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極度の一期一会病

最近、自分がおかしい。

出会う人出会う人に「一期一会」を重ねて、
別れを心の底から悲しんでいる。

▶︎想定外の最期

自分が極度の一期一会病になってきたのには、理由がある。

ここ数年で、思いもよらない別れを何度も経験してしまったからだ。

▷親の離婚

小さい頃、自分には無縁だと思っていた親の離婚。和解した離婚ならまだしも、ウチの離婚は壮絶だった。

ある朝、母と私は父に「行ってらっしゃい」と仕事に送った。いつも通りに。

そして、その数時間後に車で家を出た。

二十歳の時に家族で行った伊勢志摩旅行が、まさか最後の家族旅行になるのだと、あの時の私は微塵も思っていなかった。
ただ勝手に、両親と兄弟と共に過ごす時間は、数年後まで続くのだと思っていた。

「家族」というのは、小さい頃の私にとってはホームで、あって当たり前の存在だった。
それが、もう再現するのは不可能なのだと分かってからは、今当たり前だと思っている日常も、数年後には懐かしく愛おしく思う限られた瞬間なのかもしれないなと思うようになったのだ。

だから、今日感じているあたりまえが愛おしい。

▷自分の一部

そんな家族の離婚があっても、私は平気だった。
それは、隣に家族より誰よりも心を開いている恋人がいたからだ。

付き合った当初から、結婚することをお互いがなんとなく考えていた。

それは、結婚前提に付き合ったとかではなかったけれど、お互いに一緒にいることが当たり前になっていたし、別れるなんてことを全く考えられなかった。

何度か、喧嘩をして別れを考えたこともあったけれど、それでも彼がいないことを思うと、「絶対に無理」と思い返すものだった。

一緒にいるのが当たり前だし、これからも一緒に生きていくのが当たり前だったのだから、友人に「結婚したいけれど、彼氏に聞けない。」なんて相談をされた時は驚いた。

そういえば私はそんなことを思ったことすらなかった。
私は彼に結婚するかを聞いたことすらなかったけれど、結婚前提で話が進んでいた。

同居することになった時も、流れで進んだ。

またこれも同様、友人に「どうやって同棲することになったの?」と効かれたけれど、流れでしかなかった。
ちょうど私が転職するタイミングで彼も転職したので、ふたりとも引っ越すなら、一緒に住んだ方が安く住むよね。と、私達にとって一緒に住むことは、ただ早いか遅いかの違いだけだった。

そうして一緒に住み始めてから1年後、私は今ここで一人暮らしをしている。

まさか、自分の一部になっていた彼と、違う人生を歩むことになるとは、一年前には想像すらしていなかった。

長く付き合ったカップルが、同棲をきっかけに別れるなんて話を二人で面白がっていたくらいなのだから。

彼との別れの日も、父親と同じくらい突然だった。

いつも通りに朝起きて、眠そうな彼に「おはよう、勉強したいから、近くのファミレスに行っているね。朝ご飯食べたら来て」と私は言い、家を出た。
最低限必要なものを持って。

そして、目をパッチリさせた彼がファミレスについて、私はそこで、五年という歳月、共に過ごした彼に、別れを告げた。

▷今度お金返して

その後、私はまた恋をする。

恋をするのはやっぱり楽しいものだ。

元彼には申し訳ないけれど、私は長年付き合った彼氏のことを、意外にもさっぱり忘れて新たな恋に必死だった。

一緒にいて楽しかったし、元彼にはない素敵な場面なんかもあって、恋い焦がれていた私は夢中だった。

きっとこの人と子どもを持ったら楽しいだろうなあなんてことも考えながら眠る日もあった。

だけど、喧嘩が続くようになった。
元彼は私と別れることなんて考えていなかったと思うけれど、皆がそうじゃないのだと初めて知った。

喧嘩が続いたある日、別れたほうがいいと話が決まって私達は別れることになった。

最近会えていなかったから、私はもう一度会って話がしたかったが、彼はそれすら許さなかった。

「今度お金返して」「これ、あなたの家においておいて」と、次があるかのように貸していたものが、返ってくることはなかった。

彼に最後会った日は、「じゃあまたね」と、まだ熱い恋愛中のカップルだったのだ。まさか彼に会う最後の日があの日になるとは思わなかった。

もう未練なんてないし、別れてよかったと思っている。
それでも、もしあれが最後なのだとしたら、もうちょっとちゃんと別れを告げただろうに、と思った。

▷最後の日はいつかわからない

今後も続くであろう日常が終わる。それもある日を堺に突然。
そんな体験を何度もしてから、今この瞬間を忘れたくないとそう思うようになった。

過ぎ去ったらもう同じ日は2度と来ない。
だから、今日という日を、今日会った人の顔や表情をよく見ておきたい。
そう思うようになったら、

実家に帰って母と話をする時も、
友人とご飯に行く時も、
職場の人と、たわいもない話をしながら帰るときも、
すべてが最後かもしれないと思うようになってしまったのだ。

▶︎時間じゃない

はじめて行った美容室で、担当してくださった美容師さんが、とても愛想良く可愛かった。

長い付き合いで絆を深めることもあるかもしれないが、私は直感的に人のことを好きになることも多い。

人生は思いもよらない事で変わったりする。
もしかしたら今日訪れた美容室で、本屋さんで、カフェで、イベントで、
出会った人や本や体験で、私の人生が変わってしまうかもしれないと、そう思う。

そうしたら、整体師としてお客様に関わる私は、彼らの人生を変えてしまうきっかけになりうるかもしれないなと思う。

今日というこの一日で。


▶「またね」の本当の意味

だから、最近不思議で仕方ないのだ。

初対面でも、馴染のある人でも、今日という日が終わって、「じゃあまたね」と手をふることが、私には難しい。

今日が彼に、彼女に会うのが最後だったらどうしよう。と思ってしまうのだ。

どうして皆、そんなにあっさり背を向けるのか、わからなくなって来てしまった。もっと名残惜しくしてくれてもいいじゃないか。

なぜ、また会えると思っているのだ?と。

いや、これは私がおかしいのだと分かってはいる。私は極度の一期一会病だ。

だけど、これも事実なのだと知ってほしい。

もしかしたら、もう死ぬまで、その人に会うことはないかもしれないのだ。
今日が最後に会った日になっても、後悔しないように、感謝は伝えておきたい。楽しいと思ってほしい。幸せを与えたい。そう思う。

だけど、「今日が最後かもしれない」なんて言えない。そんなことを言ったら、びっくりされてしまいそうだ。「引っ越しでもするの?」と誤解を与えてしまいそうだ。

だから、「またね」と言う。私だって皆と同じように。

でも、私が「またね」と言うのは、「また今度ね」という意味じゃない。
「また会いたいと思っている。それくらいあなたに出会えて幸せだ」と思って手を降るのだ。

人間は最後の日を決めることができない。
彼らに会う日もそうだが、そもそも自分がこの世にいる最後の日ですら私達はわからないのだ。

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