【薄い本】クロノスタシス
『帰るの?』
ブラのホックを止めている途中のハルカが訪ねる。
『明日も仕事だしね。とっても名残惜しいけど帰るよ。』
そう言って彼女の額にキスをする。
『嘘ばっかり。』
『嘘じゃないよ。じゃあ、行くから。風邪ひかないように早く服着なよ。というかパンツ先履きなよ。』
『ユウキが脱がせたあとどっかに投げたんじゃん。いっつも投げるんだから、もう。』
四つん這いで下着を探すハルカを尻目に、じゃあねと言って部屋を出て行こうとした。すると、後ろからのんびりした声が聞こえてきた。
『ねえユウキ、クロノスタシス、って知ってる?』
足を止め、振り返った。
『え、クロノ…なんだって?』
『クロノスタシス、だよ。』
『知らないなあ。難しい言葉知ってんだね。』
振り返り、出口に向かおうとしたが、ふとさっきの難しい単語が気になった。背負ったリュックを下ろし、机の上に転がっていたライターとタバコを手にとり、机に腰掛け火をつける。吐いた煙が部屋の中をふよふよと漂う。顔をしかめて窓まで歩いていき、スゥーッと開けた。相変わらず不味いタバコ。
『わっ、ちょっ、まだ服着てる途中なんだけど。』
『だって煙いんだもん。いつまで服探してんのよ。』
『裏返っちゃってて…これでよしっと。あれ、帰らないの?』
『よくわかんないこと言って引き止めるからだよ。あと、タバコ吸いたくなった。セックスの後はやっぱりタバコだよね。』
『ごめん、あたしはタバコよりコーラ派だな。』
・・・
『ねえ、さっきのクロノ…スタイン?だっけ、なんだっけ…えと…』
『クロノスタシス。簡単に言うと、時計の針が一瞬止まって見えることだよ。』
『ふーん、難しい言葉知ってんだね。』
コーラを飲み終えたハルカと2人、ベットに腰掛け鼻先を掠める夜風の匂いを嗅ぐ。
さっきと同じ言葉を繰り返した。
『なんでそんな話を?』
『本当に止まっちゃったらいいなって、思ったから。』
『時間が?』
『うん。』
2本目のタバコに手を伸ばす。
『そうだねえ。いっそ、自分達以外の時間が止まっちゃえば、ずっと一緒にいても問題なさそうなのにね。』
『うん。』
『今日は彼氏、こないの?』
『来る日なら、ユウキ呼んでないよ。』
ハルカが寂しげに笑う。ハルカには恋人がいる。しかし、それは形式的なものだ。そして自分にも恋人がいる。でも、こうしてハルカと会っては、身体を重ねている。最初は感じていた罪悪感なんてものも、喉元過ぎればなんとやらで、お互いが本当に好きなのはお互いなのだから問題ないよねと思うようになった。
『クロノスタシスってどういう時に起こるの?』
『ふっと時計を見たときに起こるんだって。たしかに、ちょっとだけ1秒が長くなってる気がしなくもなかった。』
『目の錯覚なんだね。』
そう言って、隣にある顔の顎の部分をぐっと掴み、無理やり自分の方に向かせた。
ハルカは驚いて一瞬大きく目を開けていたが、すこし間をあけて目をぱちぱちとさせていた。
『あ、今一瞬固まった。』
『何?何?どゆこと?』
『いやあ、クロノスタシス起こるかなあと思って…』
『…今の、目の錯覚じゃなくてガチで意味わかんなくてびっくりして固まったわ。』
そう言ってケラケラと笑う。つられて笑う。
そこから2人でしばらくたわいのない話をした。夜の帳が2人を包み込み、不自由な世界から切り離してくれる。しがらみとか、世間の目とか、色んなものから隠してくれて、ただ月だけが優しく見守ってくれる。太陽は残酷なほど全てを照らし出し、こんなこと許しちゃくれない。
『そろそろ、ほんとに行くね。』
『ねえ、ユウキ。ありがとう。』
そう言って、ハルカが抱きついてきた。ギュッと抱きしめてあげると、安心したのか、眠そうな声で、ユウキ、ユウキと呟いている。
『もう寝な?おやすみ、ハルカ。』
ハルカがすやすやと眠ったことを確かめて、帰路に着いた。
・・・
日曜日。今日はデートの日。駅構内の時計台が目印。少し早く着いてしまった。
喫煙所でタバコでも吸おうかと思った矢先、向こうの方からこちらに近寄ってくる姿が見えた。
『おはよ!ユウキ!待った?』
『へへ、ちょっとだけ待った。でも、集合時間は今だもんね、問題ない問題ない』
『そっかぁ。じゃ、とりあえずドトール入ろうよ。俺腹減っちゃって。』
