日常系としてみる『パトレイバー』

 『機動警察パトレイバー』シリーズ。ヘッドギアにより企画され、アニメ・漫画とメディアミックスでの展開がされた作品だ。

日常系としてみる『パトレイバー』

 押井守が関わったばかりに、「コンピューターが——」とか「自衛隊と戦後の欺瞞が——」とか、オタク好みの文脈で語られるが、パトレイバーとは日常系の作品だと言うことができる。

(ただしゆうきまさみに押井守と、複数の人間によって作品がOVA、漫画、映画、TVアニメと作られているために、各作者によるキャラクター・世界の描写には差異があり全般的な判断はやや困難だが、それでも『パトレイバー』という基本的な概念は共有している以上、『パトレイバー』というものに対する判断は可能だと考える。)

 日常系という判断は何によって可能なのか。それは、作品の構造と登場人物の様態からである。

死と日常

 パトレイバーの基本は都度起こる変な事件の対処と、それを通して現れるキャラクターの性格だ。この点では、ドラえもんやサザエさんと変わらない。

 しかし、事態とそれを通した人間像など、フィクション全てに共通する構図である。だから、その限りで、サザエさんとガンダムやマクロスといったロボット物は一緒だ(後に補足する)。その中で、何にフィーチャーするかで、その作品の意味合いは異なる。例えばロボット物でもガンダムやマクロスには死の気配がある。翻って、パトレイバーはどうだろうか。主人公らは一介の警察官に過ぎず、世界を救う訳でも何でもなく、彼らの行動は世界に大きな影響を与えない。寧ろ描かれるのは彼らの人間模様と空気感である。パトレイバーは、戦争や他者との交流や死に面した人間の成長ではなく、純粋にドラえもん・サザエさん的作品即ち日常を通した人間の様相を描く作品なのだ。

 これに対しては、グリフォンとの戦闘や『The movie』での零式との戦闘などがあり、また各所において他者との競争がある(シャフトや帆場暎一との対決)という指摘がされるだろう。しかしガンダムやその他のロボットアニメと比較して、その争いや死の度合いは、相対的に随分と低いものである。日常において、死は現実的な存在ではない。それ故に日常は日常たりえる。パトレイバーは、その内に死を強く含まないという構造のために、日常的な作品であると言える。

 そもそも論だがパトレイバーという作品群自体が、日本の日常にロボットを如何にして落とし込むか、という発想で作られている(作品のコンセプトとして)。

汎用人間型作業機械レイバーが普及した近未来の東京で、レイバー犯罪と呼ばれる新たな社会的脅威に立ち向かう「ロボットのお巡りさん」――特車二課の日常と活躍を描くメディアミックスプロジェクト、それが『機動警察パトレイバー』だ。

(https://patlabor.tokyo/about)より 

 レイバー(作中に登場するロボットの総称)にはナンバーが付いており、運用にも法的規制がある。レイバーとは、日常を描く装置なのだ。

 そのコンセプトからも、フィーチャーされる事態からも、作品における描写からも、パトレイバーは死が希薄である。死の性格から、パトレイバーは日常的な作品、とまずは言える。そして、そのことは、メタ的な次元とも不整合を起こさない。

 前述のように『パトレイバー』は様々な作者によって、様々な作品が作られているが、OVA、漫画、TVアニメ、映画第一作においては、このことは共通するだろう。

学校という独立――人工島と特車2課

 前節では、順序が逆転的ではあったが、『パトレイバー』が日常を志向した作品である、というコンセプトの確認とその実態を弁護した。本節以降では、「『日常系』である」とするに足る、構造と人間模様を説明したい。よくあるテレビのドラマも、死を欠く、という点では日常系と定義できてしまうが、それとは違うのだと主張したい。

