【短編小説】八つ目蟷螂
昨年に姉は高校を卒業して、一日のほとんどを部屋の中で過ごすようになりました。
姉は高校卒業の二週間前ほどから、急な奇声を発するようになりました。
初めは、やめさせようと思いその原因を解決しようしました。しかし、姉に何かを聞けば、見る見るうちに怯えだし、その日の夜には家中の戸締りを何度も何度も繰り返すことになります。
姉が言うところの、『八つ目蟷螂』が入ってきてしまうらしいのです。
もし家に入られたら、卵を生みつけられてしまい、その卵が孵れば八つ目蟷螂の子供たちが私たちを食い殺してしまう。そのようなことらしいのです。
姉の支離滅裂な絶叫から憶測を立てると、こういうことになります。
姉は高校を卒業しましたが、卒業式には出ませんでした。そもそも、その頃には部屋から出ることもほとんどありませんでした。
雪が降る日にだけ、姉は外に出ていました。どうやら、『八つ目蟷螂』は雪の降る日には外に出て来られないようなのです。
その日、姉は久しぶりに部屋の扉を五秒以上も開けてくれました。本当にその頃の姉は、一瞬しか開けてくれなかったのです。
久々に見る部屋の中は、記憶の中の部屋と全く変化がありませんでした。しかし、あまりに変化がなさすぎることが気持ち悪いと感じました。
何も変わらない部屋とは対照的に、姉は変わりました。頬はやつれ、目の下には大きな隈ができていました。表情や喋り方もだいぶ変わってしまい、まるで動画と喋っているような、ギクシャクとした会話になりました。それも最初だけでしたが。
「ねえ、お姉ちゃん。八つ目蟷螂って何?」
私は今の内に聞けることを聞こうと思いました。ここで原因を聞いて、それを解決して、また昔のように明るい姉に戻って欲しかったのです。
「ああ、そうね。あなたにも忠告しておかないと……。本当はもっと早く言わなくちゃいけなかったのに……」
姉は一度も笑いません。急に窓の方に向いて目玉が飛び出しそうなほど何かを凝視したあと、また私の方を向きました。
「なに? 一体どうしたの。お姉ちゃん、すごく変だよ」
「あなた……、学校の裏山に行ったことがある?」
私の声が届かなかったのかどうか分かりませんが、姉は学校の裏山のことが気にかかっているようでした。
「いや、行ったことないよ」
正直のところ嘘でした。あそこは山といっても、その付近には子供たちが遊ぶ公園や、コンビニなんかもありますし、人も昼間なら結構いますから、何度か遊びに行ってたのです。しかし、行ったと言えない、雰囲気がありました。
「絶対に行くな!」
行ってないと言ったのにも関わらず、姉が顔を真っ赤にして怒鳴りました。急にだったので、私の体は大きく反応し、心臓が強く打っています。
「ど、どうしたの急に。い、行っちゃだめな理由を教えてよ」
さっき怒鳴ったばかりの姉は、すでに顔を青白くしていましたい。
「そうね……。その、場所は言わないけどね。あそこには『八つ目蟷螂』の祠があるの……」
「八つ目蟷螂の祠って、それがお姉ちゃんとなんの関係があるの?」
「関係……、そうね。あの日、私達はその祠を荒らしてしまった」
祠を荒らしてバチが当たったということなのでしょうか。いかにも、というような話です。私はしらけていました。
「ああ、そんなつもりは無かったんです。ただ、若気の至りと許していただければ良いのに! ただ、誰にも邪魔をされない、私達だけが知っている秘密の場所が欲しかっただけなんです。ああ、もう二度と荒らしたりしません。もう二度と足を踏み入れたりしません。だから! だからどうか! あ——!」
また、姉は窓を見ました。今度はさっきよりも目をひん剥いています。すぐにカーテンを閉め、私を部屋から追い出しました。
「——その音やめて!」
そんな叫び声が部屋の中から聞こえました。
私たち姉妹の会話は、ギクシャクとはしていましたが、最初だけはなんとか話すことができました。
