空っぽの彼氏

「わたしの彼氏、空っぽなの」
 キコちゃんはアイスティーのグラスを揺らしながらそう言った。中身の少なくなったアイスティーはすっかり薄まった色をしていて、溶けかかった氷がからからと音を立てた。キコちゃんの口ぶりからして、良い意味も悪い意味も含まれていない、淡々とした感想のように思えた。
「空っぽって?」
「いっつも誰かと行動していて、ひとりだと何にもできないの。空っぽなひとって、ひとりじゃ何にも決められないのよ」
 キコちゃんの彼氏は同じクラスの男の子で、わたしも何度か話したことがある。一番人気者ってわけじゃないけれど、誰にでも明るくて優しいからみんな彼に好意的だった。当たり障りのない、という言葉が似合う男で、キコちゃんとはどうも似つかわしくなくて、キコちゃんと彼が付き合ったときわたしはなんだか不思議だった。
「きっとトイレも一人じゃできないわ。男の子と一緒に入って、狭い個室でぎゅうぎゅうになりながらお互い見つめ合って順番に用を足すのよ。それが安心するの」
 キコちゃんの薬指には、彼氏にもらった指輪が光っていた。みんなが持っているブランドの、一番人気のデザインだった。キコちゃんには似合わないと思った。
「どうして…」わたしは口を開いたが、聞いてはいけないと思い直して途中でやめた。仲良しの友達に、こんなことを聞いてはいけない。
 キコちゃんはちらりとわたしを見て、にっこり笑った。コーラルピンクのリップが可愛くて、長いまつげに縁取られた大きな栗色の目が面白そうに細くなるのを見ながら、わたしはどきっとした。
「どうして一緒にいるのって言いたいんでしょう」キコちゃんは何でもお見通しだ。キコちゃんはクラスで一番頭が良くて、同い年と思えないくらい落ち着いている。わたしの考えていることなんてすぐ分かるんだろうと思った。
「うん…」
「空っぽなのは悪いことじゃないのよ。わたしは彼の空っぽなところが好きなの」
「でも、キコちゃんはつまらないって思わない?」
 キコちゃんはわたしの言葉に少しだけ思考を巡らせた。
「つまらないかぁ…それもそうかもしれないんだけれど」そこで一旦言葉を止めて、キコちゃんはわたしを見つめた。「空っぽな男の子がわたしを求めるとき、ふしぎな高揚感があるのよ」
 わたしはなんだか嫌な気持ちになった。キコちゃんはすごく優しくて、色んなことを知っている。本をたくさん読むし、映画や音楽を深く愛していて、勉強だってきちんとする。こんなに中身のあるキコちゃんが、空っぽの男の子に抱かれているのって、すごく無駄な気がしたのだ。
「彼には何にもないのよ。大切なものも、将来の夢も、誰にも言えない秘密も。そこがとっても魅力的なの」
 わたしは想像した。キコちゃんの彼氏がつまらない友人の話や今日の体育の話をする。キコちゃんはその話を面白そうに聞く。キコちゃんの彼氏はふいにキスをする。キコちゃんは愛おしそうに目を細めて、彼を抱きしめる…。
「彼はほんとうのキコちゃんが好きなわけじゃないわ」思わず口に出した。どうしても嫌な想像が頭から離れず、それがわたしを衝動的に動かした。「空っぽの男の子は、ひとの中身まで愛せないのよ。キコちゃんのこと全部分かるはずがないの」
 わたしがいつもより強い言葉を発したので、キコちゃんは一瞬固まって、びっくりしたように目をぱちぱちさせた。
「わたしはキコちゃんのことが好きよ。キコちゃんの全部が好き」
 キコちゃんの瞳が好きだった。思慮深くて優しくて愛おしい、綺麗な栗色の目が大好きだった。わたしはキコちゃんにみたいになりたくて、たくさん本を読んだ。キコちゃんに憧れたわたしよりもずっと平凡な男を愛したことが、どうしても理解できなかった。
 キコちゃんとは卒業後、会うことはなかった。噂ではキコちゃんは遠くの大学に行ったらしい。今でもきっとキコちゃんは誰か空っぽの男を愛して、つまらない話を聞きながら笑い、優しい顔をして抱きしめている。空っぽの男はキコちゃんを全て分かった気でいて、我が物顔で抱くのだ。わたしは時々キコちゃんのことを思い出して、切ない気持ちになる。「どうしてわたしじゃだめだったの」なんてひとり思ってしまうけど、「そういうのってすごく平凡でつまらないことよ」って、キコちゃんなら言うのかもしれない。

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