『金子文子と朴烈』(2017)

金子文子のことは、故・瀬戸内寂聴さんのエッセーで初めて読んだ。大逆事件に連座して死刑を宣告されるが、土壇場で無期に減刑された。すると彼女は、「人の命をオモチャにするな!」と叫んで恩赦状を引き裂いたという。

大逆事件というと、明治時代の幸徳秋水の事件が有名だが、大正時代にも起き、幸徳事件同様に官憲のでっち上げだった。大正のそれは、関東大震災後の人心の動揺を抑えるために仕組まれた。国内の不穏な空気をかわすために官憲が行うのは、常に外敵を作って民衆の関心を逸らすことだ。

この映画は大震災とその後の朝鮮人大虐殺を背景に、朝鮮人の独立運動家と彼に共感する日本人女性の生き様を描いている。二人はでっち上げ事件を否認するよりも、むしろそれに便乗する形で自分たちの主張を世に広めようと図る。日本人俳優や新宿梁山伯の金守珍も出演してはいるが、日韓合作ではなく、全面的に韓国スタッフで制作された映画である。

低次元の民族感情で作られた反日映画ではない。朝鮮人に対して公平であろうと努める取り調べ担当の立松検事や、文子の人間性に次第に惹かれていく獄吏の冷静な描き方に、制作者たちの真摯な姿勢と健全な知性をうかがうことができる。

それでもなお、この韓国映画にはやはり朝鮮人美化、日本人矮小化の気配がかすかながら漂うことを否定できない。日本側のチェックが働いていないせいだろう。獄に繋がれた朝鮮人たちが常に鼻息荒く意気軒昂であるのに対し、日本政府の要人は総理以下、全員が彼らに振り回されてあたふたと慌てまくる小物のように提示される。

内相の水野錬太郎一人が内閣全体を牛耳る設定も、あまりに粗雑な単純化であろう。日本に限らず、一国の政府を一個人がそれほど簡単に左右できるようであれば国は成り立つまい。そもそも、男爵の水野をあたかもヤクザ映画の卑劣な悪人のように造型していることが納得できない。敵役に気品がないことが映画の品位を損なっている。

それでもこの映画を観るに値するものにしているのは、文子を演じるチェ・ヒソの目の醒めるような演技だ。ここにおける文子は、寂聴尼のエッセーが示唆する男まさりの女丈夫ではなく、明るく前向きな若い女性である。そのキュートなキャラクターをチェがいかにも軽やかに、あざやかに演じている。

何より驚嘆するのが、彼女の完璧な日本語だ。金守珍らに特訓を受けたのかもしれないが、訛りがないだけではなく、言葉に生きた感情が乗っている。外国人の空虚なセリフ回しとはまったく違うのである。

対照的に、『テルマエ・ロマエ』における阿部寛の珍妙な英語風ラテン語を思い出してしまった。

チェ・ヒソという女優は、石井裕也が韓国で撮った『アジアの天使』でも魅力的な演技を見せていた。俳優陣の層が厚い韓国映画界でも、傑出した一人ではないかと思う。


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