その日はとても暑い日でした。私は、美樹と雅と健二を誘って学校の裏山に向かいました。ええ、もちろん『八つ目蟷螂』の祠を探すためにです。
正直、姉の話は嘘だと思っていました。ただ、姉の件とは別に、その『八つ目蟷螂』というものに興味がありました。
少し夏と呼ぶには早かったのですが、夜もぬるいその時期は、肝試しにはもってこいだったんです。
四人でコンビニで食べ物を買うと、早々と祠を探し始めました。
時間は夕方の四時ごろだったと思います。私たちは恐怖を抱きながら、しかしそのほとんどは好奇心であり、それと少しの恋心でした。
姉がたどり着いたということは、そこまで山奥ではないと予想を立てて、私達は歩き回りました。二時間ほどでしょうか。道路沿いを歩いていると、何やら違和感のある場所がありました。
道路の脇は木々が生い茂っているのですが、なぜかそこにだけ種類に違う草木が植えてあります。
近づいてみると、古臭い木が落ちていました。健二が持ち上げてみるとそこには、やはりと言いましょうか。『八つ目』と字が書いてありました。
おそらく、この近くにあるのだと健二と雅がその草木の壁をかき分けて歩いて行ったのです。
結論から言いますと、その奥に祠はありました。姉が言ったように、四人くらいならば集まって秘密を話をしたりするのにもってこいの場所だと思いました。
ただ、その祠に祀ってある、奇妙な石像だけは気味が悪く、見ていられませんでした。
健二と雅は近づいて見ていますが、美樹は怖がって私の隣にいます。もう帰ろうと涙を流していました。
その石像は、八つの目がある蟷螂が、泡の卵を生んでいる途中のものです。私はその蟷螂の八つの目の一つ一つが、一人一人を追っているような錯覚を覚えました。
健二と雅は、大したことないなと言いながらも、間も無くして帰ろうか、と言い出していました。私も早くここから逃げるのが賢明だと思いました。
しかし、いや、本当はこんなことを白状したくはないんですが、実のことを言うと、私はこの時、私の保身のためにと、嘘の話をしました。
それは、ここの草木をきれいにしていかないと、呪われてしまうという内容です。
私がその話をし終わると、そんなの嘘っぽいよと、健二と雅と美樹は言いましたが、自然と雑草を引き抜き始めました。他にも、私は何か嘘を言ったと思います。石像を砂で洗うと良いとか、そんなことです。
私は、手伝うふりをしながら何もしませんでした。気分が悪いと言って少し場を離れたりもしました。
つまり、私は、自身が呪われないように、他の三人により罰当たりなことをさせたのです。
その日、私はとても暗い気持ちで家に帰りました。他の三人ももちろんそうでしょう。
でも、次の日に目が覚めた時は、何を馬鹿らしいことを本気にしていたんだと、そう思いました。
ことが起きるのはとても早かったのです。翌日学校に行くと美樹は学校を休んでいました。
「美樹、大丈夫かな」
放課後になると雅が私に声をかけました。私は心配だと、そう言ったと思います。
健二も同じように不安がっていました。しきりに窓の外を見ています。
「なあ、あの窓、ちゃんと閉まってるよな?」
その顔を見て、姉の表情が思い出されました。
「なあ、俺さ、『八つ目蟷螂』が家に入ってくる夢を見たんだ。それで、俺を泡で包み込んだら、一日も立たずに『八つ目蟷螂』が何千匹も生まれて、俺の体を、食っちまうんだよ!」
そして急に叫ぶのでした。最初は私たちをびびらす冗談かと思いました。雅も同じことを思っていたようですが、
「ご、ごめん、夢の話なんだ。ああ」
と、健二が素直に謝るのを見て不吉な予感がしました。
健二は、夢の話とは言ったものの、窓の外をしきりに見ています。
その後で、みんなで美樹の家に行こうという話になりました。たしか、私から言い出したと思います。美樹のことがとても心配だったのです。いや、それ以上に、ただの体調不良で休んだことを確認したかったのかもしれません。
