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【短編小説】オーバーソシャク/ダイナマイトエンゲ
『ナヴァ・成田・エアポート』内にある、『第二ターミナル』は太陽が真上に昇る時と、太陽が沈む直前に、喧騒に包まれる。『食事祈(ショクジキ)』が行われるからだ。
太陽が昇る時の祈りをスリヤと言い、沈む時の祈りはチャンドラと呼ばれる。
そして今はスリヤが始まろうとしていた。
俺はこの喧騒が好きだ。いや、ここにいる奴らで嫌いな奴なんていないだろう。
司祭の老人が壁をパイプ椅子で叩いた。
「静粛に。これよりスリヤを始める。では『美贖武(ビショップ)』の名に恥じぬ男サダ・パティド。挨拶を」
ビショップなんて妙な肩書がついてるサダ・パティドって男は間違いなく俺のことで、この第二ターミナルに集まっている人で知らない奴は居ない。
司祭から焼いた蛙の肉を渡される。それを口に運んだ。
オーバーソシャク(必要以上に噛め!)
ダイナマイトエンゲ(爆発音を鳴らすみたいに飲み込め!)
これが、スリヤでの挨拶であり、感謝であり、規律だ。
ガツンッ、ガツンッ。
集まった奴らは、数メートルも離れた俺の咀嚼音を聴き惚れ惚れとした表情をしている。
ガツンッ、ガツンッ。
逝っちまいそうなほどに恍惚とした表情をする奴らを無視して俺は咀嚼を繰り返す。
ガツンッ、ガツンッ。
ガツンッ、ガツンッ。
ガツンッ、ガツンッ。
口の中で、蛙の肉が固形ではなくなるのを感じる。
今だ。
「——ッ(ゴクン)」
雷鳴の如き光に部屋の中が包まれ、直後俺の嚥下の音が響き渡る。
ドドドドドドドドドドドド……
『ナヴァ・成田・エアポート』の『第二ターミナル』が地響きを鳴らし揺れた。
「おおぉぉ」
感嘆の声がそこらじゅうから聞こえてくる。
司祭の目には涙が溜まっている。毎日二回、スリヤとチャンドラの両方であの老人は涙を流す。
「サダ・パディド。そのソシャクとエンゲは、食材の穢れを取り除き、神は我々につきぬ食材を与えてくれるだろう」
それが合図となり、集まった全員が食事を始める。皆が全身全霊のソシャクとエンゲを繰り返した。もちろん、俺ほどの奴はいないが、これくらいの調理食材であれば、その穢れを取り除くには十分だろう。
スリヤが終わり、俺はいつもの用事を済ませに行く。
蛇の餌やりだ。
俺の父、カトウ・パディドは有名な養蛇家であり、ここチバエリアの食材貢献で大きな役割を果たした。
そのお陰で子孫である俺には聖職者という役割が与えられ、こうして『美贖武』としての仕事にありつける訳だ。
だから、感謝の気持ちを込めて俺も小さな養蛇をしている。
勿論、親父を超える程の飼育技術は持ち合わせていないが。
餌をあげている途中、肩を叩かれた。勿論、俺のリラックス出来るこの時間を邪魔するのは、悪い知らせだけだ。
「貴方が『ナヴァ・成田』のビショップ、サダ・パディド?」
意外だった。それは声の主が女性だったからだ。いつもなら司祭みたいなオヤジが俺に美贖武としての仕事を持ってくるだけなのだ。
振り返ると、まだ二十歳にもなっていないような少女がそこにいた。髪の毛は赤い色をしている。ここら辺では珍しい。
「違うといったら?」
「その緑色の瞳は、貴方以外にはいないわ」
俺は自分のこの瞳を忌まわしく思う。
「ああ、俺が君の探しているサダ・パティドって男だ。でも残念、ここにいるハニー(蛇たち)は君のことを求めてないみたいだけど」
彼女の身体からはキツイ香水の匂いがした。香水はこの世界ではギリギリ許されている嗜好品だ。蛇はその匂いに反応していつもとは違う反応をしている。
「そう、ごめんなさいね。でも、本当にそうかしら?」
彼女はそういうと、蛇に近づく。すると案の定、蛇に絡みつかれる。
いや、違う。すぐに噛みつかれていないのはおかしい。
彼女が笑った。
「ふふ、貴方の言う通り、私は求められてないみたいね」
どうやら、彼女は一筋縄ではいかないらしい。
「君の名は?」
「峰 奏石(みね そうしゃく)。峰って呼んで」
「俺はサダで良い。で、用事は? もしかしてデートの誘い?」
「まあ、そんな所ね。まずはこれを見て欲しい」
すっかり仲良しになった蛇に囲まれながら、峰はある一枚の写真を見せた。
海の上に浮かぶ巨大な施設だ。大昔に存在した居酒屋と呼ばれる場所を思い起こさせる。
俺はこの場所のことを知っていた。
『海上移動陵亭ガネーシャ』
「そうか、ってことは君は……」
「そうね、まあ貴方が想像している通り、国家側の人間で間違いないわ」
「それなら話が早い。帰ってくれ」
俺は明らかに不快感を表して峰にそういった。
移動陵亭は、貴重な食材を塩や砂糖といった味付け行う穢れた行為、『陵理(りょうり)』を隠れて行う為の施設だ。