そう言ってソラは自分のお腹をさする。
『しょうがないなぁ〜、いいよっ』
そう言って、ソラの左手を握る。
『てか、ユウキ、その服新しく買ったの?すごい可愛いじゃん。そういう女の子っぽい格好俺好きだなあ。』
『そう、この間ネットで買ったんだ〜。可愛いよねコレ』
そう言って、私はワンピースの裾をヒラヒラとたなびかせた。
ソラは私の彼氏。ソラとのデートの為に、女の子らしい可愛い服を買って、小さなカバンを買って、少し可愛い系のメイクを施した。
・・・
私は私を使い分ける。
ソラと会うときは、全力で女の子らしい女の子に徹する。
セックスのことをセックスだとはっきりいわない。エッチって言ったほうが可愛らしい気がするから。
彼の前でタバコなんて吸わない。手持ちのカバンにタバコとライターは合わないんだもの。
ハルカの家で会う夜だけが、自分の本当の好みを出すことができる。
女の子らしい服装は本当は好きじゃない。白シャツに黒スキニーのパンツスタイルが好き。
バッグは、何が入るのかわからないような小さいものよりも、リュックの方が好き。そしてリュックの中にはもちろん、お気に入りの銘柄のタバコが入っている。まあ、このタバコはハルカの前では吸わないけれど。
私はハルカが好き。でも、私達は女同士。
世間一般の尺度の幸せは、絶対に手に入らない。
だからお互い、パートナーがいる。
世間に合わせた幸せを手にするために。
私達が一緒になることはできないし、一緒にいることをパートナーに知られるのも良くない。
だから私は、ハルカの家ではハルカの彼氏が忘れていったタバコを吸う。違う匂いを残すわけにはいかないから。
私はソラのことをなんとも思っていないわけではない。良い人だし、優しいし、仕事もできる。おまけにヒゲがよく似合うイケメンだ。私にはどう考えても勿体ないとしか言えないスペックの男性である。
でも、同じ時間を過ごす節々で、ハルカならこう返してくるなあとか、ハルカならこういうことをしてくれるなあとか、気がつけばハルカと比較してしまうのだ。
『ねえ、ユウキ?聞いてる?』
気がつくと、壁にかけられた時計をボーっと眺めていた。目の前に座ったソラはすでにドトールのサンドイッチを平らげ、コーヒーも飲み干している。
『…ああ、ごめん。えっ…と…何の話だっけ』
申し訳なさそうに笑う。
『だっかっらっ!もー上司がほんとに理不尽でさあ…自分も同じミスするくせに、人に注意するのだけは一丁前なんだよ!!』
またその上司の話か。もう何回も聞いているし、そんなに嫌なら部署異動でもなんでも方法はあるだろうに、という話ももう何回もしている。
ハルカはそんな話ばっかりしないよ、と心の中でつぶやく。
ふと時計を見ると、時計の針が動いていないではないか。
えっ、と驚く。
次の瞬間、時計は次の1秒を刻んだ。
クロノスタシス
そう思うと同時に、ソラとの時間はこんなふうに止まらなくてもいいかな、と思った。
『ねえ、ソラ。クロノスタシス…って知ってる?』
『ん?クロノスタシス…なんだろう、聞いたことはあるようなないような…うーんわかんない!』
『クロノスタシスっていうのはね、時が止まったかのように、時計の秒針が一瞬止まってみえる錯覚らしいよ。』
『へえ…じゃあ、今俺たちがこうして一緒にいる時間も、いっそ止まってくれたらいいのな!』
そうだね、と言って釣り上げた口角は、上手に笑顔を作れていただろうか。
手元のコーヒーはすっかりぬるくなってしまっていた。
・・・
結婚。妊娠。出産。それが女の幸せらしい。お母さんも、お父さんも、それを望んでいる。
だから、ソラと別れるわけにはいかない。
普通の幸せを手に入れるため、ソラと一緒にいる必要がある。
幸せってなんだろう。
自分でもわからない。わかる人はツイている。
ましてや他人から与えられるもの、決められるものではないことだけはわかる。
ソラといれば、“女の幸せ”は手に入るかもしれない。それが、“私の幸せ”になるかどうか、今の私には自信がない。
“ありもしない永遠をその中に求める”
これが私の幸せへの願望、かな。
“時間が止まればいいのに”
そう思えるのは、キミじゃないんだよなぁ。
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