先天性小耳症と片耳難聴の話
11月9日はNational Microtia Awareness Day(国際小耳症啓発の日)なので、あまりたくさんの人に需要のある話ではないけれど、7000人から8000人に一人の割合で生まれてくるという、小耳症という生まれつきの病気とそれに伴う片耳難聴についてのお話です。当事者、家族、友人でこの病気を持っている人の参考になればいいなと思いますが、あくまでも体験談なので、専門的な話は専門家に聞いてください。
生まれた時の症状
小耳症は症状に個人差があり、私の場合は右側に、普通の耳の半分から2/3くらいの大きさの全部耳たぶみたいな柔らかさの小さな耳がついていた。下記のグレードでいうと2くらいかな。耳の穴がほとんど塞がれてしまっている外耳道閉鎖も伴っており、伝音性の片耳難聴でもある。
私が生まれたとき、病気に対して両親がどう思ったかは聞いたことはないが、他の姉弟と同じように大切に育ててもらったと思う。
ちなみに、なぜこの病気が発生するのかは今もわかっていないらしい。
現在の状態
複数回の手術を経て、正常の耳と同じくらいの大きさの耳を作ってもらい、また成人後、真珠腫を発症したため外耳道形成手術もしてもらったが、聴力回復には至らず。
小耳症の認知を広めるためにこの記事を書いているので、現在の耳が見える写真を…と思い探してみたけれど、小さな頃から隠すように習慣づいてるためか耳が見える写真が驚くほどなく、ヘッダーのあまり耳がよく見えない写真とウェディングフォトから1枚くらいしか見当たらなかった。
誕生
1980年代後半、横浜生まれ。
両親は生後6ヶ月くらいで、家から近くの神奈川県立こども医療センターで診てもらうようアドバイスを受け、それ以降、1年に1回、栃木に引っ越した後も通院することになる。
幼少期〜中学生時代
両親が幼稚園や小学校の先生たちに話をしたのかは知らないが、結構みんな、私の耳が普通ではないということは知っていたように思う。とはいえ、耳が見えないように、というのが我が家のスタイルだった。
七五三は髪を結い上げずおかっぱスタイル。髪は結ばなくてもいいように基本的にいつもおかっぱか肩にかかるくらいだった。
耳のことで差別的な発言を聞いた一番最初の記憶は幼稚園年長の頃、近所の男の子から。
「耳が小さいくせに」
だったかな。今思えば本当に悪口にもなってない、しょうもない言いようだけど、人との違いに敏感な子ども時代は結構悲しかった。
小学校に入った頃、校庭で遊んでいたら高学年の知らない男の子にいきなり髪の毛を掴まれて耳を覗き込まれたこともある。これはびっくりしたし、自分の知らないところで私の病気についてどんな風に広がっていたのかとも思う。
手術後の耳を見たいという人がいて、見せたら「うわー気持ち悪い」と言ってきた人もいたなぁ。「そんなこと言わないの!」と即座に注意してくれた先輩もいたのは救いだったけど。
他にもそれなりには耳のことで嫌な思いはしたことがあるけど、一つ一つ言及しても仕方がないのでここではこれまでにしておこうと思う。
でも、言った本人、行った本人は覚えてないかもしれないけど、こういう傷つけられた経験は、何十年経っても記憶から消えないものだ。
初めての手術
小学校4年生の夏、夏休みの後半から新学期の1〜2週間にかけて、約3週間ほど入院し、初めて外科手術を経験した。
正常な方の耳の型を事前に取り、耳周りの髪を剃り、手術に臨んだ。
10時間くらいに及ぶ大きな手術だった。目が覚めて最初に発した言葉は今でも覚えている。
「トイレ」
掠れた声で尿意を母に訴えたけど、これは尿道カテーテルへの違和感でトイレに行きたいと感じただけで、特にトイレに行く必要はなかった。術後2〜3日はカテーテルのお世話になった。
手術は、肋骨付近にある助軟骨を取り出し、耳の形を作って、耳に埋め込むというものだったので、かなり身体への負担は大きく、術後数日間はベッドの上で過ごした。この時の手術の痕は右胸に20年以上経ってもそれなりの存在感はある。
1回目の手術では耳の外側の形を作り、頭蓋骨にペタッと貼り付けるような感じまでを行った。1年半くらいかけて、作った耳が馴染むのを待ち、次の手術となる。
小学校4年生って自分では結構しっかりしてると思ってたけど、今小学校4年生くらいの子どもを見かけると、こんな身体の大きさで胸を10cmほど切るような手術を受けたのか、と感じるし、どれほど当時両親が胸を痛めたことだろうと思う。
しばらく球技や激しいスポーツなども控えるよう言われたので、4月に入部したバスケットボール部を退部した。
(あまり自分自身好きじゃなかったので少しホッとしたのを覚えている。)
2回目の手術