また、そういったことをする奴は『死餌怖(シェフ)』と呼ばれ、第二ターミナルに集まってスリヤやチャンドラを行うまともな奴からは忌み嫌われている。
勿論、俺だって死餌怖のように食材に味付けや炙りのような加工をする陵理なんて行為、聞くだけで反吐が出るほど穢らわしいと思う。
けど、俺は『ナヴァ・成田・エアポート』の美贖武だ。この辺りを守るだけで手一杯って訳だ。
しかし、彼女は俺が断ることは承知済みのようで、もう一枚、写真を見せてきた。
「帰る前にこの写真も見て頂戴。それじゃあ、また。気が変わったら」
峰は身体に巻き付いた蛇を優しく放して去った。強い香水の匂いが残っている。
峰が残した写真は目を背けたくなる程穢れた場面だった。
四人が横に並んで座っている。テーブルの上には確実に陵理された食材が並んでいて、今まさに食べようとしている所だ。
並んだ人間を一人一人見ていく。一人は白髪だらけの老人だ。男か女かは見た目からは分からない。
その横には、髪を逆立て赤い革ジャンをきた白い肌の男が座っている。ナイフを持たせればすぐに人一人殺してきそうな、そんな目をしていた。
その横には、仲の良さそうな男女がいる。その二人は、緑色の瞳をしていた。
心臓の鼓動が速くなる。
俺は無意識に鏡の前に立って居た。その写真の二人と自分の顔を見比べてみる。
似ている。瞳の色、髪の質、鼻の形。それに笑った時の目尻の皺。
幼い頃に離れ離れになった弟と妹であることは間違いない。
不意に怒りが込み上げる。それは、何もできなかった自分への怒りだ。本当なら、三人で美贖武になる筈だった。
が、その夢は街に現れた死餌怖によって崩れ去った。
弟と妹は、まんまと陵理された食材の誘惑に誘われてしまった。ある日、突然と居なくなってお終いだった。
一週間ほど経って、裏山の中に死餌怖の隠れ家が見つかり、そこで弟と妹が居た形跡が見つかった。
まだ、ただの失踪であれば良かった。魂まで穢れることはなかったのに。
よりにもよって、死餌怖と共になってしまうとは。
ふと我に帰ると、目の鏡が割れている。どうやら自分で割ってしまったらしい。
キツく握った拳を解いた。そして荷造りをする。
もう、覚悟は決まっていた。
第三ターミナルの事務室のドアを開けると、中には三十人ほどの聖職者たちがそれぞれの仕事をしている。
一番奥に、司祭の席があり、その横に峰が居た。
「あら、どうしたのおめかしして」
「デートの誘いだ。もう遅いか?」
「いえ。じゃあさっさと行きましょう」
すると、司祭が慌てた様子で立ち上がる。
「お持ちください、サダよ。貴方が居なければその間、ここに美贖武が不在になってしまう。それは、非常に困る。もし死餌怖が現れたら、我々では対処しきれんよ」
「ああ、それなら『ナヴァ・成田・ステーション』の方に連絡をつけてある。あそこは狭いくせに美贖武は三人もいるからな」
「し、しかし」
「済まない。けど、俺は俺個人としてやらなきゃならないことがあるんだ。罪を癒しにいかなくちゃならない」
司祭は何か言いたそうな顔をしているが、やがて椅子に座り直した。
「分かった。では待つとしよう。オーバーソシャク/ダイナマイトエンゲ。サダ・パディドに幸あれ」
俺は礼をして部屋を出る。峰を連れて。
背中に淋しそうな声が聞こえた。
「死ぬんじゃないぞ」
俺は振り返らなかった。
部屋を出る。休む暇なく峰はどんどん歩いていく。俺は着いて行くしかない。
「おい峰、そんなに急がなくたって良いじゃないか」
「何をいってるの。移動陵亭ガネーシャははすぐに遠くに行ってしまうわ」
「分かった。じゃあ作戦を教えてくれ」
「手短に話すわ。まず、ガネーシャは食材の補給の為に『九十九里浜第三エリア』の市場に来るわ。そこで私達は生産者と嘘をついて接触する。そして、客に紛れてガネーシャに乗り込むの」
「オーケー。分かった。それで質問が二つある。まず一つ。私達ってのは、俺と君のことかい?」
「勿論。私も一緒にガネーシャに乗り込むわ」
「足手纏いにならなきゃ良いけど。それともう一つ、生産者と嘘をつくといったが、それは間違いだ」
「ん? どうして?」
「俺は養蛇家の息子だ」
俺の言葉で、峰は歩くのを止めた。
「蛇の気持ちも分からないくせに?」
「それでも、愛情だけはあるんだ」
「そうなのね。それが思い込みじゃなければ良いけど」
そしてまた歩き出す。
貴重なガソリンを使い、車を走らせる。一時間で目的の市場にやってきた。
人はそこそこ居る。しかし、いつもの程の喧騒がない。
「死餌怖が来るのが分かっているのでしょう」
「国家側に情報が漏れてるくらいだ。そりゃあ市場の人間は気がつくか」
