わたしの男

「ねえ」
 高い女の声がした。鈴の鳴るような、か弱い女の声だ。恐れとも怒りともとれる微かな震えを孕んでいた。
 女は平凡な顔に見えた。街ですれ違ったらきっとすぐ忘れてしまうような、これといった特徴のない顔立ちであった。色白できれいな肌をしていた。肩まで伸びた黒髪は無造作に切りっぱなしで、青色のシャツからのぞく、細く白い腕には薄らと血管が浮き出て見えた。
「そのひと、わたしの男よ」
 女は歌うように言葉を発し、わたしの隣に立つ男を指さした。細く長い指には銀色の指輪が鈍く光り、薬指には大きすぎるのか彼女はそれを人差し指にはめていた。
「ちがうわ。彼はわたしの男よ」
 わたしは隣に立つ男を見つめた。そうでしょう?と同意を求めたが、彼は石像のようにぴくりとも動かなかった。握った手は冷たくて、手汗のぬめりとした感触は冷蔵庫の魚を思い出させた。
 目の前の女は深く悲しそうな顔をしていた。自分を憐れむ顔ではなく、男を可哀想に想っているのだとわかった。
「おうちの庭に、狸が出たのよ」女はぽつりと話し始めた。「汚い狸だったわ。くすんだ灰色の、毛並みの乱れてガリガリに痩せた獣よ」
 わたしは想像してみた。植物のよく茂り整った綺麗な庭に、酷くやつれた狸がいる。狸は悲しそうな目をして、餌を求めて人間を見上げる。
「犬みたいな声で鳴くのよ、わたしをじっと見つめて、近寄ってくるの」
 尻尾は毛が抜け落ちてまばらだ。骨の浮き出た胴体は、小さく震えている。わたしは想像の中の狸が今にも喋り出しそうだと思った。きっと狸は男の声をしている。きっと嘘つきの、可哀想な男の声をしている。次いでわたしは冷蔵庫の魚が目を見開いて死んでいるのを想像した。空腹の狸が冷蔵庫の魚をまるごと食べてしまうだろうと思った。
「それで…」わたしは思わず口に出した。「それで、可哀想な狸をどうしたの?」
 彼女はわたしの言葉を聞くと、ふわりと微笑んだ。少し照れくさそうに見えた。まるで時が止まったかのようにわたしは彼女の姿を捉えた。その時わたしの世界にはわたしと彼女だけだった。隣にいる男の感触はもはや感じなかった。笑ったときの、彼女の頬の形がすごく綺麗だと思った。彼女からほんのり炒めた玉ねぎの匂いがして、今日の夜ごはんはカレーにしようかなぁと一人で考えて、わたしはそんなどうでもいい考えが過るのがなんだか面白くて笑えてしまった。
 男はくすくすと笑い合うわたしたちを眉をひそめて見ていた。可哀想な顔で、可哀想な目で、わたしたちをじっと見ていた。

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