【短編小説】恋海月
ゆらゆらと揺れている。記憶があった。それは淡い。
今飲んでいる恋・珈琲が最後の一杯なんです。と目の前の彼女が言った。もちろん、切なくなった。
恋・珈琲は深い青色をしている。
「瑠璃さん。次の入荷はいつなんですか?」
彼女に尋ねる。彼女の名前は瑠璃(ルリ)。髪の毛は綺麗な銀色で、瞳は恋・珈琲と同じ色合いだ。
肌はキャラメルみたいな褐色。日焼けしているわけじゃなく、元々瑠璃氏が持っている色だろう。
「きっと、もうないでしょうね」
無国籍な風の瑠璃氏だが、当然のように日本語を話す。
「希少なんですか?」
「希少なんてもんじゃありませんよ。殆ど奇跡みたいなものです」
「奇跡なんて」
俺はまだ二十代の半ばだが、奇跡と呼べる出来事はまだ起きていないと考えた。
「恋・珈琲の豆は、海で収穫するんです」
そう語る瑠璃氏は俺の困惑には気がついていない。
話を聞きながら恋・珈琲の最後の一口を飲んだ。瑠璃氏は話を続けた。
「恋海月が、豆をつけてるんですよ」
「海月が豆をつける? それはどういう比喩なんですか?」
「比喩じゃありません。詩的な表現でもありません」
「でも、事実とは思えない」
「だから奇跡なんですよ」
空になったカップを覗く。残香が空気の中で沈澱していた。恋・珈琲を飲んだのは今日で2回目だけど、前回は気が付かなかった。スプーンで掬ってみると、空中に分解した。
店内に絵本が1冊置いてある。瑠璃氏はそれを読み聞かせてくれた。恥ずかしさはもちろんある。が店内には俺と瑠璃氏の2人しかいない。このむず痒さを共有するのは悪くなかった。
「昔々ある所に——」
瑠璃氏の声は深く共鳴していた。
昔々ある所に、貧しい家族が暮らしていました。
父と母と少年の3人でも狭い家で、毎日のように食べるものに困っています。
両親の2人は朝から晩まで働きに出かけます。少年はその間、海に釣りに出かけるのです。
釣れればその日は豪華な魚料理。という訳にはいきません。
釣った魚は街で売って、その金で芋を買いました。少年は、魚がなぜ高く売れるのか知りません。
少年の使う簡素な作りをした竿は、きっと知らない人から見ればガラクタに見えるでしょう。なるべく形の良い木の枝と、海辺に落ちていた紐と針。餌を使える日は幸運でした。
ある日、いつもの様に餌のない竿で釣りをしていると、海に大きな影が見えました。少年は怖くなりました。
食べられてしまうかも。それくらい大きな影です。しかし、少年は勇気を振り絞って、影を見続けました。
影は優雅に泳ぐと、水面に近づいてきました。
来るぞ。
少年は覚悟を決めます。左手の向こうは浜になっていて、過去に何度か泳いで渡ったことがありました。直接あの魚を殺してしまい、陸まで引き揚げるつもりなのです。
きっと高く売れるに違いない。両親の為、少年は海に飛び込みました。
海に落ちていくと、影は水面から顔を出しました。少年は驚きました。
水面から顔を出したのは美しい女性だったのです。
「この話はなんていうタイトルなんですか?」
聞いたことがない昔話だと思った。
「恋海月です」
「恋海月」
思えば、この店内には知ってることのほうが少なかった。
それから少年は美しい女性と何度も会いました。
会う時は必ず少年が崖の上、美しい女性が水面から顔を出すのです。
少年は、彼女の肩から上しか見たことがありませんでした。
初めて会った時は気を失ってしまい、目覚めた時には浜に寝ていたからです。
何度2人は会ったのでしょう。いつの間にか少年は父の身長を抜かしていましたし、水面の彼女を昔ほどお姉さんとは感じなくなっていました。不思議なことに、彼女は歳をとっていないのでした。
少年は彼女のことを考えています。2人は似た境遇でした。お互い貧乏な家の貧しい子供だったのです。
ある晴れた日に、少年は言いました。2人で一緒に暮らしたいと。
彼女は喜びましたが、それは出来ないと言いました。