 端的に言えば、埋立地と特車二課は、学校と部活動である。日常系と分類される作品によくみられる、学校とそれに付随する活動というものは、閉鎖的で独立的な一種の箱庭とモラトリアムである。学校というのは、一種のメタファーであってそれは本質ではない。重要であるのは、学校的空間とそれを登場人物が共有していることだ。これだけでは説明不足にもほどがあるから、以降で解説する。

 主人公らの所属する特車二課は、東京湾に面した埋立地に存在する。それは外部から隔絶・独立しており、ある種独特の空間を作り出している。現実に存在する学校は、物理的にその外部から隔絶とまで離れていることは珍しいが、特車二課は違う。細かな設定のぶれもあるが、交通の便が悪くバスや電車はなく、通勤など移動手段は自動車やバイクなどになり、また最寄りのコンビニまでは車で往復45分といった恐ろしい立地だ。

 このことをどう捉えるか。これは、埋立地の学校的独立性の設定的補強であると捉えたい。生徒であるならば、学校というものはその生活の中心となりオルタナティブは存在しないが、特車二課の連中は大人である。行動力や資金力など子供とは大違いだ。そうなった際に、現実に存在するような一般的な学校の立地では、彼らには幾ら宿直とは言え埋立地・二課以外の有効な選択肢が登場することとなる。それを設定によって立地を制限することで、大人の行動力を制限するのだ。そしてその為に、埋立地・二課の他に存在が少ない、オルタナティブが少ないという状況を作ることができる。

 更には二課はほぼ自給自足をしているのだが、その様子は本編でも描写されており、実に面白い。このことも、外部に依存しなくてよい、という点で(実際には前述の設定故「できない」のだが)埋立地・二課の閉鎖性・独立性を高めている。ここにおいてよくある日常系と違い、「家に帰る」という行為はまれなものとなる。言わば学校に住んだ状態になっているのであって、毎日が合宿だ。

 以上のことは、隔絶された空間とそこにおけるモラトリアムというものを措定、強化する役割を果たしている。かくして、まず『パトレイバー』とは箱庭における作品だと考えられる。

 事後的な補足にはなるが、「よくあるテレビのドラマが――」ということへの回答としては、箱庭とモラトリアムがそれらを分かつものであると考える。テレビドラマにおいては、オルタナティブが存在するが、日常系においては「日常」(例えば学校生活)のオルタナティブが存在しないのだ。それ故に、テレビドラマは「日常系」ではないと考えている。この考えが前提に本節は書かれている。

(以上のように書くと、二課は犯罪時に出動をしており、完全に外部から隔絶したものではない、と指摘されるだろう。後にも述べるが、出動はあくまで「出動」であって組織の人間でない限りとしての個人の自由な活動ではない。また野明や遊馬がデートしているようにオルタナティブが存在しないわけではない、とも指摘されるだろう。しかし、そのデートは埋立地があるが故に輝くものであり、言わばたまの休日であるからこそ2人とって価値あるものなのだ。つまり、やはり埋立地・二課が、彼らの生活において中心的存在であり、また彼は普段外部から隔絶されている(モラトリアム)のだと言える)

なお二課の建物についての設定は上記記事に詳しくある。

文化部――第2小隊

 前節では、埋立地がどういったものであるかを書いたが、本節では、特車二課第2小隊について書きたい。

 特車二課第2小隊、日常系にありがちなものとして「学校」を挙げたが、第2小隊はさしずめ部活動だ。その様子は特に目標を持たず、ダラダラとしている点で文化部的だ(熊耳は、「学級委員」と言われているがあくまで例えであって、第2小隊はクラスではない。彼らには、担任はおらず、受動的に与えられる授業もない)。自由闊達な隊員(部員)達は、最低限の体裁を整えれば、埋立地(学校)でダラダラとしたり、偶に整備班(他の部活)と遊んだりしている。部活動が学校という組織の中で存続する条件のように、第2小隊にも条件はある。だから訓練もすれば、書類も作る。文化部的な彼らは、所謂運動部のようにひたすらな鍛錬をするようなことも、一体となって何らかの目標に取り組むようなことも(太田は熱心だが協調性がない)、日常的にはない。

