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選択するということ、自問の日々から得たもの

語学留学とワーホリ、合わせて1年8ヶ月ほどトロントにいたわけだが、日本に帰国して1ヶ月超、もうすっかり日本が日常だ。やはり生まれ育った国、新鮮味は2日ともたなかった。
帰国して人に会うたび、「カナダはどうだった?」と聞かれる。そのたびに私は「楽しかったです」と答える。カナダがどうだったか、すべてをひと言で表せる言葉が見つからない。

インスタに載せた部分だけを指して言えば、「楽しかった」になる。けれどそれは10%くらいの上澄みで、残りの90%は「楽しかった」と形容するには少し違和感を覚える。

「留学ってすごいね」
私からしたら、大学を卒業してすぐに就職し、社会に貢献し、経済的にも精神的にもどんどん自立していくみんなの方がすごいのだ。
トロントにいた頃、みんなが「すごいね」「羨ましい」と言ってくれることと、自分が過ごしている現実とのギャップがあった。状況的にはものすごく幸せなはずなのに、その幸せを存分に享受できていない自分が不甲斐ないと感じてしまう時期があった。

日本語も通じない、地理感覚もない、行ったことのない国に行くのだから、順応するまで苦労するのは当たり前だ。家探し、バイト探し、諸々の申請、人間関係の構築。生活が落ち着くまで3ヶ月くらいかかった。大変だったけれどいつも助けてくれる人がいた。一緒に家を探してくれたり、仕事を探してくれたり。優しくしてもらうほど自分が情けなくなってしまうほどに、いい人ばかりに出逢った。

一方で、こういった類の苦労は想定していたことでもあった。慢性的で実体のない苦悩を私にもたらしたのは、生活の基盤が整った、そのあとだ。
この海外生活を実りあるものにしなければならない、というプレッシャーを自分で自分にかけていた。新卒を捨てることや遅れをとることに焦りはなかったけれど、同期たちはもう社会に出ていて、だったら私も「行ってよかった」と胸を張れる日々を過ごさなければ。そう考えていた。
友達と遊べば「遊んでいていいのか」と感じ、家やカフェで勉強していれば「これは日本でもできるのではないか」と感じ、何をしていても「果たしてこれが最善の過ごし方か」と自問してしまう。今思えば、「頑張っている」という実感がなかったのだと思う。じゃあ頑張るってなんだろう。何をもって頑張っていると言えるのだろう。学生時代まではスポーツをしていたから、頑張る方向もその結果の出方もわかりやすかった。目標を立て、試合に向かって練習を頑張り、試合で実力を発揮し目標が達成できれば頑張りが報われたといえる。じゃあ今の生活の中で頑張るってなんなんだろう。

海外に行って生活しているだけで頑張ってるよ。そう言ってくれる人もいた。確かにそうなのかも。一時はそう思えて、心が楽になったけれど、私はやっぱり具体的に「頑張る」項目が欲しい人間だった。言い方を変えれば、やりたいこととやっていることが結びついている状況が望ましかった。未来と今が結びついている感覚が欲しかった。

トロントはアメリカにもヨーロッパにも南米にも行きやすいから、お金を貯めて各地に旅行に行く人。永住権をとることを目指して学校に行ったりワークビザを取る人。カナダは日本より賃金が高いから、貯金をしながら自分の資格や将来のための勉強をする人。とにかく人と話すのが好きで、たくさん友達をつくって海外の友達とルームシェアをして毎日生き生きとしている人。
じゃあ私は?旅行に行きまくれるほどお金の余裕はないし、永住権をとりたいわけでもないし、コミュ力お化けでも居住環境に刺激を求めてもいない。何をどうしたくて今カナダにいるのか?それがわからなくなってしまったこともあった。ワーホリに切り替えてからは学校もなかったから、ただバイトに行って、休みの日にはコインランドリーで洗濯をして、カフェや古着屋をぶらぶらする。良い感じの趣味を探して編み物やら絵やらいろいろなものに手を出してみる。あとの時間は、というよりすべての時間で、ひたすら自分と向き合う。そんな日常が続いていた。

そんな自問自問自問、の日々を続けていたとき、仲良しの友達がこんなことを言った。

「私は経験しないと何も語れないから、海外に来た」

彼女は私より2つ年下で、でも私よりずっと思考を言語化するのが上手だ。いろんな修羅を潜り抜けてきたからこその達観や逞しさがある。

「日本の良いところも悪いところも、日本から出てみないとわからない。海外の良いところも悪いところも、来てみないとわからない。想像の中のことじゃなくて、経験したことで物事を語りたい。経験者は語る、って言うみたいに」

なんだかすごく腑に落ちた。あれこれ頭で考えてばかりじゃなくて、全部を自分の肌で感じよう、目で見よう、耳で聞こう。人は自分が経験したことでしか考えられないのだから、その経験を広げよう。頑張ってるとか頑張ってないとか、どっちでもいいしどうでもいいな、と思えた。
それからは自分の肌で感じることを念頭に生活した。生活自体は変えていないのに、心が満たされる感じがあった。すべての経験そのものに価値を見出せたから、日々をどう過ごしても大丈夫になったのだ。カフェに行くのが大好きになって、ローカルのカフェにたくさん行っては勉強したり、絵を描いてみたり、ただぼーっとしたりした。そうやって過ごしたのは最後の3-4ヶ月くらいだ。

楽しむだけが有意義な時間の使い方ではない。考えたり笑ったり泣いたり失敗したり悲しくなったり、その全てが今の私をつくっている。経験から得るものというのはその経験をしている時間だけではなく、その後の人生でもつづいていく。ずっと生きてくる。

こうして考えることは、留学していなかったらできなかったことだ。英語力を少しばかり伸ばせたことやグローバルな友達ができたこともよかったけれど、新たな思考回路を手に入れられたことがすごく大きな財産になったと思う。行ってよかった。

日本に帰国してから何度か同い年の友達と飲んだり話したりした。かつて一緒に恋愛や部活についてばかり語っていた彼らが、取引先や商材の話をしていた。それは当たり前のことで、でも私はその当たり前の変化を目にしてはじめて、感じるものがあった。おぉ〜、なるほどねぇ、などと相槌をうちつつ、彼らの話を7割ほどしか理解できなかった。私はまだ、社会人というものを経験していないからだ。それぞれの生きる世界が少しずつ移り変わっていく。同期から2年遅れて社会人になることで、その変遷を身体で感じただけの話だ。それが寂しいとかそういうことではなくて、こうして私たちはライフステージを少しずつ、のぼっていくのだと思った。それによって変わっていくものがあるのは確かだけれど、それでも変わらずこの先も会えたらな、と願わずにはいられない。

留学したことで得たものがある。
でもきっと失ったものもある。
それはどんな選択をしてもそうで、どちらが良いとか悪いとかではなく、自分がどちらを選ぶかというだけ。選ぶとはそういうことだ。

掃き溜めのような、長いつぶやきでした。


ぴろ

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