そして去ろうとする彼女を少年は追いかけました。海に飛び込んだのです。今回は気を失いませんでした。
海の中で目を開けました。後ろ姿を見ると、少年はまた気を失ってしまいました。
彼女に2つの足はなく、魚のようになっていたからです。
彼女は人魚でした。
少年は驚きましたが、彼女との暮らしを考えるとその情熱の方が勝っていました。
2人はそれぞれ、自分の家族にそのことを話しました。
しかし、事態は悪い方向に進みます。
少年の街は人魚を生捕りにしようとしました。人魚の国はそのことを恐れ遠くに国を移動しようと考え始めます。
2人は離れ離れになってしますのです。
人魚が国を移動しようとする日、最後に2人は会いました。
彼女は重い口を開きます。たった1つだけ、2人が暮らしていける方法があるかもしれないと。
少年はその方法を黙って聞きました。
人魚の国に伝わる話でした。海中洞窟の奥に伝説の海月が住んでいて、その海月に実る豆に特別な価値があるのだと言います。
しかし、人魚だけではその豆を収穫できません。海月の毒にやられてしまいます。海月は人魚の匂いを敏感に感じるのです。けど、人間の匂いには鈍感です。
人魚の国では人間は危険だと教えられますが、同時にこの海月の豆の話も聞きます。
人間と力を合わせれば、海月の豆は手に入るのだと。
少年は彼女に手を引かれながら、鳥よりも早く海を進みます。辺りを確認する暇もなく、いつの間にか洞窟の中に入ります。
海月がいました。透明なきのこだと少年は思いました。大きさは少年と同じくらいあります。
きのこの傘の内側に、大量の豆が見えました。深い深い青色に少年は目を奪われました。
彼女は海月の近くに行くと手を離しました。少年は身構えましたが、話に聞いた通り海月は彼女を狙っています。
少年はいっぱいの豆を片手で掴みます。
あとは、少年がもう一方の手で海月を抑えてその隙に人魚が手を引き、あの浜に帰るだけです。
しかし、少年は海月を抑えませんでした。人魚は必死に海月から逃げています。
少年は両手一杯に種を抱えました。その姿を人魚は見ました。
もう、海月を抑えるつもりがないと分かったのです。少年は美しい豆に目が眩んでしまいました。
彼女は逃げ回るのを辞めます。海月の毒に身を任せます。
少年には彼女のその姿が見えていたのか今はもう分かりません。
とにかく泳いであの浜を目指します。当然辿り着けるはずもありません。人魚の力がなくては帰れないくらい遠くに来ているのを彼は気が付かなかったのです。
2人の恋は叶いませんでした。人魚の国では、この出来事があった日から、この海月のことを恋海月と呼ぶようになりました。恋が叶えばという願いを込めて。
瑠璃氏は絵本を閉じた。
「ここまで読めば大体分かってもらえましたか?」
「なにを?」
「恋・珈琲の豆の取り方」
「それは昔話でしょう」
「これは歴史書です」
冗談を言うようなタイプには思えない。それは瑠璃氏が淹れる珈琲の味からも断言できる。
しばし沈黙を置いて瑠璃氏から提案を受けた。
「じゃあ、収穫に行きましょうか。別に恋してなくても、人間と人魚なら同じです」
それじゃあまるで、君が人魚みたいじゃないか。
ゆらゆらと揺れている。きっと何かの間違いだ。
晴天だった。
瑠璃氏はお店の裏から個人の船を出航し、俺は着いていく。瑠璃氏に両足があって安心した。
「免許を持ってるなんて凄いですね」
その年齢で、とは言わない。しかし、瑠璃氏の年齢はとても気になっていることだった。
「免許ですか」
まるで免許の存在を初めて知ったみたいな言い方に不安を覚える。けど、うまく動いているのだから深いことは考えないことにした。俺は休暇中なんだ。
水平線に向かって進んだ。一体何を目標にして進んでいるのか分からない。が少して水面から顔を覗かせる岩肌が見えた。公衆トイレならギリ建つだろう。
瑠璃氏が岩に船を停める。
「近年では恋海月を誘き出す方法が確立されてます」
瑠璃氏がポケットから袋を取り出した。開けると中から青色の珈琲豆が出てくる。
