【薄い本】Eine kleine Nachtmusik
Eine kleine Nachtmusik (アイネ・クライネ・ナハトムジーク)
『小さな夜の歌』
・・・
『セミってさ、昼しか鳴かないらしいよ。夜はどこかで寝てるのかなぁ。』
彼女が急にそんなことを言い出した。既に夜の帳は下りている。夜風で揺れるカーテンの間から、気だるげなネオンが見え隠れする。彼女の服を脱がせ、ブラジャーのホックに指を掛けたところだった。
『なんで急にセミが出てくんだよ。』
少し顔をしかめ、疑問をぶつける。彼女は時々突拍子もないことを突然言い出すことがある。大抵は意味のわからないことばかりで、返答に困ることが多い。だが、稀に興味深いことを言ったりもする。今回は完全に前者だ。しかも、いきなりセミだなんて。俺は虫が昔から大の苦手なのだ。これから行為に及ぼうとする熱がスッと引いていきそうになる。
『なあ。お前俺が虫大嫌いなの知ってんだろ。萎えるんだけど。そんなの今どうでもいいだろ。』
『ごめんごめん。でもさ、セミって私らと正反対なんだなって思って。』
『何が?』
まだ続くのか。意味不明な話で行為が中断されていることに次第に苛立ちがこみあげる。いつもなら簡単に外せるホックが、今日は妙に硬い。
『セミが鳴くのって子孫繁栄のためでしょ?要はセックスしたいから鳴くの。真昼間に叫びまくってんのよ、セックスしたいセックスしたいって。子供作らせてーって。バカみたいだよね。そういう仕組みだから仕方ないけど。でも人間はさ、夜中に静かにセックスするじゃん。子供がどうとかそんなの関係なく、愛とか、好きって気持ちを込めてさ。なんか、面白くない?』
ちっとも面白くなんかない。くだらない話だ。昼とか夜とか子孫繁栄とか、そんなの知った事ではない。本能ではなく欲望で動くことができるのが人間様の特権だろう。今まさにそれを中断させられているわけだが。
完全に熱の冷めてしまった俺はブラジャーのホックから手を外し、彼女に背を向ける形でベッドに腰かける。床に投げ捨てた自分のTシャツを再び着て、彼女に一瞥もくれず背を向けたまま横になった。
『なんか萎えた。もう寝ようぜ。』
彼女は、うん、と声にならないような返事をし、ベッドの下にある自分のTシャツを着て、俺に後ろから抱きついてきた。ぎゅっと、いつもより力を込めて。なんだろうと思ったが、程なくして、すやすやと寝息を立て始める。
『(なんなんだよ、ったく・・・)』
心の中で毒づきながら、世界から逃げるように目をつむる。すると遠くの方から、微かにセミの鳴き声が聞こえてきた。
何故これまで気づかなかったのだろう。静かな夜の海を、微かに、だがしっかりと、僕の耳まで泳いでくる声。彼女はセミは本能に従って叫んでいると言っていたが、そんな単なる夏の騒音とは思えない。昼間に聴くよりずっと爽やかで、暑さを感じさせない静かな音色に両耳が一斉に色めき立つ。一人の夜に、女からの愛を求める優美な歌のように聴こえる。
なんか、いいな。
先ほどまでの苛立ちが、歌によってするすると身体から抜けてゆく。
『セミ、鳴いてんじゃん。夜でも。』
『鳴いてるね』
『起きてたのかよ』
そんなやりとりをしつつ、彼女の方に身体を向ける。彼女と目があった。いつぶりだろう、まじまじと目を見つめるのは。何かを訴えかけるその表情に吸い込まれるように、軽くキスをした。唇を離してもう一度目を合わせる。そこには、どこか満足気な表情が浮かんでいる。俺自身も、何か熱いものがこみあげてきて、キュッと胸を締め付けられる。くすぐったいような、とても懐かしい感覚。久しぶりにキスをしたこと、行為の中でしばらくキスをしていなかったことを思い出す。身体を重ねるたびに、彼女を大事にする思いが少しずつ薄れていることにようやく気付いた。
『ごめん。・・・やっぱり、しよ?』
申し訳なさとこっ恥ずかしさを言葉に込めて。
『うん。いいよ。しよう。』
彼女は恥ずかしそうに、しかし嬉しそうに、はにかんだ。
彼女が何を求めていたか、わかった気がした。
そんな俺たちなどお構いなしに、歌の主は、生物の本能に従って歌い続けるのだろう。俺ではない、本来届けるべき誰かへ、自分の思いを乗せて。悪いな、人間の俺が横取りしちまって。でも、ありがとう。
彼女の前髪を丁寧にどかし、俺はもう一度、唇を重ねた。今も鳴り響く小さな夜の歌を聴きながら、本能ではなく、愛情で。
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