【創作大賞2024エッセイ部門】シモキタブラボー!
「俺は神だ!」「お前も自分教の教祖にならなくちゃダメだぞ」「今年もやってくルー! カレーフェスティバルー!」「線路に飛び込んで死んでやる!」「あいつ、天才なんだよ。猫の背中がピアノの鍵盤になった絵描いて表彰されたらしいよ」「あたたたたたたたたたたたっ! おあたあっ!!」「助けてください! ネズミが出るから、昨日超音波で追い払うやつをセットしたんですけど、全然効かないんです」「あの魔女の店に将棋指しに行こうよ」「OASISのミュージックビデオ撮るの手伝って」「ナパーム・デスのメンバーみたいやからナパって呼ばれてる女の子」「両腕骨折したんだよ。ブラジャーつけれなくて、ノーブラで病院行ってきたよ」
下北沢という街に住んで25年。上のセリフは、シモキタという愛称で親しまれているこの街の道端や飲み屋で、僕が拾い集めた言葉たち。
2019年、シモキタは「世界で最もクールな街」ランキングで2位に選ばれた。理由は「下北沢はニューヨークにとってのブルックリンのようなものだが、唯一異なるのはもっとイカしていること」らしい。
まさかシモキタがブルックリンよりイカしていたなんて知らなかった。どうりで25年も住んでいるわけだ。
僕は吉本興業のピン芸人、ピストジャム。シモキタには20歳のときに越してきた。そのときは大学3年で、まだ芸人にはなっていなかった。だから、古くからつきあいのあるシモキタ住人たちは僕のことを本名で呼ぶ。しかもフルネームで。
野寛志(ノカンシ)。これが僕の本名。
姓が野(ノ)で、名が寛志(カンシ)。日本人離れしたぶっとんだ名前なので、中国や韓国の方によく間違えられる。
知り合ってしばらく経ってから「ホントに日本語ペラペラだね」と言われたこともあるし、引っ越しするために不動産屋をまわっていたときなんて、行く先々で外国人向けの物件ばっかり紹介されたことも。つい最近は病院で問診票に名前のふりがなをカタカナで記入したら、受付の人に「ノヤンシさん」と呼ばれた。
どうやら「カ」が「ヤ」に見えたらしいのだが「ヤンシ」という名前に違和感を抱かなかったのだろうか。「ヤンシ」は歴史上まだ日本人の名前に登場したことがないと思う。
野寛志という名前で生きていくのは正直しんどい。「ノカンシです」と名乗ると、100%「え?」と聞き返されるから。
たまに「苗字がノなんて覚えやすくていいじゃん」という人がいる。でも、そういう人にかぎって「苗字が一音だったこと」だけを覚えていて、僕のことを「ヌ? だっけ? モ? だった?」とか五十音全部試す勢いで訊いてきたりする。
話がそれてしまったが、そういうわけで僕は昔からの知り合いからは「ノカンシ」と呼ばれている。
僕のシモキタ物語は『Puttin』というバーに飲みに行ったことから始まる。鈴なり横丁という、街のランドマーク的な建物のはずれにあった小さな小さな酒場。
店主の名はプッチン。僕は彼のことを会う前から知っていた。
それはシモキタに越してくる直前、偶然見た『出没! アド街ック天国』だった。鈴なり横丁の映像が流れると、カメラに奇声を発しながらカニ走りで向かってくる不審者が。
親指と人差し指でつくった輪っかを両目に当てて、舌をべろんと出し、わけのわからない言葉をわめき散らしながら、ちょこまか動きまわる小柄な中年男性。テロップには「バーPuttin店長」と書かれていた。
マジでヤバいのが出没した。食い入るようにテレビを見つめた。シモキタはおもしろそうな街だと思っていたけれど、こんな変な大人がちゃんといるんだ、こんな大人でも許されるんだ、と逆にテンションが上がった。
生のプッチンはテレビで見た以上に強烈なキャラクターだった。口癖は「俺は神だ!」毎晩かならず叫んでいた。「俺は神だ!」を言わない日は、心配になったほど。
彼は部屋を借りていなくて、店で寝泊まりしていた。明け方に営業を終えると、カウンターに椅子を上げて、床に寝袋を敷いて寝ていた。
