モラトリアムはかく語りき

お初にお目にかかります。モラトリアム思想家です。 自分の考えや創作などを発表していこう…

モラトリアムはかく語りき

お初にお目にかかります。モラトリアム思想家です。 自分の考えや創作などを発表していこうと思います。 思想のメモ帳。

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怒ってます!!!

私の大学の哲学の教授に、常に怒っているような方がいる。表情はもちろん、その動きにも怒りが迸っているようにさえ見える。 先生のことを、我々学生は恐れていた。しかし、一方で可笑しいとも思っていた。 印象的なエピソード。 入学したて、一年生の初めての授業の時、先生は一番後ろの席で寝ていた学生の目の前に行き、部屋中に怒声を響かせた。そして、最終的にその生徒を教室の外に追い出した。 以来、その出来事は伝説として、我々から後輩へと語り継がれ続けている。 まあ、とても怖く、とっつき

    • 我々は考えていない。

      客観的な真理なるものが人間を支配している。 誰にでも分かるということが、至上の価値とされている。 我々は考えることをやめ、納得することだけを始めた。 論破することは心地いい。しかし、相手から考えるということを奪う。 忘れてはならない。根拠にも根拠があり、そして意味がある。 分かりやすい真理なるものによって、誰かが苦しんではいないだろうか。 その真理は、何者かの犠牲の上に成り立ってはいないだろうか。 実際、我々は繰り返してしまう。 考えることが出来なければ。

      • 自分が持っている何かを売るってことで、喪失感を感じてしまう。 自分の一部が無くなったように感じてしまう。 だけれども、一方でそれを傲慢だとも思う。所有権の問題だ。 なんて、 つまるところ私は、買った価格より売った価格の方が安いことに納得できていない。

        • ❌ 欲望→物  ⭕️ 物→欲望

          いやはや、休日でございます。 今日も私、筋トレをしながらテレビを見ておりました。まあ普段テレビと言えばNHKで、それ以外は映画とかたまにやってるの見るぐらいで、民放は誰かがつけたのを見るぐらいなんですけどね。 まあ、コマーシャルが多いこと。たいして勿体ぶるようなものでもないのに、コマーシャル挟まれると気になったりして、なんですかね。暇なんですかね。 いや、コマーシャルってのは見事なもんだ。人を惹きつけるやり方ってやつを心得ていやがる。 急にドラマチックな音楽、大声、意

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        • モラトリアム、問題意識持つ
          10本
        • モラトリアム、文学に勤しむ
          6本
        • モラトリアム雑記
          4本

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          顔殴られて腕時計バラバラ

          以前、NHKのドキュメンタリーで『半グレ』についてやっていた。 『半グレ』とは、暴力団に所属せずに、犯罪行為を行う集団のことだ。 この番組で私が一番衝撃を受けたのは、彼らの犯罪行為に有名大学の学生が加担しているということである。 具体的にはこうだ。まず、イケメン風の男子大学生が街中で若い女性をナンパする。そして、その女性と恋愛関係を装って親しくなる。親しくなったところで、半グレ勢力が運営しているバーとか居酒屋に連れて行き、酒を飲ませる。そのあと、酒の代金と言って法外な値

          顔殴られて腕時計バラバラ

          「競争ではない」響いたオードリー・タンの言葉

          筋トレをしながらニュースを見ていたら、あの台湾のIT担当大臣のオードリー・タンが、福島県の学生たちと対話を行なったというニュースがやっていた。 学生たちの質問に、分かりやすく、そして丁寧に解答する彼の姿は、彼が大人物たる所以を強く表現しているように見えた。 一人の学生がこんな質問をした。 「私はコンピュータ関係の勉強をしているが、周りには私よりもコンピュータが好きな人や、技術面で優れている人が沢山いる。そういうのを見ると不安になることがある」 この質問に対し、オードリ

          「競争ではない」響いたオードリー・タンの言葉

          FF7は資本主義社会の矛盾を如実に描き出していた

          私は今、非常に興奮している。 exciteしているのだ。 同じことを2回も言い、どこか変態的な印象を与える文章で始まったこの記事であるが、事実、私はexciteしているのだ(3回目)。 何故か。何故、私は興奮しているのか。 それは、 FF7(ファイナルファンタジー7)が、 あの新進気鋭の哲学者 斎藤幸平の著書 『人新世の「資本論」』 で言及される現代資本主義社会の矛盾を、 非常に巧妙に描き出していたからである。 FF7とは『ファイナルファンタジーVII』(ファイナル

          FF7は資本主義社会の矛盾を如実に描き出していた

          気づいたら、生活は戦いだらけだ

          ふと気が付いてしまった。 世の中は戦いばかりだと。 なにを物騒なことを言っているのだと、思われるかもしれない。 いやいや、なにも私は、世界戦争が始まろうとしているとかそういうことを言おうとしているのではない(実際にそれが始まろうとしていたとしても)。 もっと近く感じられるところ、つまり、私たちの日常生活という次元にも、『戦い』があふれているということに、気づいてしまったのだ。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ たとえば、 買い物に行く。スーパーでチョコレー

