ふいに

 ふいに、という言葉がある。意味としては急に、突然に、といった具合で、脈略のない思いつきなどに使われる。わたしは毎日同じ時間に起きて、同じ時間にコーヒーを淹れパンを焼き、同じ時間の電車に乗るが、同じことの繰り返しの中である日ふいに恋をした。
 彼女はふいにわたしの前に現れた。毎日ほとんど変わらない景色の中で、彼女の長い睫毛と栗色の瞳は似つかわしくなくてまるでアヒルの群れの中に一羽だけ白鳥が紛れているように目立った。全体的な顔立ちはもしかしたら平凡だったのかもしれないが、目元は完璧と言ってよかった。この世の全ての男が彼女の瞳に吸い寄せられてしまうだろうと言い切れるほど、彼女の目は卓抜としていた。ほんのひと握りだけど、一つ突出した魅力を持ち、それだけで全てを手に入れるような、そういう人間がいる。
 彼女からはいつも、ほのかに香水の匂いがした。デパートの一階で3万円で売られているような、高級な香水の匂いがした。それでいて靴は安っぽくて、ヒールは低く、ブランド物の鞄は角が擦り切れていた。わたしは彼女のアンバランスさに惹かれた。
 わたしは彼女がふいにわたしを見て、微笑んではくれないかと期待した。彼女の目元がきゅっと細くなり、瞳に映ったわたしを捕らえてくれるんじゃないかと思った。「わたしの目を見てくださる?」そう言われたような気持ちになったが、彼女はいつも同じ座席で本を読む。それだけだった。
 ある日、いつもの電車の窓をふいに強い雨が打ちつけ始めた。雨雲に包まれ空は暗くなり、周りの景色は何も見えなくなった。ぼつぼつ、ぼつぼつと響くその音はまるで巨人が大きな手でノックしているようで、乗客は何かがいるのではないかと不安に駆られ身を縮め、わたしは窓の外をのぞいた。大きな黒い目が、雨雲の隙間から見えた。
「何かいるぞ。巨人が、わたしたちを見ている」
「そんなわけがあるか」
「ああ、怖いよう」
 乗客は着ていた上着を被って身を伏せた。巨人がもしかしたら大きな手を伸ばして、わたしたちを食ってしまうと思ったのだ。わたしは彼女が怯えていないかと確認したが、彼女はいつも通りの席でじっと外を見つめていた。
「おい、危ないから隠れなさい」
 彼女は大きな栗色の目をわたしに向けた。あまりにも大きな目に引き寄せられ、それは鏡のようにわたしを映した。時が止まったように思えた一瞬のあと、彼女はふいに目を細めて微笑み、「大丈夫よ」と答えた。
「大丈夫なのよ。わたしはずっと、あなたに見つめて欲しかっただけなのだから」
 そういう言うと彼女はおもむろに電車の窓を開けて、まるで毎日こうしているかのような顔をして外に飛び出した。わたしは彼女を掴もうとしたが間に合わず、彼女は擦り切れたブランド物の鞄を置いて消えてしまった。
 彼女が消えてからしばらくして、雨は止んでしまった。空も晴れていき、雲間から顔を出したのは巨人ではなく太陽だった。
「ただのにわか雨だったようだね」
「ああ、驚いた」
 わたしは乗客の安心したような会話を聞きながら、彼女とはもう二度と会えないだろうと予想した。にわか雨はふいに土砂降りになってもすぐ止むような一過性の雨で、彼女もそういうものなのだ。ほんのひと握りだけど、そういう人間がいる。

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