ボクシングの元日本チャンピオンというのにも驚いた。シモキタの金子ジム所属で、世界チャンピオンを6人も育てた名トレーナー、エディ・タウンゼントの指導も受けたことがあるらしい。
常連客から聞いたのだが、プッチンのあだ名の由来は「頭の線がプッチンと切れているから」だという。納得。たしかにそのとおりだ。
僕は、なぜだかわからないけれど彼に気に入られた。客の入りが悪い日なんかは、知り合いの店に連れていってやると早じまいして、いろんな老舗のバーや飲み屋で「こいつはノカンシっていって、いい奴なんだよ」と僕のことを紹介してくれた。
彼は自分の部屋もないのに、僕に引っ越し先まであてがってくれた。Puttinで飲んでいるとき、引っ越し先が見つからなくて困っているという話をしたら「彼、もうすぐ引っ越しするからそこに住んだらいいじゃん」と言って、カウンターの端に座っている客を紹介してくれた。
実際、僕はその数週間後にその方の部屋に越すことができた。風呂なし共同トイレで家賃が36780円という10円単位まで刻んでいる珍しいタイプの物件だった。風呂もトイレも部屋にない生活なんて考えられないと思っていたけれど、慣れとは怖いもので、僕はそれから10年以上もそこで暮らした。
大学卒業までの2年間は、毎晩のようにプッチンと飲んでいた。僕より16歳上の彼は師匠のような存在だった。たまに僕がそんなふうに思っていると漏らすと、決まって「お前も自分教の教祖にならなくちゃダメだぞ」と諭された。
大学卒業後、僕は大学の同級生だったこがけんを誘って吉本興業の養成所に通い始めた。こがけんとは、2020年のM-1グランプリで準優勝した「おいでやすこが」のこがけんだ。
彼は大学に入って最初にできた友人だった。シモキタにも同じタイミングで越してきて、卒業と同時にコンビを組んで僕らは芸人になった。
ネタ合わせは、いつもシモキタのミスタードーナツで。僕は決まってホットコーヒー、こがけんはだいたい山ぶどうスカッシュ。ときたま彼はホットミルクを頼むことがある。それは彼の体調がすぐれないときの合図だった。閉店したあとに暗い路上で声を潜めて練習したことも数えきれない。
紆余曲折あり、僕らは結成と解散を繰り返し、2012年にそれぞれピン芸人になった。その後、彼はおいでやす小田さんとユニットを組んでM-1で大ブレイクし、時の人となった。
おいでやすこがが準優勝した日、僕はコロナウイルス陽性の診断を受けた。テレビの中で光り輝く元相方の姿はまぶしすぎて直視できなかった。彼は明日から華やかな世界にどんどん進出していくのに、僕は明日からホテル療養。
番組が終わってテレビを消すと、真っ暗になったテレビ画面に、毛布にくるまってせき込む自分の姿が映っていた。人生に底があるなら、ここだろ。情けなすぎて笑えてきた。
プッチンから結婚の報告を受けたのは、大学を卒業する直前だった。相手の方は店の客で、僕も面識のある人だった。おしゃれで、すらりとしたモデルのような方だったので、こんなにきれいな人とプッチンが!? と内心かなり驚いた。
子供も産まれる予定だから、鈴なり横丁の中でひとまわり大きいところに店も移すらしい。そして「週1回でいいから、うちでバイトしないか?」と誘われた。
それから僕は毎週ひとりでPuttinで働くことになった。養成所を卒業して、日光江戸村に住み込みの営業に行くことになっても、週1回は休みを取って日光からシモキタまで片道3時間半かけてPuttinでバイトした。
このころから店のメニューにカレーが加わった。プッチンの奥さんがつくるカレーは絶品で、それを食べるのが楽しみでバイトを続けていたと言っても過言ではなかった。
シモキタでは、2012年から毎年開催されている『下北沢カレーフェスティバル』というイベントがある。カレーまんというキャラクターが「今年もやってくルー! カレーフェスティバルー!」とラップしながら街中を練り歩くシモキタを代表するお祭り。
