言葉が慎重すぎやしないか。

最近、というほど最近ではないけれども、SNSになにか書き込む時、()とか、※とか、ただし書きみたいな文面を入れることが多い。自分がなにかを発信するとき、受け手が自分のニュアンスや価値観を受け入れてくれなかった時の保険だ。
言葉のみで伝えることは、誤解も、無知も、表現の誤りも、ド正論も、なにもかもが炎上のリスクだから。
特にTwit〇〇とかTwit〇〇とか...事あるごとに発言ひとつで袋叩きに合う人たちを私は見てきた。ひとがどんな色メガネをかけて人生を生きているかなんて私たちは知る由もない。自分が想像も及ばぬ解釈とばしてくる人も、揚げ足とったように詰問してくる人も正論パンチが好きな人もいるのだ。
でも、人間関係って褒め合うよりも内輪の悪口話の方が断然盛り上がるようにできているじゃないか。ゴシップもそれに対する辛辣なご意見も、言い切りも私たちの毛繕い。SNSでの発信も内輪ノリのような側面があると思う。ただ、あまりにも多くの人に開かれてしまっているだけで。
わかってくれる内輪だけに伝えるつもりのSNSでも、インターネットにのってしまえば身内以外にも伝わってしまう。
これも結構皮肉なもので、図らずも閉じられたコミニュティ向け発言が炎上していたりすると、ほっといてあげてよ、、、と思うのだけど、これがインターネットの宿命だなと思う。

自分の思いをわかってくれる誰かに届くかもしれないが、それ以上に理解してくれない誰かにも見られてしまう。そして勝手に受け取られてしまう。

 誰かに深く理解されることは誰かには受け入れられないようにできている。もうそういうことだと割り切ってしまえるなら楽だけど、言葉以上に、その人を、逃したくない、正論や持論でボコボコにしたい人がいるのだなと思う。あくまで主観ですが。

だから、有面人でもなんでもない私の発言にも慎重になりすぎてしまう。
今つけた、「有名人でもなんでもない」「あくまで主観ですが」という修飾語も、私は、果たしてわかりやすくするためにつけたのか?それとも、”てめぇごときの発言誰もがみちゃいねーよ!”的な世間の声(脳内)対策でつけたのか?
と、余計な言葉を削げないでいる。

言葉選びは慎重な方がいいと思う。
ちゃんと時代に配慮した言葉を使える人でありたい。そう思われたい。見識ある人の文章でありたい。丁寧でいいなって、誰も傷つけなくて素敵っていわれたい。

でもきっとそれは私の思ってることを歪めてしまう。勢いを殺してしまう。言葉を選ぶ途中で、書くことをやめてしまう。
そういう人多い気がする。
何かを自分から発信するとき、なんかやっぱり間違ってるかも〜とか、ああいわれるかも〜とか、めんどくせぇ心配多くない???
これは何の影響なのだろうか。わからない。けどそんな気がする。

そうやってまとまらなくなって、面倒になって自己表現やめたくなりやすい時代だなーって、思ってます!!!言葉が慎重すぎやしないか!!!!




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?