 前段にて、最低限の体裁、部活動が存続する条件、といった表現をしたが、特車二課第2小隊においてそれは何なのだろうか。それは、正しく二課としての警察業務である。このように書くと、彼らが嫌々レイバー犯罪に対処しているように思われるだろうが、本当に熱意をもって積極的に「犯罪」に対処しているだろうか。野明はレイバー好きの女の子で、進士はただの脱サラ、遊馬は反抗期息子で、太田はトリガーハッピー、ひろみに至ってはもはや謎だ。NYPDからの派遣である香貫花は、本質的には太田と変わらない狂犬で、犯罪の対処よりも危機の対処ということを考えているように思われる(うまく表現できないが、第2小隊時の香貫花と他隊員に本質的な差があるとは思えない)。例外的なのは熊耳武緒でそれ故に、「学級委員」「おタケさん」などと言われるのだ。それ程には、第2小隊には強い意欲はない。雑なまとめ方をすれば、第2小隊の活動内容は警察活動だ。しかし、それは文化部的な限りではあり、もはやアクティビティと言えってもよいかもしれない。

 子供っぽい一般隊士もそうだが、大人であるところの隊長も性格付けの一端を担っている。後藤隊長は典型的な文化部の顧問だ。運動部の顧問のように、あれをしろ、これをやれと指示せず、基本は子ども任せで、何をしているかわからないが、困ったときは大人の力で解決する。しばしば後藤隊長は、謎多き存在として描かれるが、運動部のような付き合いのない文化部において、子どもである一般隊士で監督者たる後藤さんを理解するのは、それぞれの次元が違うため謎の存在であるのは当然だ。せいぜい偶に行楽に付き合ってくれる程度だ(後藤隊長と隊員の飲み)。このような顧問像は、現実の文化部の顧問と大差あるものではないだろう。

 前段にて、「子供っぽい」としたが、実際作中において後藤隊長は、隊員らを子供だと評しており、このことは『パトレイバー』の学園もの的日常系であることを補強するだろう。

 しかしパトレイバーは完全に日常だけを描いてはいない。では、その非日常は何なのだろうか。『The movie』もOVA7・8話もグリフォン騒動も、非日常ではあるが、圧倒的なそれではない(ガンダム・マクロス的なそれではない)。グリフォン騒動は他校との偶の競走で、これによって彼らの日常が壊されることはない。『The movie 』は、文化祭で、本編からするとドラえもんの劇場版みたいなものだ。やはり、彼らの日常は、壊れない。「公立警察学園特車二課第二小隊部」は潰れない。

 以上をもって、『パトレイバー』は日常系として見ることができると主張するものだが、『パトレイバー』にはあの作品がある。それ故に、単なる日常系以上の深みがある。

卒業――『パトレイバー The movie2』

 押井守による、パトレイバーの映画版第二作。政治的な観点から語られることの多い作品だが、『パトレイバー』シリーズとして連続的に見ても、つまり日常系の終わりとして観ることもできる。寧ろ、今まであった『パトレイバー』の日常が終わるからこそ、政治的観点も引き立つ。

 本作はまさしく『パトレイバー』の完結編である。その終わりで描かれるのが、一般隊士の二課からの卒業と顧問の失恋だ。ひろみと後藤隊長を除き、かつての隊員は第2小隊にはいない。遊馬と野明の関係は、単なる同僚ではなくなりつつある(最早「つつ」どころではないが)。遊馬は、篠原重工に近づくこと、戻ることを決意しつつあり、野明もただの「ロボット好きの女の子」という、本編で強調されてきた概念を捨てる。太田は教官となり、進士は総務部。もう「第2小隊」はない。彼らは卒業してしまったのだ。後藤隊長と南雲隊長との関係も、どこからやって来たか、柘植などという他者によって終わってしまった。