このイベントが企画されたきっかけは、何を隠そうプッチンの奥さんがつくったカレーだった。のちに下北沢カレーフェスティバルの実行委員長になる方が彼女のカレーを食べて衝撃を受け、シモキタでカレーのイベントを立ち上げようと発案したのだ。
Puttinで働いていると、心が安らいだ。好きな音楽をひと晩中かけながら、客とたわいもない話をしてすごす時間は日々の喧騒から僕を解放してくれた。何もかもから守られた僕だけの安全地帯。たまにプッチン夫妻のケンカに出くわして、身重の奥さんが「線路に飛び込んで死んでやる!」と吐き捨てて店を出ていくのを止めたりしたこともあったけれど、いい思い出だ。
アルが産まれたのは2000年の年末だった。アルという名前を聞いたとき、さすが二人の息子だなと思った。
「あるがまま」の「ある」。奥さんが考えたらしい。プッチンは最初嫌がったらしいけれど、旧約聖書に「私は在る、在るという者だ」という言葉を見つけて感銘を受け、意見が変わったという。
彼はとにかくかわいかった。男の子なのに女の子みたいな顔をしていて、天使のようだった。あまりにかわいいので、二人からちょっとした子守りを頼まれたときには率先して引き受けた。
彼が来ると、鈴なり横丁がパッと明るくなった。ほかの店の店員や客たちも店から出てきて、かわりばんこに彼と遊んだ。本当にみんなから愛される存在だった。
北沢川緑道での花見も忘れられない。仲のいい店のスタッフたちと合同で、緑道にシートを広げて集まった。いままではシモキタの飲んべえたちがふだんの飲みの延長でだらしなくぎゃあぎゃあ騒いで飲んでいただけなのに、アルが誕生してからは様相が一気に変わった。
数キロにわたる桜並木。風に吹かれて舞い落ちた花びらが、歩道や小川を埋めつくし、やさしい薄ピンク色に染まる。
アルを囲んでほほえむ大人たち。この世の愛とか平和とかが、すべてこの場所に集められたんじゃないかと思える幸せな光景だった。
プッチンがシモキタから出ていったのは、アルが3歳のときだった。「ノカンシ、アルを頼んだぞ」と言い残して、彼は追われるようにどこかへ去っていった。
離婚後、店は奥さんが引き継ぐことになった。僕はそれから1年ほど働いてバイトを辞めた。「アルを頼んだぞ」という言葉が胸に残っていたけれど、僕にはプッチンごめん、と心の中で謝ることしかできなかった。
それからアルと会う機会は減っていった。彼が小学校に入ってまもないころ、酒屋の配達のバイト中に見つけて声をかけたり、道端でばったり会ったときに二人で鬼ごっこをしたりしたことはあった。飲み屋で「あいつ、天才なんだよ。猫の背中がピアノの鍵盤になった絵描いて表彰されたらしいよ」と、彼の噂をときどき耳にすることはあっても、それ以降は顔を合わせることはなかった。
プッチンがいなくなっても、シモキタはあいも変わらずにぎやかなままだった。駅前では漫画を大声で朗読する路上パフォーマー東方力丸さんが「あたたたたたたたたたたたっ! おあたあっ!!」と北斗百裂拳を連発しているし、赤ひげ先生は手書きの看板やチラシを電柱にべたべた貼り付けて青空整体をやっているし、ホットパンツをたくみにはきこなすホッパンおじさんは元気に街中を歩きまわっていた。
僕は僕で、親しい吉本の同期や後輩がシモキタに越してきたことで毎日バイトと遊びで大忙しだった。後輩の秋月は「助けてください! ネズミが出るから、昨日超音波で追い払うやつをセットしたんですけど、全然効かないんです」なんて電話をかけてくるから朝までネズミ退治に奔走したり、同期の剛くんは「あの魔女の店に将棋指しに行こうよ」と言って夜中にふらっと遊びにくるし、コインランドリーで知り合ったイギリス人映像作家のディッキーは「OASISのミュージックビデオ撮るの手伝って」と信じられないようなことを言ってくるので、想像以上に刺激的で楽しい日々をすごしていた。
