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ピストジャムのプロフィール/ピストジャム

 1978年9月10日、日曜日の昼1時頃に僕は大阪市天王寺区の聖バルナバ病院というところで産まれた。幼い頃に母から聞いたバルナバ病院という響きが強烈だったので42歳になった今でも忘れることができない。

 父はサラリーマンで、母は専業主婦だった。僕は長男で、次男が産まれる3歳まで平野区の長屋に家族で住んでいた。おぼろげながら記憶に残っているのは浴槽がステンレスだったことと隣の家の前にいつも茶色い犬が繋がれていたことくらいだ。

 父の職場は大阪だったのだが、京都の田舎の一軒家に引っ越すことになった。まわりは田んぼと山に囲まれた辺鄙な場所で、町の中にはスーパーマーケットが一軒あるだけだった。あちこちにまむし注意と書かれた看板が立てられていて、夏の夜なんかは蛙の鳴き声が家まで聴こえてきていた。しかも僕が住んでいた町は京都と言うのは名ばかりで、奈良の東大寺まで車で10分というほとんど奈良と言っても過言ではない場所だった。そのせいで僕は上京してから、京都出身と言うことがコンプレックスになった。京都出身と言うとほぼ全員が「いい場所だね」とか「この前行ったよ」とか「じゃ腹黒いんでしょ」とかテンション高くリアクションしてくれるのだが、僕が正直に「京都って言っても僕が住んでたのは奈良との県境のところで、京都の市内は行ったことがないねん」と言うと皆「あぁ、そうなんだ…」と急にテンションがうなぎ下がりするからだ。でも本当に奈良のことしか知らない京都人に仕上がってしまったので仕方がない。

 僕の人生に黄金期が訪れたのは早かった。それは小学5年から6年までの2年間だった。運動も勉強もできて学校で一番目立つ存在だったと思う。でもそれは中学受験に合格してしまったことで突如一変した。

 僕が通うことになったのは大阪星光学院という偏差値70以上の中高一貫教育の男子校だった。中学1年の最初の授業で大学受験の話をされて、僕は拒否反応からか思考が完全に停止してしまった。実際僕は中高時代の記憶がほとんどない。しかも高校を卒業してから誰とも連絡を取っていないので、中高時代の友人は一人もいない。地元の中学校に小学校の仲間と一緒に行っていればと今でも思う。

 中学生になってから今に至るまでの30年間、僕はずっと負け続けている。敗戦に次ぐ敗戦。挫折に次ぐ挫折。

 僕は慶應義塾大学法学部政治学科に入学したのだが、それも僕が理系で断トツで一番成績が悪かったので文系の先生が「指定校推薦を文系の生徒が全員断ったから困っている。誰か行ってくれないと来年から枠がなくなるから、お前行ってくれないか?」と言われたから行けただけだ。

 大学時代も東京の街に飲み込まれないように必死でもがいていたら、気付けば卒業を迎えていた。就職活動もしていなかったし、特にやりたいこともなかったのでおもしろそうという理由だけで大学時代の友人を誘って吉本に入った。その友人とも10年前にコンビを解消して、それぞれ今も芸人として活動しているのだが、昨年その友人がM-1グランプリという漫才のコンテストで準優勝した。僕はその日、コロナウィルスの陽性と診断されて、毛布にくるまりながら元相方がテレビで光輝く姿を熱にうなされ朦朧としながら呆然と見つめていた。

 この負け続けの人生で僕が得た物があるとするならば、それは人の痛みが少しはわかる人間になれたということではないだろうか。

 バルナバとは慰めの子という意味らしい。

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