1回目の手術から時間を置き、頭蓋骨にくっついた状態だった耳を起こす手術。小学校5年生から6年生に上る年の春だったと思う。
最初の手術は胸部から骨を取り出して耳の形を作ってもらう必要があったため長時間に及んだけど、このときの手術自体は3〜4時間くらいだった。
1度目に比べて身体への負担は少なかったけど、起こした耳の裏側の皮膚が必要だったので、足の付け根の部分から移植したのでここにも15cm程度の手術痕が残った。とはいえ、深いものではないからか胸の傷ほど今は目立たず、夫は結婚1年半目にして初めて気づいたくらいだ。
1回目の入院の時に出会った小さな女の子がまだ入院していて、重い病気を持ち病院で暮らす子どもたちの存在を目の当たりにした。
3回目の手術
中学校2年生から3年生になる年の春、3度目の入院・手術をしたけど、何の手術だったかあまり記憶にない。形を整える手術で、これも3〜4時間くらいだった。
友達が何人かで手紙を送ってくれて嬉しかった。当時片思いをしていた先輩から、卒業式に第二ボタンまでもらって同封してくれて、手術よりもそっちの方が記憶に残っている。
術後、担当してくれた先生が検診に行くたびに、自分で作った私の耳を「うん、きれいだね」と自画自賛していて面白かった。形成外科医ってアーティスト気質なのかな、と思った。
高校〜大学時代
あまり気にせず過ごしたものの、ポニーテールなどの髪型への憧れは常にあった。一番辛かったのは飲食店のアルバイトでは髪を結ばなければならないことで、結ばなくてもいいようにショートカットにすることも多かった。
胸や足の付け根の手術痕は10代の頃はまだ多少目立つ感じだったので、身体へのコンプレックスはまぁまぁあった。年ごろなので、男の子といい感じになったときにどう思われるだろうか、とか気にしたりもしてたけど、初めて性行為をしたときから現在まで、相手に激しく驚かれたことはないけど、かわいそうに…みたいに言われたことはある。
音の聴こえに関しては、学生時代はそこまで気にはならなかった。
実は小学生の頃に受けた聴力検査で、小耳症のある右耳だけでなく、左耳の聴力も平均値を少し下回っていることは指摘されていたのだけど、学生時代に困った記憶は驚くほどない。覚えていないだけだろうか。
就職活動〜社会人
就職活動はうまく行き、特に自分の病気について公表することなく内定も早めにもらうことができた。
内定をもらった後、会社から健康診断を受けるように指示され受けたけれど、聴力検査が含まれていたのか記憶にない。このとき指摘されたのは貧血だけで、聴力については指摘されなかったからだ。
入社後、配属先が決まり、少しずつ聴力が問題になってきた。
というのも、ITの会社特有なのかわからないけど、声が小さくぼそぼそ喋る人が多くて、右隣の人の話が聞き取れないという問題に何度も直面するようになった。
真珠腫発症
話は少し遡り、3回目の手術後数年経った大学時代に検診が2年に1回になり、病院も子ども医療センターから近隣の大学病院へと変わった。
大学2年生の頃、小耳症を患っている側の耳・顎の辺りに痛みと発熱(37.5°くらい)があり、物が噛めないくらい腫れ上がってしまったので口腔外科に行った。抗生物質と痛み止めを出してもらい、痛みも峠を越したので次の耳の定期検診の時にでも話をしよう、と思い特にこの時は何もしなかった。
今思えばなぜ主治医に連絡しなかったのかと思うけど、痛みが引くと次でもいいかと思ってしまう性格は本当によくないと思う。
でも、この時の痛みは人生で1番痛かった。4階に住んでいたけど、「ベランダから飛び降りて楽になりたい」と思うくらいには痛かったし、20歳くらいでさすがにわりと大人になっていたけど母に泣きながら痛い痛いと電話した。母は「本当に我慢できないと思ったら救急車を呼びなさい」と言ってくれたので、119番をいつでも押せるように片手に携帯電話を持ちながら痛みが落ち着くのをずっと待っていた。
幸い、抗生物質が効いたのか、パンっと弾けるような音(聞いたような気がするだけかも)と共に膿がどろっと耳の小さな隙間(当時はまだ外耳道はほとんど塞がっていたから本当に小さな穴があるのみだったはず)を伝って出てきた瞬間に、さーっと痛みが引いた。
次の検診時にこの話を説明したところ、次また起こったらその場で連絡くださいね、となり様子見となった。
大学4年生の頃、同じ症状に再度見舞われつつも定期検診が翌月だったこともあり、痛み止めで乗り切ろうとした。本当に「病院に行きなさい」と過去の自分に言ってあげたい。この時は痛みが引くのは前回より早かったけど、微熱はその後検診まで続いたので、検診でしっかり検査(CT)をしてもらったところ、真珠腫と診断された。