「もしかして、恋・珈琲の豆?」
「はい」
「最後の一杯って」
「飲む用はあれが最後なんですよ」
別に騙されたわけじゃないけど、騙された気がする。
「収穫、成功したら恋・珈琲を飲み放題のサービスがありますよ」
瑠璃氏が俺の浮かない顔を見てそういった。
鼻腔には恋・珈琲の香りが広がり、やる気に溢れていた。
瑠璃氏が海に向かって珈琲豆を挽いている。美しい青が海に降り注ぐ。
「あの話には続きがあって、少年も海月に刺されてしまうんです」
「どうして? 人間の匂いは分からないんだろう?」
「ええ。それは確かです。しかし、恋・珈琲の豆の匂いは分かるんです」
「じゃあ、たとえ泳ぎが得意だったとしても逃げ切ることは出来なかったんですね」
「まあ、もとより泳ぎは得意ではありませんでしたけど。あ、近づいてきました!」
船から水面を覗く。青い海の中に大きな円がぼんやりと見えた。
「行きましょう」
瑠璃氏が言って俺の手を掴み海に飛び込んだ。
ゆらゆらと揺れている。裏切られたと思った。
恋海月は聞いていた通りデカい。まずビビってしまい身体が強張る。
瑠璃氏は優雅に泳いでいた。足を独特な使い方をするのが見える。
恋海月の触手が動く。瑠璃氏を執拗に追いかけた。俺は深いことを考える余裕もなく豆を収穫した。
俺は少年のように欲に溺れはしなかった。もしかしたら、瑠璃氏に恋をしていたのかもしれない。片手で種を収穫して恋海月を抑えこむ。
次の瞬間、瑠璃氏を追っていた触手はピタリと動きを止めて、こちらに向かってきた。
ゆらゆらと揺れている。それでも俺は待っていた。
「流石です」
朦朧とした意識が回復していく。奇妙な揺れ。船の上にいた。
目の前には青空をバックにした瑠璃氏の顔のアップ。
「これ」
俺はそう言いながら手に掴んでいるものを瑠璃氏に差し出した。俺は意識を失いながらも、恋・珈琲の豆を掴んでいた。
「手放さなかったんですね」
初めて瑠璃氏の笑顔を見たかもしれない。
それから1週間ほど経って。最後の、恋・珈琲を飲む日が来た。俺の休暇はもうすぐ終わり。実家にかえるのだ。瑠璃氏は前髪を少し切っていた。
「切ったんですね」
「別に何もありませんよ」
目の前には青色の珈琲。
「俺、今日で最後です。ありがとうございました」
「こちらこそ。贔屓にしていただいてありがとうございます」
あまり多くの言葉は交わさない。それでいいと思った。会いたくなったら、また来ればいい。
瑠璃氏が恋・珈琲の豆が入った瓶をチラリと見た。もう、半分くらい使ってしまっている。
「瑠璃さん、もし良ければ、最後に収穫しに行きませんか?」
実は、今日はそのつもりで来ていた。
「え、宜しいんですか」
よほど意外だったらしく、珍しい表情をしていた。
すぐに船を出す。青い粉が海に落ちる。大きな丸い影が写る。瑠璃氏に手を引かれる。海に吸い込まれる。
水中で奇妙な感覚が身を包んだ。
ゆらゆらと揺れている。身体がブヨブヨになっている。
ゆらゆらと揺れている。記憶があった。それは淡い。
ゆらゆらと揺れている。きっと何かの間違いだ。
ゆらゆらと揺れている。裏切られたと思った。
ゆらゆらと揺れている。それでも俺は待っていた。
誰を待っているのだろう。銀色の髪の影がどこか遠くに行った。
海月の毒で、人魚は人間になっていました。陸の生き物になったのです。
人魚の匂いが消えると、海月は獲られた豆の匂いに気がつきました。彼女の次に少年が狙われます。
海月の毒で、少年は海月になってしまいました。海の生き物になってのです。
おしまい。
銀色の髪の少女は、絵本を閉じた。
懐かしい。
かつて悲しみを癒すために書いたのだった。
この本を開くたびに、あの頃の気持ちがちょっとだけ蘇った。
それは、あまりにも複雑だった。甘みも、苦味も、酸味も、全てが奇跡のようなバランスで成り立っている。
青色の珈琲を口に運んで呟く。
「cwa,cwafeew」
人魚の国の発音だった。