茶話会で出会った人への手紙
差の病気。いや、病気では無いかもしれません。
単純に人間関係のルールがあるならば、それを知らずあなたを不快にさせイラつかせ……。
あるいは私が気にしている様子が見るに堪えないとか。
透明で見えない障害、でも触れてみれば確かに感じる違和感。
昨日の茶話会であなたが感じたであろう不快な違和感のことを障害と言っていいのか、ことごとく人間関係に失敗してきた私が言うのは違うのではないか。
あなたの心証を案じる私は無益なことをしているだけなのか。
あまりにも誤解、医療関係者にすら認知されていない、単純に性格悪いと片付けられてしまう。
実らない作物は刈り取られる、収入のない人間は個人としても社会的にも淘汰される、優勝劣敗の資本主義。スタートラインにすら立てない。
スタートラインに立たないから淘汰されるのか、人間関係が結べないから淘汰されるのか。
あなたはあの時確かに私に差を感じたはずです。だからあの独特の空気が流れた。
私に出来ることは多分あるのでしょう、それを怠っているように見えるのでしょう、ゆえにあなたはいらだつように私には見える。
私とあなたの差。人はみな同じと教育されてきた私たちに突きつけられる矛盾。
違うものは悪いものと本能的に感じる教育。
私はあなたを悪く言いたいわけじゃないです。
この日本でたれ込めている空気に抗うにも私は歳をとりすぎた。身体も壊した。
きっとすれ違い、平行線のまま、交わることのない反発し合う磁石のような人間関係。
言葉を発することすら億劫で憂うつ。
なぜこんな簡単なことが出来ないんだとあなたは思っているでしょう。簡単じゃないからです。
あるいはこれらは全て私の妄想であなたは何ら不快を感じていない……それはありえない、私は自分の他人を不快にさせる性質を実績をもって知っているからです。
こんな私にできることは限られます。
自分の障害を甘受して独りに耐えるか、肉体ごと押しつぶされ事切れるか。
あなたの気に入る私になれないなどと言うとロマンティックかもしれませんが然に非ず。
どこまでも続く無理解と貧困。
この国はホントに豊かなのでしょうか。
豊かだからこそ厳然と敗者を滅ぼすのでしょうか。
今、フランスの小説ミシェル・ウェルベック著「滅ぼす」を読んでいるところです。
小説やマンガを読む私もあなたはお気に召さないでしょう。
ダイバーシティと言っても国民均質幻想が消えた訳ではありません。私はアメリカのような人種のるつぼ、多民族が互いに分かり合えないことを十分承知した上で生活している社会を夢想することがあります。
「隣は何をする人ぞ」という他人への関心は珍しいものになっています。
くっつくことと離れることに引き裂かれた教育を施された人間としては(いや、人かどうかもあやしい)本当に身が裂けるような苦しみです。
茶話会、行ってよかったのでしょうか。
私の気にする点はズレているでしょうか。
夜は明けても晴れやかでなく。
他人との差で言えば音楽の趣味が他の日本人と合わないのも気になる。気にするのもおかしい気もするけれど、他人が熱狂しているものの良さがまるで分からなかったり、自分が信じている音楽がうるさいだけと言われたりする。
流行りものが嫌いなわけじゃなく流行り物の中で好きと嫌いが激しいだけ。それでも自分が本気になれる音楽との距離は遠い、物理的に。