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3年ぶりの教員復帰!
3年間お世話になった久米島を離れました。
久米島では中学校の学習支援のお仕事を含め、町の久米島高校魅力化事業に3年間携わらせていただきましたが、特に最後の一年で
自分は、教員としてのアプローチでしかうまく教育と関われない
と気づき、島で教員になるという非常に可能性の低い道を模索していました。
私が久米島で教員になるには「臨時的任用」以外なく、中学と高校両方に登録(沖縄県は高校と義務教育の登録が別々)、さらにスクールカウンセラーにも登録し、そしてこの可能性は何度も言いますが、大変低いので、フリーランスで活動する道も少しずつ進め、久米島に残れる道を考えていました。そんな中、家族の問題が発生し「東京に戻る」という選択肢も出てきて私の頭は大混乱。
頼れる親切な友人たちが、いくつかの仕事のオファーをくださいました。関東圏の私学、久米島の小学校など・・・。それらのオファーをいただきつつ、沖縄県の臨任の依頼を待つ日々。どこに行ってもいいようフリーで収入を得られる準備もしつつじっと待っていた、2月末、思いもかけず那覇の私学からオファーがきたのです。
あまりの突然の話に週末までの猶予をいただき、またまたたくさんのお友達に相談。お友達みんなが「それを受けるべき!」と。特に、私のことを近くで見てくださっていた久米島高校や球美中学校教頭先生から
「平野さんは教員になるべきとずっと思っていた。すごくいい話、相談受けていたら絶対その仕事を勧めてた」
「自分や自分の家族がそのオファーを受けたら絶対受けます、それがいいです」
と言っていただけたのがとてもとても嬉しくて、この道を与えてくださった神様に心から感謝しました。
その一方・・・
久米島でがんばり続けている人の姿を見るたび、「なぜ自分は久米島にずっと住むことができなかったのだろう」と思い、自分の失敗の原因を探ろうとしました。こんなに住みやすく、自分が無理せず暮らせる素晴らしい環境だったのに、住み続けることができなかった、
なぜ?何が悪かった?何が足りなかった?
何度も何度も自問自答しました。
でも、やめました。
なぜ、私は那覇の私学に導かれたのか?
こっちを考えて、自分のすべきことを考えることにしました。
心配していた3年間のブランクは全く問題なく、3年前と同じように授業ができ、3年前と同じように生徒たちと接することができています。
声が出なかったらどうしよう?→出ました!
50分授業できなかったらどうしよう?→できました!
肩が上がらないのに黒板書けるかな?→五十肩急激に回復、板書問題なし!