「それは市場の人間の鋭さを褒めてるのか、国家を貶してるのか、どっち?」
「もちろん、その両方さ」
市場の中に入っていく。いつも程では無いにしても人は多い。
「で、ガネーシャの奴らはどこにいるんだ? まさかどこにいるか分からないなんて言わないよな」
「ええ、大丈夫よ。まず港に向かうわ。そこで怪しい人だかりを探す。奴等はそこで陵理を施した食材を振る舞うはずだわ。そこに私たちもついていって乗り込むの」
「それ、上手く行くのか?」
「まあ、今のままじゃ無理ね」
そして峰は車からガサゴソと何かを取り出した。
「カラーコンタクトとウィッグよ。はいつけて」
言われるがままにつける。俺の忌々しい緑の瞳はブラウンになり、峰の赤い髪は真っ黒になった。オマケにボサボサで、ここら辺に住んでいる奴らよりも貧相に見える。
そのまま、市場の離れで港の近くをうろつく。
「見て!」
「ガネーシャか?」
「違うわ。ほら、珍しい。鶏の肉よ」
カエルや蛇の肉の隣で透明なガラスケースに入れられたその鶏肉はまるでジュエリーのような扱いだ。価格は勿論、個人で買えるレベルではない。
もっとも俺たちのような聖職者の立場から見ると、食材に一種のカタルシスを求める行為自体に、不純さを感じる。
「ああ、反吐が出るほど美しいね」
「美贖武ってみんなそう? 陵理された食材は穢れている、もしくはそういう考え自体も許せないの?」
「少なくとも俺はそうだが、かつての仲間が全員そうだった訳じゃ無い。中には陵理された食材を救済の名の下に食べることが出来る『贖事(しょくじ)』に魅入られてしまったものもいる」
「へえ」
「皆死んだがね」
「どうして? まさか、貴方が殺したとか?」
「違うよ。みんな弱かったんだ。食材に対する信仰がなければ、神からの力は授けられない。簡単なことさ」
「ふーん。その強さには期待してるわ」
また歩き始める。峰は食材を見ながらその鮮度の話をよくしていた。俺は自分の信仰に触れない程度の話題だったので軽く返事をするだけだ。
そうしながら、俺は妙なことを考えていた。側から見ると俺たちはどう見えているのだろうか。カップル? それとも兄弟か。まさか、父と娘には見えないだろう。
そんなことを考えていると、峰も同じことを考えていたらしい。
「こうしていると本当にデートでもしているみたいだわ」
「ふん、くだらないね」
それは本当にくだらない。美贖武に恋愛は禁止されていない。しかし、命の危険が伴うこと仕事をしながら伴侶を持った奴等はみな不幸になった。本人だけじゃなく、家族ごと引っくるめて。
大体港側の市場を周り、最初に見た鶏肉の店に戻ってきた。
怪しい頭巾を被った老人がいた。
あの、宝石のような鶏肉を購入している。
「静かに、なるべく自然を装って」
「君の方こそ。そんな目で見てたら怪しまれる」
峰は俺の言葉で我に帰ったらしく、少しだけ頬を赤らめた。
「確かに貴方の言うとおりね。じゃあ、観察は任せるは。私はその、自然にしてるから」
「オーケー」
不自然にならないよう、隣の店の肉を眺めるふりをする。
「お客さん、冷やかしなら帰ってくれよ」
そんなことを言ってくる店員に一発かます。
「ちょっとサダ、自然にって言ったでしょ」
「すまん、おい、お前、冷やかしだけど静かにしておけ」
「へ、へい……」
そんなやり取りをしていると、鶏肉を買った奴が居なくなっている。
「クソ、どこに行きやがった」
あたりを見てみると、とても遠くにそれらしき人影がある。到底、ただの人間では一瞬であそこまで行けない。
「やはり、あれはガネーシャの人間ね」
「おっさんすまなかった。これで許してくれ」
一発入れたお返しに金を置いていく。きっと一月は贅沢をして暮らせるだろう。
「貴方、意外に優しいところもあるのね」
「この仕事じゃ金の使い道がないのさ」
急いで男を追う。
西陽が眩しくなってきた。港に着くと、ある一隻の船に人が集まっている。
「随分と派手にやってるね」
「まあ、そこで陵理が行われてなければ、貴方だってどうすることも出来ないんでしょ?」
「そうだな。確かに現時点ではコソコソする必要がない。逆に言えば俺たちも堂々と乗り込んで良いってことだ」
船に向かう。
入り口にはやけに柔和な表情の男が居た。
峰が俺に目配せをする。ここは任せたほうが良いみたいだ。
「すみません、ここでいい?」
「へへ、そうですぜ。お二人で」
「ええ」
柔和な男がジロジロとコチラを見てくる。
一通り見切ると口を開いた。
「へへ、どうぞ中へ」
俺たちは足を踏み入れた。
驚いた事に、船内には居酒屋的な雰囲気が漂っていた。それに、鼻をつく匂い。これは、〝醬?〟
「思ったよりやりたい放題ね」
峰が呟いた。
まさか、こんなに大胆に陵理が事なわれているとは思っても見なかった。