新しい知り合いや行きつけの店も増え、シモキタ生活はますます充実した。COWCOW の善しさんとも飲むようになり、善しさんからもいろんな方を紹介してもらった。
ある日、善しさんと飲んでいたら「ナパも来るって言ってるけど、いい?」と訊かれた。僕は誰だかわからなかったので「ナパ? 芸人ですか?」と返したら「ナパーム・デスのメンバーみたいやからナパって呼ばれてる女の子。知らん?」と言われた。「女の人でナパーム・デス!? そういえば『とりとんくん』の店員に『ひとりマキシマム ザ ホルモン』みたいな人いますけど、そんな感じなんかな」とつぶやくと、善しさんは「そう! その子や!」と爆笑した。
いまナパは『ハハハ』という飲み屋をやっているのだが、先日飲みに行ったら両腕にぐるぐるに包帯が巻かれていてびっくりした。「どうしたん?」と尋ねると「両腕骨折したんだよ。ブラジャーつけれなくて、ノーブラで病院行ってきたよ」と豪快に笑っていた。
ありがたいことに、お笑いの仕事もシモキタで少しずつできるようになっていった。善しさんがやっていたギャラリーで3年にわたって毎月『シモキタ芸ナイト』という主催ライブをやらせてもらったし、オフィス北野所属のアッチャンズに誘われて空間リバティという劇場で4年間『近藤商店』というネタライブにも毎月出演させてもらった。
気づけば、シモキタでの暮らしは地元の京都ですごした時間よりも長くなっていた。もう僕の体はシモキタと同化して、自分自身もシモキタの一部になったような感じ。
アルと再会したのは、2年前の11月だった。突然、プッチンの元奥さんから連絡があった。
LINEを開くと「アル来てるけど」と、ひと言だけメッセージが届いていた。すぐさま部屋を飛び出し、急いでお宅を訪ねる。
花柄のざっくりしたクリーム色のニットに、ダメージジーンズをはいた青年。鼻にはピアスが光っていた。
さすがシモキタ生まれ、シモキタ育ち。ひさしぶりの再会なのに、まずおしゃれなことに感心する。
「ノカンシさん全然変わってないですね」「覚えてないやろ?」「めちゃくちゃ覚えてますよ!」こぼれる笑みに、子供のころの面影を見つけてうれしくなる。
彼のとなりには、赤ん坊を抱くかわいらしい女性。なんと彼は結婚して子供を授かっていた。
21歳同士のアル夫婦に、生後数か月の赤ちゃん。あふれる生命力の輝きに目がくらみそうになる。
昔話に花を咲かせ、なごり惜しいけれどそろそろおいとましようとしたら、アル家族も一緒に出るという。興奮していたのか、外に出ると冬なのに夜風が心地いい。
ベビーカーを押して歩く夫婦の姿が、21年前に見たプッチン家族と重なる。あのときプッチンが押していたベビーカーには、彼が乗っていた。あれから21年経つと、こんな光景が見られるんだ。言葉にならない。
別れ際、アルから尋ねられた。「プッチンに会いたいんですけど、つながってますか?」
まさか、彼がプッチンに会いたいと思っているなんて思わなかった。「昔は、会ったら殴ってやろうと思ってた時期もあったんですけど、いまはフツーに会いたくて」
熱いものが込み上げてきた。僕もあれからプッチンと会っていない。連絡先もわからない。会おうと思えば誰かしらがつながっているだろうし、いつか会えるだろうと高をくくっていたら20年近く経っていた。
「もしわかったら伝えるわ」そう答えると、彼は奥さんの肩をそっと抱いて「これ、もし会えたら曲つくんないとな」とほほえんだ。
プッチンの連絡先は、まるではじめから仕組まれていたかのように、その数日後ウソみたいに簡単に手に入った。なじみの店に飲みにいったら、マスターが「プッチンから、ノカンシが来たら連絡先を教えてやってくれって頼まれてたから、教えるね」と電話番号をひょいと渡された。
アルに報告すると、会いに行きたいと即答だった。僕は、親子が再会するところに自分がいたら邪魔になるから二人だけで会えば? と提案したけれど、僕も一緒にいてくれたほうがいいと言うので三人で会うことにした。