 『パトレイバー』の終わりが、他の終わりではなくて、柘植による方法での終わり(実際の映画の内容での)であったことは意義がある。柘植は、平和な日本に虚構の戦争を作り出し、日本を相対化した。「平和な日本」とは、警察組織によって維持される、あるいは警察組織が主たる暴力である限りでの日本である。『パトレイバー』という日常は、警察という組織によって成立していた。度々、自衛隊という軍事組織は登場していたが、全く組織的にそれが登場することはなかった。90式戦車が都内の道路を移動し、自衛官が銃を持ち町中にいて、上空には偵察ヘリが常駐する。柘植の部下によって、二課は破壊され、第二小隊の面々の思い出が壊されていく。『パトレイバー』にみられた日常は、徹底的に相対化された。日常の相対化故に、如何に『パトレイバー』が日常的であったが示される。

 警察組織内部の混乱の中、ついに後藤隊長は警察に見切りをつける。では、その後は何をするか。それは、かつての部員達とともに、最後の部活動を行うのだ(「特車二課第2小隊最後の出撃だ。存分にやれ」)。

 では何故彼らがやるのか。別に作劇にあたって、彼ら以外に柘植への抵抗という役割を与えてもよかった。どうして、かつての特車二課第2小隊の面々が柘植の野望を阻止することになるのか。それは、『パトレイバー The movie2』が『パトレイバー』の完結編であるからだ。『パトレイバー』という日常を「幻」であるとする柘植に対しては、メタ的な観点にはなるが、『パトレイバー』という日常を体現してきた第2小隊が立ち向かうしかない。そうでなければ、『パトレイバー』は完結することができない。他の誰かが柘植を止めたところで、物語として何が残るだろうか。

 日常はただ終わるだけではない。その日常が終わった後には、また別の日常が続く。日常の否定と、その否定。否定の否定は肯定なのだろうか。『パトレイバー』という日常を否定すること、そのことの否定は、『パトレイバー』という日常をより強く肯定することなのだろうか。哲学的な次元は別として、否定の否定は、大本の完全なる肯定とはならないだろう。何故なら、大本のそれは、既に否定という操作を受けてしまっているからである。否定性を織り込んだそれは、もう完全にもとのかたちではあり得ない。後藤隊長には、南雲隊長は残らないし(「今こうしてあなたの前に立っている私は、幻ではないわ」)、警察も残らない(「突然ですがあなた方には愛想が尽き果てました。」)。しかし、それでも残るものがある、「結局俺には、連中だけか」



セリフについては、上記ブログを参照した。

終わりに

ゆうきまさみの『究極超人あーる』から、『パトレイバー』は何か継ぐものがあり、『パトレイバー』が日常系であることは、以前から指摘、というより既にそれが共通了解の上で、考察がされていたと思う。『パトレイバー』をメインに考察されていた世代と、私とでは世代差があり、「日常系」という言葉遣いに違和感を覚えるかもしれない。「日常系」というのは、ある種の時代的制約のようなもので、学園もの、青春ものと呼んでもよいのかもしれない。現代的な「日常系」は、正しくゆるい「日常」自体を目的としているが、パトレイバーも基本的には、一般隊員たちの「日常」こそがベースであって、それ故に『パトレイバー The movie2』はあのような手法であったと考えている。言わば事後的な弁護だ。

私が『パトレイバー』を優れていると考えるのは、日常を丁寧に描いて、エンターテインメントとして視聴者を満足させた後、全ての終わりを描いている点だ。この点で、終わりのない日常を生きる単なる日常系とは異なる。『パトレイバー The movie2』についての考えには異論があるだろうが、『パトレイバー』は日常系でありつつ、青春ものでもあることができている稀有な作品だ。説教臭いと嫌がる人間は多いだろうが(特に現代のオタク)、しかし現実という残酷な他者を、我々は捨てることはできない。