席に座るおっさん達は誰も他人に目もくれない。黙って座っている。
ざっと三十人ほどだ。
「ほとんど満席ね」
そう言われながら峰と二つ並びのせきに座った。
じっと待っていると、隣の親父がぼそりと呟いた。
「若造が」
目も見ずに。俺は頭に来てそいつの首根っこを掴む。
「ひ、ひぃ」
こいつは食材への感謝を忘れた人間だ。自らの快楽のために無数の味付けをして食材を食す。そんな罪悪を受け入れ、受け入れる事自体を受け入れている。とにかく弱者だった。快楽の権利があると思い込んでいる弱者だ。
峰は静かに様子を伺っている。賢い女だ。
船の奥から一人の老人がやって来る。髭を三つ編みにして、頭はピカピカのスキンヘッドだ。
「何やら騒がしいね」
髭のおっさんがコチラに歩いてくる。
俺は弱者から手を離した。情けない声を上げながら、元の席に戻ってまた下を向いてじっとしている。
「君たちね、こっちにいらっしゃいな」
背中にジロジロと視線を感じながら俺は髭おっさんについて行った
そこは船の操縦席で、目の前の窓からは、これから向かう海上移動陵亭ガネーシャが見える。
「おっさん、船は出さないのか?」
俺は苛立つ気持ちを抑えて聞いた。
「ちょいな、邪魔者がいてね、まあ、君たちの事なんだけどもね」
当然だが怪しまれている。
「さっきはごめんなさい。でも、悪気があった訳じゃないの」
峰がすかさず場を収めようとする。
「しかしね、まあ、悪気があるかないかの話ではないんだけれどもね。それに、問題は君ではなく、そっちの男なんだしね」
髭のおっさんが俺の方をチラリと見てくる。その目は、ただの船乗りという感じがしない。
「おっさん、話は長くなりそうか? このままじゃ家に帰るまでに蛇肉の鮮度が落ちちまう」
「ほほっ。威勢がいいんだけれでもね」
髭おっさんが何げなく椅子を引いた。座るつもりなのだろうが、俺は自然と身構えていた。
このおっさん、やはり只者じゃない。
「ほほっ、そう身構えなさんな。しかし、この閑散とした地上でこれほど威勢の良い奴はあまり見んからね、ワシも気分が良いね」
そんな話を聞きながらも、俺は警戒を解くことができない。峰も同じように警戒している。
「ほほっ」
いつの間に、その言葉を聞くと身体がビクッとするようになっている。
「しかし、安心しなさいな。わしは正真正銘の船乗り。別に危害は与えんよ」
「なるほど。じゃあさっさと船を出してくれ」
「しかし、船を出す出さないはわしが決めるんですがね」
「ああ分かった。御託はいいから。どうしたら船を出してくれるんだ」
内容によっては、実力行使もあり得る。
「これは、別にわし自身の為に言う訳ではないんだけどもね……」
髭おっさんが三つ編みを揉んでいる。どうやら、何かを話すべきか迷っているように見える。
「なんだよおっさん、何か言いたいことがあるなら言ってくれ。時間がないんだ」
「そうさね。しかし、ううん。少し待っておいて欲しいんだね」
そして、どこかに消えた。
数分で戻ってくる。手にはよく研がれた包丁と魚の肉だ。
俺はその様子を見て穢れを感じた。
「おいおっさん、もしかしてここて陵理をするつもりじゃないだろうな」
「ほほっ」
様子を見る。
髭のおっさんはその包丁で魚の肉を薄い板状に切った。それをドミノが倒れた後のように並べる。
それから、さっきからぷんぷんと船内に漂っていた〝醬〟の香りの元凶を小皿に入れた。
「ほほっ、わさびがあればなお良いんですがね」
「おっさん。喧嘩を売ってるのか」
「ほほっ。時に男よ。これは陵理と呼べるんでしょうかね」
「なに? 当然だろう。これは陵理されている」
そこまで口に出してみたものの、だんだんと自信がなくなっていく。これは素材そのままではないか。
「サダ、もしかしたらこれ、陵理とは言い切れないかもしれないわ」
それから、髭おっさんが口を開くまで何も言うことが出来なかった。
「ほほっ、答えは出たんですかね?」
一つの可能性としては、その小皿にある醬をつければ、それは陵理されたと呼べる。それだけは確実だった。
「そうですな。この醤油をつければ、所謂陵理済みの食材となるんでしょうがね、しかし」
その匂いが強い液体は醤油と言うらしい。髭のおっさんは醤油を瓶に戻していく。
「これは醤油がなくても食べられますからね」
そうなると、もう手立てはなかった。しかし、俺はそれを認めたくない事に気がついてしまう。
「いや、これは陵理だ。許されるはずがない。こんなに美しく盛り付けるなんて……」
「それじゃ!」
突然髭のおっさんは目を見開き声を荒げた。隣で峰は縮こまり、俺は肩を抱いていた。
「おっさん、どう言うことだ」