          気づいたら、生活は戦いだらけだ

          『証言①:或る思想犯の失踪について』

          「私は、この部屋で彼と暮らしていました。朝、同じ時間に起きて、同じ朝食を食べ、同じ職場へと、同じ電車で通っていました。仕事内容も基本的に同じで、彼はよく私に相談に来ました。仕事が終わると、同じ電車に乗って帰り、同じタイミングで家につき、同じ夕食を食べます。私たちは常にとは言いませんけど、一日の内のほとんどの時間を共にしていたのです。しかしまあ、彼は疲れると私よりも早く眠ってしまうので、夜、眠る時間は私のほうが遅かったかもしれません。」 「基本的に良好な関係でしたよ。これだけ

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          『証言①:或る思想犯の失踪について』

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          髪、意外と自分で切れた件

          コロナのせいにしてきた。 たいして興味のない、有耶無耶の知人との付き合いなんかに、ていのいい言い訳として使ってきた。 コロナなるものを擁護するなんて、そんなバカげたこと、あたしは断じていたしませんが、きゃつの有無を言わせぬ絶対的な権力は、優柔不断を絵に描いて、それから、もうちっとぼやかしてたようなあたしの日々を、片手間に片付けていってしまったのです。 あたしの生活のほとんどをかっぱらっていっちまったわけだから、"髪を切る"なんていう、あたし自身にしか関わらんような些事、

          髪、意外と自分で切れた件

          『自己責任論』には根拠がない。『自由意志』など存在しない。

          コロナ禍の暗雲垂れ込める中、ある言葉が人々の間で流行している。 『自己責任論』 他人、時には自分に対してすら向けられる残酷な響き。 「だが、それは現実。」人は言う。 我々の選択は、我々が自ら選ぶものである。 自由意志を持つ我ら人間は、自らの運命を自らで切り開くことが出来るのだ。 全ての行動は、何物にも干渉を受けない個人の意志によってなされる。 そう、自由意志だ。 それにもかかわらず、困窮し、苦しみ、奈落に堕ちることは、 すべて個人の責任に因るものである。

          『自己責任論』には根拠がない。『自由意志』など存在しない。

          ”当たり前”解剖

          タイトルに書いた通りである。 ”当たり前”とは我々が作り出した偏見だ。 ”当たり前” 我々は、”当たり前”を持っている。 たとえば、人間についての当たり前。 人間は、言葉を話し、二足で歩き、食事を口から食べ、目でものを見る。そして大体手が二本あり、足も二本ある。 人間=大体こんなもの=”当たり前”の人間 ”当たり前”はこうして生まれる ”当たり前”は、その人の経験によって生まれる。 「生まれた時から、これまでに見た人間の多くは、大体こういう特徴を持っていた。

          四千字:小説『ニヤニヤ』

          スズキは昔から芯の通った男だった。自身の中にある確固たる意志は、時に周りを巻き込み、時に疎まれもしたが、確固たる意志を持つ彼にとってそれは大きな問題ではなかった。彼にとっての問題と言えば、彼が生きている社会の問題それ自体だった。どういうわけか鬱屈した日々を生きることになった彼にとって、そういった問題は真に迫り、自分を当事者として考えないでいることは不可能だったのだ。しかし、周りの人はそうではない。そのこともスズキは知っていた。 彼は現在、とある工場勤務を生業として、日々を生

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          ありがとうございます!

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          自己は肯定も否定もしなくていい

          ”自己肯定感” 自己啓発書やインターネットサイトなどでよく見かけるこの言葉。意味は、読んでそのまま「自己を肯定する感情」である。 巷では、「自己肯定感を高める」だったり、「自己肯定感が低い」といった言い回しで使われることが多いようで、そのための”方法”なるものを伝授すると題した出版物も多く見受けられる。 しかし、私はこのような「自己肯定感」に対して、大きな違和感を持っている。 その違和感の原因は、 ”自己”というものそれ自体について思うところがあるということ。 こ

          自己は肯定も否定もしなくていい

          スマホ恋人白書

          世界中でベストセラーになっている、アンデシュ・ハンセン『スマホ脳』にこんなことが書いてあった。あのマイクロソフトの創始者であるビル・ゲイツは、自分の子供が14歳になるまでスマホを与えなかったのだ。 それはスマホの危険性を知っていたからだ。ビル・ゲイツだけではない。あのスティーブ・ジョブズも、自分の子供に対してスマホを与えるということに慎重であったという。 まったく、その危険性をよく分かっていながら、大衆に対しては買うように煽る。その甲斐もあって、スマホはもはや必需品だ。