これは手術だね、という話になり新社会人になって早々に4回目の入院・手術をすることになる。
真珠腫は、小耳症の手術をした人がかかるわけではなく、一般的にもなる病気だ。
この人生で一番痛かった強烈な痛みの理由は内部から骨や組織を圧迫・溶かしていたかららしく、もっと早く精密検査してもらえば良かったと思った。
4回目の手術
真珠腫は通常手術で取り除けるものだけど、私の場合は外耳道がないため、手術は難しいものになると言われた。再発防止のためにも外耳道を作った方がいいという話にもなった。
日本では、通常の小耳症の手術では外耳道形成手術までしないことが多いらしい中、真珠腫のおかげで外耳道形成手術をすることになったのはラッキーだったのかもしれない。
外耳道形成手術で聴力が回復するかもしれない、とも言われた。
今回の手術は20歳を越えていたので、初めて手術の説明を受けるのも同意書を書くのも自分で行ったので、少し新鮮だった。実家の栃木からは遠く離れていたので、母や弟がお見舞いには来てくれたけど、入院の準備も手続きも全部自分一人でした。
日本は高額療養費制度があるので、総額80万円くらいした入院・手術費は10万円くらいだった(正確には覚えてない、、、)。まだ入社して3ヶ月くらいだったので有給は使えなかった代わりに傷病手当が会社からもらえて、給与の2/3くらいはカバーされた気がする。ただし、2週間の欠勤だったので査定に響き、ボーナスはカットされた。
手術はうまく行き、外耳道を手に入れた。これは結構違いがあって、聴力は回復しなかったけど両耳にイヤホンがつけられるのは結構便利なことに気づいた。
補聴器
外耳道形成手術をしたら聴力が上がるかもと言われていたけど、著しい違いは見られなかった。それでも、穴があることで通常の補聴器がつけられるようになったので、試しにアナログ補聴器を作ってみたけど、あまり使わなかった。
なぜデジタルではなくアナログだったのかと言うと、保険の適用外なのでずっと使うかわからないものにそこまでお金をだす気力はなかったと言うのが本当のところ。
ずっと片耳で生きてきたから、なくても困らないけど便利だったらいいな、くらいの気持ちだった。
海外でのキャリア形成
20代半ばで正社員で入社した会社を退職して海外ボランティアに参加したのをきっかけに、海外でのキャリア形成に興味が湧いてきた。
片耳が聴こえない事による言語学習のハンデはあまり感じなかったが、英語が理解できなくて聞き返すことも、ただ聞こえなくて聞き返すこともあり、話してる相手はただ私が英語を理解できていないだけと思っていたと思う。
特に日本語以外の言語を使う人たちの多くは、言語の発声方法の違いからか、一般的に声が大きいので、日本にいた時よりも聞こえなくて苦労をすると言う経験が減った気はする。
そのため、音の聴こえだけで言うと、海外の方が断然働きやすいと感じている。
現在、ニュージーランドの現地企業でITエンジニアとして働いていおり、上司以外は片耳難聴であることを知らない。同僚たちにら伝えるタイミングを完全に逃したまま3年目になってしまったので、きっとこのまま伝えることはないかもしれない。一般的にはどのタイミングで伝えるのが良いのかは今でもよくわからない。
今後の予定(主に補聴器)
音の聞こえの問題は深刻ではないけど、やっぱり補聴器への憧れみたいなのはあって、ここ数年で知ったADHEARと言うステッカーで耳の後ろあたりに貼り付けるタイプの補聴器を試してみたいと思っている。
幸い、いくつかのニュージーランドの言語聴覚士の元でトライアルできるらしいので連絡してみようと思いつつ、先送りにしている状況だ。
また、ニュージーランドで耳鼻科にかかった時に、ADHEARに興味があることを聞いてみた。
その耳鼻科医からは頭蓋骨への埋め込みタイプの骨伝導の補聴器をおすすめされた。
これは来年中には一度何かしらのアクションを取ってみようと思っている。
最後に
取り留めのない話になってしまったけど、
耳の形が少し特徴的な人がいたら小耳症かもしれないこと。
小耳症の人は音の聴こえに問題がある場合が多いこと。
命に別状のない病気だけど、度重なる手術や人生で受けてきた差別的な扱いにより、センシティブな人もいるだろうということ。
など、知っててくれたら嬉しいです。
耳のことについては聞かれたい人・聞かれたくない人もいると思うし、見せることに抵抗がある人・ない人もいると思います。
私は耳の話をすることはいやではないけど、人に見せるのは未だに少し勇気がいります。
なので、こういう病気があることを知ってもらって、見守ってくれてたら十分だと思っています。
最後まで読んでいただきありがとうございました😊