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歴史探訪カレンダー 2025年01月

2025年01月

ふるさと歴史探訪カレンダー

 2025年は毎月旅人としてキャラクターを立て、トピックを紹介していく形にします。

第4回 命松丸くん 6000年前の瀬名谷に佇む

 今月は先月の記事でも登場した命松丸くんです。本人の素性については西奈村志や駿河記などの文書には兼好法師の侍童と書いてあります。この人の生没年などの詳細については現在筆者にはほとんど何も分かっていない状態です。しかしながら西奈村志や駿国記など複数の文書で由来と子孫についての記載が見られます。大元の参照先が同じである為と考えられますが、逆に言うと各著作者が参照、引用に足ると判断したからこその結果であるともいえるので、あながち嘘っぱちともいえないかもしれません。
 そこで、本稿ではその命松丸くんだけでなく、彼が生きた時代背景や同時代に活躍した人々にも焦点を当てていこうと思います。

命松丸くんの上司
 先述した様に、命松丸くんは兼好法師の侍童だった、と書かれている場合が多いようです。彼が仕えていた兼好法師とは、卜部/吉田兼好(うらべ/よしだ かねよし)さんといわれている、鎌倉時代後半(1283頃)から室町時代(1352以降)にかけて生きた人です。

兼好法師
1283頃~1352以降

 兼好法師(けんこう)法師は卜部兼好さん、吉田兼好さんという名の徒然草の作者として知られ、その足跡を京都、鎌倉に残しています。一方、出自に関しては様々な記録を付け合わせてみると諸説あり、矛盾ありで本当はどうだったのか安易に決められない面があります。和歌を二条為世(にじょうためよ)さん(1250~1338)に学んでいます。

今川貞世8了俊)さん
1326~1420?

 友人のひとりに、今川貞世(了俊)さんがいます。兼好法師がほとんど七十歳という年齢で亡くなる1352年頃に二十六~七歳の若さなので、ご同輩というわけではなかったと思いますが、どんな友人関係だったかは筆者の調べはついていません。
 さて、今川貞世さんは1367年頃、二代将軍足利義詮さんが死去すると出家して了俊(りょうしゅん)と名乗っています。その少し後、1370年頃九州に赴いた時に命松丸くんを連れていったりしていますが、この時兼好法師が亡くなったとされる1352年以降から20年近くも経っているのでそれまで命松丸さんはどこで何をしていたのか疑問は残ります。更に、その九州探題を解任された1395年以降、了俊さんは駿河に移り駿河と遠江の半国守護となって弟の仲秋(なかあき)さん(生没年不詳)、甥の今川泰範(いまがわやすのり)さん(1334?~1409?)と分割統治をする事になりました。
 恐らくこの時期に了俊さんは駿河の国の今川氏の今川館や瀬名塁(砦のことです)にも出入りしていたと思われますが、命松丸くんも引き続き行動を共にしていたのではないかと考えられます。結局了俊さんは色々あって今川の姓を名乗る事は禁じられ、堀越を名乗る事になって遠江へと去り、命松丸くんはそのまま駿河に残って今川家の食客になったようです。命松丸くんが今川了俊さんに連れられて九州に渡ってから二十五年ほどの歳月が流れています。
 その後の命松丸くんですが、文献によると、その子が荻野左衛門尉を名乗り、孫の荻野帯刀が瀬名壘に在住していると書かれ、更にその子孫が牛妻に土着したという記述があります。その後、今川氏輝さん、瀬名氏貞さんの時代に筆者から見て十六代前の先祖である荻野伊予守政元の名が見える、と書かれています。この頃になると駿河今川本家では今川義元さんの代になるかならないかという時代です。
 その後、駿河の地は桶狭間で義元さんが討ち取られてから今川家の没落が始まり、同盟破りの武田軍に攻め込まれ、さらにタヌキと呼ばれた徳川家康さん(1543~1616)率いる徳川軍に占領され、猿面冠者こと豊臣秀吉さん(1537~1598)の命令でそのタヌキが武蔵へ転勤になると、猿面冠者配下の中村一氏さん領となります。ちなみにこの転勤には瀬名氏の一部も武蔵についていったとされ、その血筋は幕末まで続いたとされます。話は戻り、やがて猿面冠者が亡くなると1600年、関ヶ原の戦いが起こり、雪辱を果たしたタヌキが自分の旗本に統治させ、最終的に駿河は徳川幕府の直轄領となり、幕末へと至るのです。この間、今川義元さんの時代前後に荻野左衛門大夫の名のみが文献には出てくるだけで、荻野伊予守政元以降の荻野氏がどこで何をしていたのかは今のところ筆者にはわかりません。もっとあちこち調べれば色々と出てきそうですが、まだまだ見当もつけていません。今後の調査に期待したいところです。
 筆者はこの荻野氏本家の血筋ではなく、本家がどこにあるかも知らないのですが、気長にやっていくつもりです。