました。今川氏にしてみれば、およそ100年ぶりに取り戻した遠江の地でした。その後も動乱は続き、遠江の地が鎮まったのは1517年になってからでした。
瀬名氏貞さん (1497~1538)
氏親さんの五代後、今川一秀さん(1432~1509以降)が駿河国瀬名村(瀬名谷、瀬名川村等とも)の地にて瀬名氏を名乗り初代となりますが、その子である氏貞さんが二代目を継ぎます。氏貞さんは、築山殿(1539~1579)のじいじ(爺)にあたり、1528年、筆者の住む瀬名の地に利倉(とくら)神社を創建した人です。
この神社、1974年の七夕豪雨の時に、筆者が家族やご近所の皆さんと一緒に避難に行った場所でもあります。大きくはない神社ですが、神様がたくさん祀られています。
このこまいぬさん(左)の表情がどこか見覚えがあって懐かしさを感じるのですが、イマイチよく思い出せません。
長尾川
さて、この板倉神社はバス通り沿いにあるのですが、筆者は行きも帰りも長尾川の土手を歩いていきます。
こう見えてこの川は伏流水といって普段は表面を流れる水が無いのですが、ひとたび大雨が降ると濁流が流れ、前述した様に七夕豪雨の時はここから数百メートル下流の方で堤防が決壊して洪水被害をもたらしました。その後各所で増強工事が行われ、今でも少しも侮られる事なく現在に至っています。
12月になりましたが晴天であれば結構温かく、土手を散歩するお年寄り
や走っているアスリートの方々もいて、結構賑やかです。今度は大安寺に行ってみようと思いつつ、この散策を終えました。