日記③
20220105
金井美恵子の『兎』を読んだときの感覚は今まで読んだどんな小説とも違っていた。自分の腹が切り裂かれ内臓を素手で引き摺り出されるような気持ちになって、幼少期のトラウマが眠っていたはずの場所から無理やり掘り起こされた。言葉にするのは本当に難しいのだけど、とにかく『兎』はそういう物語だった。わたしは『兎』の父親を知っている!わたしは可哀想な兎だ!恐ろしい父親に殺されてしまった惨めで無力な兎なのだ!妄言みたいだけどそんな気持ちが不思議と湧いて、心臓が苦しいくらいに早く脈打った。(以下自分語り、省略)
20220128
ああ、アナスタシア内親王殿下
アナスタシア内親王殿下
アナスタシア内親王殿下……
20220424
三島由紀夫の『美しい星』『金閣寺』を読んだ。軽井沢の別荘にいるとずっと本が読めて良い具合。不眠が治る気がする。静かだからかな。
『美しい星』が個人的にずっと刺さっていて、あの一家に起こったことがまさしく身に覚えのあることだから、と言いたいわけではないのだけど…近しい感情を人類に抱くことって誰しもあるような気がする。例えばわたしが宇宙人であれば全ての事象に説明が付くな、と思うような日がある。愚かなる人類を支配してやりたい日も、孤独感を抱え込む日も、自分と似た存在に何か繋がりを感じる日も。人と違うという感覚を持て余すのは、『金閣寺』の主人公にも通じる。
一家が救いを円盤に求めたように、吃りの坊主が救いを金閣寺に求めたように、わたしは何かをずっと待っている。終わらせたいような、終わってほしくないような、不思議な期待をずっと胸に抱いている。
20221014
川上未映子の『乳と卵』、これはとんでもない小説だ…。恐ろしいものを読んでしまった、と思った。鉢植えをひっくり返したところに無数のダンゴムシが潜んでいたときとか、芋虫を踏んづけてしまったときとかに似た感覚。この作品は女性性に対する恐怖・憐憫・憎悪・嘲りすべてを含んでいる。女性の…とくにこの年齢の女性のおぞましい部分を描けるのは、女流作家だけだろうなという気がする。例えば夢野久作や谷崎潤一郎あたりは少女崇拝の気配があり、村上春樹は若く美しく聡明でやや尻軽(こう言っちゃダメかも)な女を描く傾向がある。彼らは女という生き物のリアルを描くというより、自分の心の中に住む女体を描いている。わたしたちが何を思い何を隠して生きているのか、知っているのは女性だけなのだという気がする。知っている、というよりは知り得るのは。
小川洋子や吉澤嘉代子の描く女性像がわたしはすごく好きで、それはきっとどこまでも美しく清潔で純真だからだろうと思う。綺麗なものが好きだけど、リアルを求めた時に出会うのは川上未映子が今作で描いたような女性像なのだろうな、と…。
20221101
三島由紀夫の『新恋愛講座』『若きサムライのために』どちらも良かった。このひとのエッセイを息を吸うように読みたい、読みながら死んじゃいたい。
『新恋愛講座』の第一講、「われわれが一つ恋愛すると、その恋愛の中に全人類の歴史、全人類の文化が反映しているのです。」この一文が既に良い。そして三島は恋愛をギリシア的恋愛・キリスト教的恋愛・日本的恋愛に大別していく。ここらへんを深く考えて恋愛したことがなかったので、なるほどそういうふうにしてわたしは彼・彼女が好きだったり彼・彼女はわたしが好きだったりするわけね、と頷いた。そもそも1980年代ごろに書かれた文章なので現代とはそぐわない点が多いのだけど、それを抜きにしてもわたしはこの人の文章や考え方が好き。『終わりの美学』の章も面白かった。『童貞の終わり』の「男にとっては生へぶつかってゆくのは、死にぶつかってゆくのと同じことだ。」これはかなり素敵だ。旅芝居の役者よりずっと素敵だろう。正直なところ、素敵だと思う心はあれど、女体にも当てはまる話なのかわからないしピンときたわけではないのだけれど。「女を知って死ぬ、素敵だと思います。女体より」ははは。
『若きサムライのために』の精神講話では、『文弱の徒について』の章が好き。「文学はよいものであればあるほど人間は救われないということを丹念にしつこく教えてくれるのである。」「一番おそろしい崖っぷちへ連れていってくれて、そこで置き去りにしてくれるのがよい文学である。」そして、よい文学に触れた人間の末路。「彼らは隠花植物の一種になったのである。」どきり……。
ところで、「このひとの文章が好き」ということはかなりのラブコールだよなと思った。そんなことはない?
20221111
梶山季之の『せどり男爵数奇譚』、なぜだか刺さったのだけどそれはあれかな、「一冊の本のために人を殺す者もいる」かしら。それともおぞましいものに対する漠然とした憧れ?異様なまでの執着心に魅せられただけ?
喫茶店やら街中華やらを好むくせに、古本に対する興味は正直あんまりない。金銭的な理由でAmazonでよく中古本を買うけれど、状態選択は【非常に良い】【良い】の2択。【可】は買わない。そもそも【可】って誰が承諾して何が可なのか教えてくれって感じがする。「まあ、見られないこともないから可かな」「臭いけど読む分には問題ない。可ですね」なのか、「かなり良い状態なんだけど謙遜して可くらいにしておこう」なのか、よく分からない。よく分からないものは、怖い。
神保町の古本通りに行ったとき、「これが真の古本屋か」と思った。自分の最寄駅にあるややおしゃれな古本屋は、どちらかというとセレクトショップに近かった。【真の古本屋】を前にして思ったことはただ一つで、「なんか思ったより小汚いな」だった。そんな感想しか出ないなら読書なんてやめちまえ、である。自分は勝手にハリーポッターのダイアゴン横丁みたいなものを想像していて、なんだか素敵なものが陳列されていて素敵な出会いがあるんじゃないかとかを期待していた。実際にあったのはよく分からないボロボロの本と、老人。あとファッション古本好きみたいな人間。(わたしもそういう気配がある。毒を吐くのはやめよう)
自分の潔癖症については十分理解しているつもりで、まあそれが原因で古本はそんなに得意じゃない。もしかしたらページの端っこに鼻の脂がついていたり、陰茎でページを捲る変人がいるかもしれない。この本がどんな酷い仕打ちをされてきたか分かったものじゃない。そんなことを想像して、ゲーッて気持ちになってしまう。自分の家も素足で歩けない人間が古本に手を出すのはお門違いなのだ。
……という偏見を大きく変えてくれたのが『せどり男爵数奇譚』だった。前置きが長い。とにかくせどり男爵が丁寧に解説してくれるので、古本に対する知識がつき、ある種の偏見が払拭された。本という存在の儚さ、歴史的な価値、そして【せどり】という魅力的な存在!ああ、わたしの知らない世界、なんて不思議な生き物。そもそも本の収集というものはかなり不安定なのだった、作中で何度か火事の描写がある通り。初版やら姦淫聖書やら、とにかく本というのは価値に様々なベクトルがあって面白い。そして人皮装丁…生きたまま剥がれていく皮膚、溢れる血、これぞ姦淫。どきどきするような悍ましい光景や執着心が人間を残酷に狂わせる様子に終始息が止まる気持ちだった。
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