プッチンに電話するのは緊張した。番号を打って、少し発信音を鳴らしたけれど、なぜか怖くなって切ってしまった。
スマホの画面を見つめる。もう一度かけないと。
気持ちを落ち着けていたら、電話が鳴った。プッチンだ。
「もしもし、ノカンシです」意を決して出た。「おお、ノカンシ! ノカンシには、ホントに悪いことしたなあ」なつかしい声。
「そんなことないです」「俺もあのときは必死だったんだよ。ホントに悪かった」やさしい声。できの悪い従業員だったのに、一度も怒られたことがなかったのを思い出す。
「謝らないでください。プッチンは僕の師匠なんで」「俺は師匠なんかじゃないよ! 俺は自分教の教祖なんだよ! ノカンシも自分教の教祖にならないとダメなんだよ!」
思わず吹き出しそうになる。出会ったころと変わらない。ああ、僕はいまプッチンと話している。そう思うと、目頭が熱くなった。
「プッチン、11月30日って何してます?」「何? 何があるの?」
「いや、11月30日はどんな予定ですか?」「だから何があるの! その日じゃないとダメなの!?」
「……その日だったら、アルと一緒に行けます」電話越しにプッチンが絶句したのがわかった。
そして一瞬の沈黙のあと、おだやかに「ホントにありがとう。めちゃくちゃうれしいです」と、つぶやくように言った。
思わず顔がほころぶ。二人とも感じ入って、続きの言葉が出てこない。プッチンに敬語を使われたのも初めてだった。
その日は、アルとシモキタで先に待ち合わせしてから集合場所に向かった。アルは黒の革ジャンにクロムハーツのクリアフレームのめがねをかけていて、あい変わらずキマっていた。
18年ぶりの親子再会の場に立ち会えたことは、非常に貴重な体験だった。三人とも前夜はほとんど眠れなくて、たいして飲んでいないのにかなり酔った。
だけど、その感じがちょうどよかった。最初はぎこちなかった会話も次第に打ち解け、最終的にアルとプッチンはスナックのカラオケでデュエットしていた。
後日、僕はプッチンともアルとも個別で飲みにいった。まだ親子水入らずでは会っていないようだったけれど、アルはプッチンに子供も会わせたいし、妻の料理がびっくりするくらいおいしいから食べさせてあげたいと、プッチンを家に招待する計画を立てていた。
数日後、アルから一本の動画が送られてきた。夕食を食べ終わったばかりの食卓で、アコースティックギターを弾きながら歌うプッチンの姿。
となりには、笑顔で子供を抱くアルの奥さん。歌っている曲はジョン・レノンの『Imagine』を日本語でカバーしたRCサクセションの『イマジン』だった。
「夢かもしれない でも、その夢を見ているのは 君ひとりじゃない」アルも撮影しながら一緒に歌っている。
赤ちゃんも手を叩いて、まだ言葉にならない声を上げて楽しそうにはしゃいでいる。孫の笑い声を聞いて、プッチンがやさしくほほえみ返す。
本当に夢かもしれない。こんな日が来るとは思わなかった。かつて北沢川緑道で目にした光景がよみがえる。
思い返せば、シモキタを初めて訪れたのは東京に出てきてまもない大学1年の6月だった(当時住んでいたのは横浜市港北区だったので正確には東京ではないのだけれど)。まだ都内の地理もまったく把握できていない、右も左もわからないおのぼりさんの状態で、こがけんと二人で『SHELTER』というライブハウスにギターウルフというバンドのライブを観にいった。
東横線から渋谷で井の頭線に乗り換えたとき、電光掲示板に映し出された「吉祥寺」の文字を見て、あれが『ろくでなしBLUES』の前田太尊が住む街か、とひそかに感動した。シモキタが渋谷から急行で5分もかからないことも、それまで知らなかった。
行ってみたかった街、シモキタ。京都に住んでいたころからファッション雑誌でいつも目にしていた。
おもちゃ箱をひっくり返したみたい、というたとえがあるけれど、この街はまさにその言葉どおりだった。ごちゃごちゃしていて、キラキラしていて、街ゆく人もいろんなファッションの人が歩いていて、街全体が輝いて見えた。