「そう。美しく盛り付けているだけなんですがね。しかし、この地上ではそれすら食材への侮辱と捉えられてしまう。いや、捉えることも可能な状況になってしまっているんですがね」
さっきの鬼気迫る表情は一瞬で成りを潜める。
「恐らくですがね、貴方は陵亭ガネーシャで今みたいな、貴方自身を否定するかもしれないような出来事に遭遇するはずなんですよね。それは、貴方を滅ぼすかもしれませんし、もしくは、貴方の救いになるかもしれんですね」
話を聞いていると、妙な汗をかいた。随分と冷えてる汗だ。俺は峰の身体の温かさに助けられていた。
「ですからですね、私が船を出さないのは、私自身の保身の為というよりはですね、貴方の為を思ってのことなんですがね。まあ、様子を見る限りですとね、船は出せんのですね」
髭のおっさんがそう言って机を片し始める。
俺は迷っていた。髭のおっさんをここで監禁して船を乗っ取ってしまってもいい。
しかし、何かが引っ掛かるような感じがした。脳の回路が焼き切れそうなほど、何かに迷っていた。
いつの間にか刺身を口にしていた。
「サダ、やるつもりなのね」
美贖武は、陵理された食材を贖事する事で、食材の穢れを祓うことが出来る。
しかし、それだけではない。
その時、陵理をした人間、死餌怖を葬り去る為の力を、食材の守護霊から分け与えられることが出来る。
それは食材に対する驚異的な信仰心によって成立する美贖武の戦い方なのである。
髭のおっさんが身構えている。
「ほほっ、やはり戦いは避けて通れないんですかね」
緊張感が張り詰める。
その空間を、俺の咀嚼音が掻き消した。
ガツンッ、ガツンッ。
次に、嚥下が船を揺らす。
ドドドド、ドカンッ。
「おっさん、良いチャンドラになったよ」
俺が戦闘体制に入らないのを確認すると、髭のおっさんも気を緩めた。
「ほほっ、一体どういった風の吹き回しなんでしょうかね」
「自分でもわからない。ただ、確かにあんたのいうとおり、これはただの素材だ。そうかもしれないと思っただけだ」
「ほほっ、そうなんですかね」
とりあえず、自分の中の何かが変わったような妙な感じを抱き、ぼうっとしてしまう。
隣で峰がコソコソと俺に耳打ちした。
「ねえ、サダ。無駄な争いはないに越したほうがいいけど、船はどうするの?」
するとその声が聞こえてかどうか分からないが、髭のおっさんが言う。
「それなら心配するんではないんですね。今から出しますからね」
操縦席がある方へ向かう。
去り際に一言、髭おっさんが言った。
「サダよ、貴方の幸運を祈っておりますので」
陵亭ガネーシャに着くまでの間、俺は刺身のことについて考えていた。
陵理をしたのかしていないのかのボーダーラインは一体どこなのだろう。
髭のおっさんはそのことを俺に考えさせた。それまではそんなことを考えたこともなかったのだ。
「なに? 難しい顔して。船酔い?」
隣の峰は俺のそんな悩みに気がついていない。
「まあ、そんな所だ」
実際、船はあり得ないほどの速度が出ていた。どうやら死餌怖の科学技術が使われているらしい。
死餌怖は陵理に対する探究心が異常な程強い。それが科学技術の向上に役立っているらしい。
そのことを思うと、とてもイライラした。もし、死餌怖達が食料にもっと愛をもち、分け合うことをすれば、地上にいる人々の多くはもっといい暮らしが出来るはずだからだ。
船の動きが遅くなる。
「着いたみたいよ」
峰が言う。ゾロゾロと人が船からガネーシャに乗り継いでいく。俺達も着いていく。最後に髭のおっさんに会いたかったが、それは叶わなかった。帰りに挨拶でもしよう。
ガネーシャは意外に狭かった。直ぐに戦いが始まってもおかしくない。
「明日のスリヤに間に合うかもな」
「あまり気を抜かないで。ここにいる死餌怖達は強敵よ」
峰は分かっていない。強敵ではない死餌怖は居ない。そして、気を抜けないような美贖武は直ぐに死ぬ。
「行こう。とっとと蹴りをつける」
ガネーシャの中は比較的自由に動き回れる。陵理が行われるのは決まった時間らしい。峰が言うには、ちょうど夕陽が沈む頃らしい。
取り敢えず中を回っているが、ものの二十分程で回り切れる。まあ、客用のエリアだけの話だが。
「ここは待つしかなさそうね」
「ああ。そもそも、陵理済みの食材がなきゃ、話にならないしな」
美贖武は食材を贖事で浄化することで守護を得て死餌怖と戦う。その為に、こちらが丸腰の状態でバレてしまえば、その時点で終わりだ。
ぶらぶらと歩いていると、人が集まっている場所があった。そこは小屋になっている。中に入ってみると、広い和室になっていた。怒号が聞こえる。どうやら、サイコロで賭け事をしているらしい。
それは本当に単純な賭けだった。出てくる数字を当てるだけ。
勝つと、お金が戻ってくるのではなく、景品が貰える様だ。
「くだらない遊びね」