インターホンを鳴らすと、美樹が出てきました。いつもと同じように、すぐに照れたり、恥ずかしそうに笑ったりして居ました。
なんて都合の良いことはありませんでした。美樹の視線は、何かに怯えるよう動き回り急に体をびくりと動かしたりしていました。
「みんなありがと。私は大丈夫。ねえ、みんなは大丈夫? みんなの方が心配だよ。戸締りはちゃんとした? ねえ。みんな、どうなの? 私、心配だよ」
途中、健二も雅も相槌をうちましたが、まるで聞こえていないようでした。二人は、美樹の様子をみて気味が悪くなったのでしょう。挨拶もままならない内に帰っていきました。
私はまだ帰るわけにはいきませんでした。
「あ、行っちゃった。じゃあさ、もう少し二人で話そうよ。私、怖いよ。怖いの。怖いことを考えていると、だんだん怖くないところがなくなって、怖くないところがなくなっていくこと自体が怖くて、全てが怖いってことに気がついてから、怖いのがだんだん膨らむとすごい怖いからさ。ねえ、話そうよ」
パニックになっているような美樹がかわいそうで、しかたなく話すことにしました。手を引かれ、美樹の部屋に連れられました。
「ねえ、帰らないでよ? 私、怖いの……。ドアを開けないでっ! ほら、ほらいま、今の聞こえたよね。ほら、パリパリ、カリカリ、ぱりぱり、かりかり……」
そして美樹は急に叫び出しました。部屋に入ってから、美樹はずっとこの調子で、私はずっと部屋の隅で震えていたのですか、そのことにすら気が付かないほど何かに怯えていました。美樹はもう、その『音』に囚われてしまっていました。
「がさがざ言ってるッ。いやだよぉ。私! あ、影、カーテンに、八つ目!」
美樹が布団を頭からかぶり、叫んでいました。私は泣いていたと思います。なぜ、こんなことになっているのか、まったく理解できませんでしたから。
そして、逃げることに決めました。ドアを開けると、美樹はいっそう激しく叫び、布団から顔を出しました。私をじっと見ています。
「ぁぁぁぁぁぁ! はやく閉めてよ!」
いや、私の後ろを見ています。美樹の悲鳴がとうとう隙間風のようになりました。私はゆっくり後ろを振り向きましたが、何もありません。
「おまえのせいだ!」
美樹が低い声で言い、それっきり、静かになりました。
私は振り返ることができず、走って逃げました。
翌日、健二と雅も学校を休みました。『八つ目蟷螂』の呪い。それ以外に考えられませんでした。後悔してもしきれません。しかも、私だけがなんの問題もないのが、余計にです。
もし、私があの祠で、自分だけ助かろうなんて思わなければ、健二と雅と、美樹も何もなかったのかもしれないのに。
あの後、私はまた『八つ目蟷螂』の祠を探しました。しかし、見つかりませんでした。あの『八つ目蟷螂』の石像が両手の鎌を振り上げ、口を大きく開いた姿に変わっていたのは、知りません。
本当に、何も知りません。私だけは祠に何もしてません。荒らしたのは、私の姉で、健二で、雅で、美樹です。かり、かりかり、ガサガサ、なんて音は聞こえません。だから、聞こえてませんっ! カーテンを閉めてください。ドアも閉めてください。大丈夫です。私は大丈夫です。はい。問題なです。うるさいっ! 家の鍵は? トイレのあの小さな窓は閉めた? やめて、カーテンを開けないでよ! ねえ、やめてよ! ほら、いるじゃない! ほら、影が見えるでしょ! ああ。やめて、影が見えるでしょ! 窓にいっぱいに鎌を広げてる『八つ目蟷螂』の影が! ダメ、ダメ、ダメ。
「——っなんで開けるの! こ、こわいっ、こわいよっ、やめて、カリカリしないで! その音やめて!」
娘は絶叫するとカーテンを閉め、私は追い出されてしまいました。なぜ、こんなことになってしまったのか、今になっても分かりません。
私は、『八つ目蟷螂』は信じません。祠なんて行ってません。だから、その音をやめて。