中学生のときに大阪のアメリカ村を初めて訪れたときと同じ感覚。東京にもこんな街があるんだ、と胸がおどった。
SHELTERには迷わずたどり着けた。地下の受付におりる階段には、初夏なのに革ジャンを羽織った見るからにロックンローラーという感じのいかつい人たちが列をなして開場を待っていた。
キャッシャーで払うドリンク代はソフトドリンクしか頼めない未成年からすると、えらく高いなと感じた。けれど、そんなことよりも数か月前まで田んぼと山に囲まれた京都の片いなかに住んでいた自分が、シモキタのライブハウスにいることが信じられなくて、胸の高鳴りを抑えるのに必死だった。
出演は4バンド。めあてのギターウルフはトリ。会場はオールスタンディングでパンパンに客が入っていた。
しかも、客はほぼ全員男。数名いる女性客は、フロアーは危険だと察知したのか、受付に続く階段に避難していた。
鼓膜を破るような轟音ギターが炸裂してライブがスタートする。最初からもみくちゃになって、一瞬でこがけんとはぐれてしまった。
激しくモッシュやダイブが繰り広げられ、どこぞの誰かわからない男たちが次々に体をぶつけてくる。汗と体臭が混じり合った湯気がフロアーに立ちのぼる。酸欠で意識朦朧とするなか、これってテレビで見た、どこかの地方の裸祭りみたいだな、とまた誰かにぶつかられながらぼんやり思う。
そんな状況が3バンド続き、僕はへろへろになり、途中で音をあげた。女性たちが避難する階段に逃げ込み、トリはゆっくり階段から眺めることにした。
僕のとなりに立っていた女性は、マッシュルームカットで七分袖のラグランTシャツを着た小さなかわいらしい人だった。僕は彼女より1段下に立っていたのだが、それでも身長は僕のほうが高かった。
気分が高揚していたせいか、目の前の阿鼻叫喚の地獄絵図ともいえる盛り上がりを眺めながら「すごいですね」と、彼女に声をかけた。すると、彼女は突然話しかけられたことに驚きつつも、僕の耳もとに手と口を少し近づけて「すごいですね」と返してくれた。
ライブを観ながら、そんなたわいもないやりとりを何度か続けた。僕は、すさまじい熱気を放つステージに釘づけになりながらも、その女性とのささやかな交流や、改めて自分はいまあのシモキタにいるんだ、ということにすっかり興奮しきっていた。
公演が無事終了すると、照明が明るくなりフロアーにBGMが流れ出した。こがけんは、僕が階段にいることをわかっていたらしく、人をかき分けてまっすぐこちらに向かってきた。
こがけんに「大丈夫?」と声をかけ、マッシュルームカットの女性に軽く会釈して、ライブハウスを出ようとしたそのとき、背後から怒声が響いた。
「ごるああっ! 誰の女、口説いてんだあっ! 殺すぞおおおっ!!」振り返ると、革ジャンを着た、首にごりごりタトゥーが入ったコワモテの男が鬼の形相でこちらに突進してきた。
たぶん、彼女の彼氏だ。いや、たぶんじゃない。たしかに、彼女は「彼氏も来てる」と言っていた。
僕はとっさに、こがけんに「走れ!」と叫んで、駅に向かって全速力で駆け出した。信じられないことに、その彼氏は「殺すぞおおおっ!!」と怒鳴りながら駅まで追いかけてきた。
当時、下北沢駅は階段を上がった2階部分に改札があった。僕たちは山を駆ける二匹の獣のようになって、無我夢中で階段を駆け上がった。かと思ったら、こがけんはあせりすぎて一回階段を踏み外して転んだにもかかわらず、抜群の運動神経で瞬時に起き上がり、二人で転げ込むようにして改札を通って逃げきった。
まさか初めて訪れたシモキタの街で「殺すぞおおおっ!!」と怒鳴られながら追いかけまわされるなんて思ってもみなかった。こがけんにはとんだとばっちりを食らわせてしまってたいへん申し訳ないことをしたけれど、いま思えば僕はあのときからシモキタの虜になっていたのかもしれない。