「けど、退屈しのぎには丁度いいかもしれないな」
「なに、まさかやろうっていうの?」
「四に賭けるか」
人だかりの中、店員のじいちゃんに金を差し出す。
慣れた手つきで勘定を済ましている。
「そんなに出すの?」
峰は参加の費用の高さに驚いている。
「どうせ使う所なんてないんだ」
「そればっかり」
なんて、退屈な時にしか生まれない会話をしていると、会場が騒がしくなり始めた。
「始まるみたいだ」
騒がしさがどんどんでかくなり、ピークを迎えた。サイコロは小さな湯呑みで振られ、高く振り上げられた。そして畳にドンッ、と叩きつけられる。会場が静まり返る。湯呑みの中に隠れているサイコロの数字のことしか頭にない。
ゆっくりと湯呑み茶碗からサイコロが放たれた。
数字は四。
「あら、運がいいのね」
当たった奴らは部屋の奥へと通されていった。皆、ニヤけている。
「サダ、行くわよ」
「ああ」
部屋の中には十五人。それでも余裕がある空間だ。
それよりも気になったのは匂い。
明らかに陵理の痕跡を残している。
「サダ、気がついた?」
峰が小声で聞いてくる。
「ああ。これで気が付かない奴はいない」
何か、焦げた様な匂い。
そして、音が聞こえた。
ジュウゥ。ジュウゥ。
「峰、この音がなんなのか分かるか?」
「多分、〝揚げ物〟だと思うわ」
「アゲモノ?」
「ええ。高温に熱した油の海に味付けをした肉を入れるの」
「ほう。そうしたらどうなる?」
「ジューシーになるのよ」
「ジューシーってのは、なんだ?」
「今にわかるわ」
部屋の奥から男が出てくる。写真で見た男だ。髪の毛が逆立っている。
「アイツが死餌怖だな」
「ええ、通称〝灼熱のシャーク〟主に揚げ物、焼き物を得意としているわ」
彼は手に皿を持っている。その上には黄金色に輝く何かがある。
「あれは〝天ぷら〟ね」
頼んでいないが、峰が俺に説明をしている。
「テンプラ、食べ物と言うより、工業製品っぽ漢字の名前だな」
炙りのシャークが順番に天ぷらを配っていく。俺たちは最後だ。
貰っている側から皆口に入れる。こいつらには悪いが、陵理された食材を口にした時点で、そいつらの罪悪は確定した。
俺の前に天ぷらがやってきた。俺はそれを口に入れる。
戦いは一瞬で終わらせる。
天ぷらは蛇の肉が使われていた。俺が最も信仰している食材だ。なにせ俺は養蛇家の息子だからな。
オーバーソシャク。ダイナマイトエンゲ。
爆音が鳴り響く。そして、口の中で陵理で穢れた食材が浄化されるのを感じる。
この音が鳴り、周りの奴らはバタバタと逃げ出す。当然だ。美贖武がきたのは一目瞭然だからだ。
蛇の守護霊を背中に感じた。かつての養蛇施設突破作戦の時にもお世話になったのを思い出す。
俺はほとんど自動的に蛇拳を繰り出す。もちろん灼熱のシャークの首根っこが目的だ。
首を掴む。その筈だった。
ジュウゥ。ジュウゥ。
一体なんの音なのか気づかない。次に激痛。右手だ。
首を掴んだはずが、シャークに気づかれていて、奴の左手手で俺の右手手を掴まれていた。
しかし、それだけではない。
奴の指は、真っ赤に熱されている。そして俺の指は全て焦げ去った。あの手はきっと、死餌怖の科学技術だ。
俺が天ぷらを食べてから一瞬の出来事だ。
二人とも磁石が反発する様に跳ねて距離をとる。
「うぉおい。聞いてねえ聞いてねえよぉ」
シャークは取り乱し、つんざく悲鳴のように話している。返事は求めていない様だ。
俺は答える代わりに飛び込む。右手一つなくなったくらいで美贖武は止まらない。
シャークは取り乱しながらも、俺の動きを完璧に把握していた。
しかし、あの高音の左手さえ注意していればなんてことはない。単純な戦闘力なら俺の方が圧倒的に上だ。
が、顔の強烈な痛みが走る。
シャークの奴は熱々に熱した砂を俺に投げているらしい。
「ははははぁっ、熱々砂だぁ」
勝ち誇った様なシャークの声。随分と若造らしい。未来のある人を葬るのは、いささか悲しい気持ちになる。
「目が醒めたよ」
俺は兎にかく突き進んだ。もう、単純に蛇の加護の力だ。アイツに敗因があるとするのなら、蛇の肉を選んだことだろう。
「や、やめろぅ」
それが灼熱のシャークの遺言となった。
隠れていた峰が出てくる。
「殺したのね」
「罪に塗れて生きるよりマシさ」
「そう、そうよね」
部屋の中では慌てふためく他の客たちがいる。残念だが、罪に塗れて生きるよりマシな奴らだ。
俺は蛇拳を駆使し、全員を片付けた。
何事もなかったかのように部屋を出て、小屋から出る。もうすぐでチャンドラの時間だ。
一番の大広間に入ると、そこでは陵理の匂いがプンプンとしている。
小屋の方では騒ぎが始まっていた。もう時間がない。
「サダ、どうする?」
「もう突破するしかない」
