なつかしい響きだわ ・・・ ひ・な・ま・つ・り
お雛さまは早く片付けないと婚期が遅れる、という言葉ばかりが耳に残るお年頃。
広島県府中市上下町で、ひなまつりが盛大なイベントとして行われるようになって10年が過ぎている。毎年2月中旬~3月中旬の一ヵ月の期間中には、何万人もの観光客が上下町を訪ねられる。写真を撮ったりお人形を眺めて歩いたり。地域の方々の努力と創意工夫によって、新旧さまざまなお雛さまが個人宅や資料館、芝居小屋の翁座に飾られ、ひなまつりの町として知られるようになった上下町。この祭りは町民有志で結成された「ひなまつり実行委員会」により運営されている。町内商店街の一軒一軒にお願いして賛同金を集め、イベントのための費用を生み出す。人海戦術でお雛さまを飾り歩くのだ。個人も家の一角に人形を飾り、おもてなしの気持ちを伝えている。
「上下町史」を読むと、1917年に記録された文書から、上下町では定期的な「市」が毎月3回、開催されていたことがわかる。その中に、「デコ市」と呼ばれた2月 日に開かれた市があった。(「デコ」とはこの地域の方言で「人形」という意。)子どものためのひな人形を買うお客さんで、商店街がにぎわっていたそうだ。人形は三次の泥人形(現・三次人形)が中心だった、とのこと。江戸時代末期ごろ、三次で作り始め、明治 年頃からは上下でも作られ、「上下人形」も人気を博したという。初代・安友徳吉さん(1840~1904)、二代目・安友唯一郎さん(1883~1937)が町内に窯を構え創作されていたが、1935年、廃絶。上下町に限らず、日本各地にはこのような窯元が存在し、郷土人形はその時代の人々の楽しみであった。
現在よく目にする豪華なひな壇は、戦後の流行によるもの。昔は、机の上に泥人形を飾り、ひし餅、よもぎ餅、ほとぎ(お米のお菓子)、白酒を供え、桃の枝を立てて、灯篭菓子をつるす。泥人形は、天神様やひな人形のカタチをしていて、去年のひな祭りから一年の間に生まれた子どもに、親類や仲人、近所の人から贈られたそう。どの家にも、「デコビツ」(人形用のおひつ)があって、子どもたちに贈られた泥人形が沢山納めてあったという。昭和の初期頃から、掛け絵(掛け軸に描かれたおひなさま)を贈るようになり、デコ市は急速に衰えた。復活を願う、泥人形とデコ市なのである。(本文中、上下町史より抜粋文あり)
泥人形の復活。このことが頭の中に広がったのは、上下町に住んでから初めてのひなまつり、そして個人店「ひとやすみ」さんの土人形資料館、上下歴史文化資料館を拝見して以来。窯元だった安友さんに話を聞くと、「うちでこさえた人形を、この通りの店のあちこちで売りょっちゃったなぁ」とのこと。目を閉じ、想像してみる…。
Uターンしてから友達になった、オリジナルの縁起物「にゃこダルマ」を創作する作家さんがいる。
ねこ?ダルマ?お守り?「にゃこダルマ」を、三原の神明市、尾道のイベント、てしごと市などで自ら販売されている。キャリアも10年。プロだ。「生み出す」エネルギーってすごい。誰かが言った。「にゃこダルマを備後地方の新たな郷土玩具にしたい」。そうだ、後に続け。未来は切り拓くためにある。わたしもひらめき、2種類の小さな人形が生まれた。両面で一対の不思議な人形「鯉持唐子、牡丹持唐子」と「鯉持童子、牡丹持童子」。ひなまつりの期間中、「デコ市」にて販売。上下人形への賞賛や尊敬の念を込めて。
(ありみつりさ)