そのまま陵理場に入っていく。そこでは三人の死餌怖が居た。出来立ての食いもんをとりあえず食べる。
うさぎの守護が現れ、三人を瞬殺した。
「サダ、こっちよ」
峰が俺を導く。陵理場の奥にすりガラスの仕切りがあり、その向こうに船内の奥に続く扉があった。
蹴りで吹き飛ばす。食材の加護を身に纏った俺には造作もない。
その通路に入ると、雰囲気が変わった。守護霊たちも怯えているように思える。
「サダ、きっとこの先に貴方の探す人がいるわ」
「ああ。分かるよ」
蒸し暑い。それでも進みまた扉にやってきた。
通路を透間に守護の力は弱まっていた。それは俺の信じる力が弱まってしまったのが原因なのかもしれない。
扉をこじ開ける。中には人が立っていた。
「やあ。何やら騒がしいと思っていたら、まさか貴方だったとは」
声の主は、サダ・パディウス。探していた弟だ。
「お、お前は。妹はどうした」
「ふふふ。何も知らない貴方。妹、ですか。妹は死にました。もちろん、美贖武に殺されてね」
パディウスは笑顔を崩さない。パディウスの横には一人老人が座っていた。
そして口を開く。
「ふう、まさか、奏石も来たとは。運命とは奇妙なものだ」
「父さん……」
峰が呟く。
「サダ。ごめんなさい」
それからまだ何かを言おうとしていた。しかし、奴らはその隙を与えなかった。
パディウスが氷の槍を突き出し、峰を突き刺す。かろうじて足を飛ばされただけで済んだ。
咄嗟に峰を抱え部屋から立ち去る。
階段を駆け上がり陵理場まで戻ることになった。
「サダ、ごめんなさい。そうよね、相手は死餌怖。油断するべきじゃなかったんだわ」
「それは俺も一緒だ」
「それに、私が死絵怖の子供だと黙っていてごめんなさい」
「いい。けどなぜ?」
「私は子供の頃からこのガネーシャで暮らしてきた。だけど、貴方の妹、通称〝ジェラード・グレイプ〟が殺された時に私は保護されたの。そして、この世界の真実を知った。それ以来、私は父をこの手で殺すことに決めたの。それで貴方を見つけた。かつての養蛇施設突破作戦の話を聞いたの」
「俺がそんなに有名だとはな」
無理をして笑って見せる。
「ねえ、サダ。地下にいるあの人ををどうにかして殺して欲しいの」
「ああ。でも、無理かもしれない」
「大丈夫。一つ方法があるわ」
「弱点でもあるのか? だったら先に言ってくれ!」
「違う。私が陵理をするの」
「なっ」
けど、それは妙案だった。しかし、そうなると、俺は峰を殺すことになる。
「もちろん、命は捨てるつもりよ」
「し、しかし……」
「ねえ、案外楽しかったわ。ここで待ってて」
俺は、峰に陵理を辞めさせたかった。しかし、それしか可能性がないのも分かっていた。
「ねえサダ、陵理してるところは見て欲しくないから、ここにいてね」
そして、すりガラスの向こうに峰が消えた。
俺はなるべく見ないように後を向いていた。
もし、俺を騙してみねがどこかに行ってしまっても、それはそれでいいと思っていた。むしろそうしてくれと願っていた。
しかし、叶わなかった。
無言ですりガラスの向こうからお皿を渡される。
「それを食べて行って、私はここで待ってる。さっきみたいに足手纏いになりたくないから。逃げないわよ。そんな場所もないし」
「ああ。俺は美贖武だ。死餌怖は逃がさない」
その声が震えていない自信はなかった。峰の料理した食材は刺身だった。たっぷりと醤油がかけてある。
よし、これならちゃんと陵理されていると言える。
ガツンッ、ガツンッ、ゴクン。
船が揺れる。しかし、加護は訪れない。
「ねえ、サダ、頼むわ」
「ああ。任せろ」
嘘ではなかった。加護なんか関係ない。俺はまた奥に向かった。
さっきと同じように二人がいた。しかし、今回はノータイムで氷の槍が飛んでくる。
気合いで弾く。焦げた右手は弾け飛び跡形もなくなった。が良い、もとより使い物にならなかったんだ。軽くなったと思えばいい。
「ふふふ、哀れなサダ・パディド。どうしてそこまでして貴方は私を殺そうとする?」
「死餌怖は殺す。食材は大切にしろ」
「やっぱり、そうプログラミングされていることに気がついてないんですね。やっぱり哀れなサダ・パディド」
「プログラミングだと?」
氷の槍が飛んでくる。次は左手だ。当然のように吹き飛ぶ。次はもうない。
「これから死ぬ人間にこんなこと言ってもしょうがないんですけど、一応、言っておきましょう。どんな顔をするのか見てみたいんでう」
冷たい汗が流れる。なんだ。一体何を言われるんだ。
「サダ・パディド。貴方は地下帝国の技術で作られた人造人間なのですよ。私のクローンです」
その直後、パディウスの首が跳んだ。それが俺の足技で行われたことに気づくのに時間が掛かった。
そして加護の力を感じる。
なぜ、今?
驚愕していると、うっすらと守護霊の姿が見え始めた。
それは、明らかに人の姿をしている。いつの間にか馴染み深く感じていたあの姿。
峰 奏石。
「峰、なぜ君が?」
「嘘ばかりついてごめんなさい。さっきの刺身は私の刺身なの」
つまり、完全に息絶えたから、守護霊となって俺の元にやって来れたのか。
「サダが思っている通りだと思うわ。私、やっぱり死んだみたい。でも、こうなることは分かっていたの。私の名前の由来、教えてあげる。みね そうしゃく。かつての侍は峰打ちなんて言って、命を奪らない程度の打撃があったんだけどね、えっと、つまり、峰咀嚼。スネークイートなの。蛇の食べ方。つまり私はここガネーシャで蛇と呼ばれていたの。ねえ、父さん」
黙り込んでいた老人が笑った。
「懐かしい話だ。お前が生まれた日は蛇肉の生産量が豚肉を超えた記念日だったんだ」
「そうか、ところで、俺はお前の娘さんからお前を殺すように頼まれてる。どうだ。殺されてくれるか?」
「はっはっは。もちろん。しかし、サダ、と言ったか。君には私を殺せない」
その言葉を聞いた後、全力を出して蹴りを撃つ。
確かに当たる距離だったが、当たらない。いや、違う。透けている。
「ああ。サダよ。ワシはもうこの世界に飽き飽きしておる。しかし、死ねないのだ。地下帝国の技術によって死ねない身体にされている」
透けているが、確かにそこにいる。
「サダよ、君はクローンだ」
「ああ、さっき聞いたよ。けど、関係ないさ。俺には食材への信仰がある。人造人間とかクローンとか、そんなのは関係ないのさ」
「違うのだよ。そうじゃない。君はそういうふうにプログラムされているんだ。地下帝国の人間によって。力を持ちすぎた死餌怖を根絶することを目的としてだ」
「ど、どういうことだ?
「君の信じる、オーバソシャク・ダイナマイトエンゲは地下帝国の思惑だということだ」
にわかに信じられない。この信仰心が作られたものだと?
じゃあ、俺が今までしてきたことは一体何だったのか?
両腕も失い、峰も失い、兄弟だと思っていた人は居なかった。
その場に倒れ込む。
信仰が消え、峰が居なくなった。
「そう、そうだ。思い返してみろ。なぜ、お前は食材への信仰を失わなかった。他の美贖武は陵理の魅力に取り憑かれてしまっていた。お前はなぜ、大丈夫だった? 考えろ。考えろ。そういう風に造られているからだ」
意識がぼんやりとする。
遠くで声が聞こえる。
「大丈夫よ。サダ。大丈夫」
「いや、俺が俺だと思っていたものは、全て作られたものだった。初めから俺は存在していなかったんだ」
「違うわ。サダ。貴方は刺身を食べた時、何を思ったの?」
「いや、どうだったかな」
「ちゃんと思い出してね。ごめん、私は本当にもう消えてしまうみたいだから。願っているわ。貴方の幸福を。さようなら」
そこで意識が戻る。
「な、何!」
峰の父が驚いている。
「どうした。そんなに俺が目を覚ますのがおかしいか?」
「ふん、それがどうした、クローン人間ごときが」
「そうだな。けど、俺は迷えるんだ。その食材が一体陵理されているのか、違うのか。迷うことが出来るんだ。そして、選択できる」
俺は地面を這って蛇のように進んだ。そして落ちている〝自分の右手〟を食べた。
「な、なにをしようとしている!」
俺は、俺の右手を陵理済みの食材と思うことにした。
ガツンッ、ガツン。ゴクン。
今までで一番小さな音だった。それくらい身体を消耗していた。
「うぉぉぉぉぉぉぉ!」
俺は祈る。そして、俺の右腕がまた生えてきた。
「何だそれは!」
「この腕ならお前を殴れそうだ!」
これは、俺が俺の意思を持っている証。蛇のように這って、峰の親父をぶん殴る。
「あ、あぁぁぁぁ」
そして、消えた。
俺の右腕も消える。
眠くなってきた。良い。これで良い。
峰の声が聞こえた気がした。とても心地がいい。
「とても良い音だったわ。貴方の——オーバーソシャク、ダイナマイトエンゲ」
完
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