喫茶店にて
蓮水さんに出会ったのは蝉の声が降り注ぐ昼下がり、街角の小さな喫茶店だった。高松市の平均気温は今年が最高らしく、みんな日中は外出を控えていて街は例年よりも静かだった。わたしは大学卒業を半年残した頃で、学生最後の夏休みを向日葵の舌状花を摘まんでいくみたいにぽつぽつと消化していた。海色のステンドグラス、橙色の照明、澄んだグリーンのクリームソーダ、小さく光るルビーの指輪。乱雑に消費される日常の中で、その日だけは宝石箱をひっくり返したみたいに美しい色に満ちていて、すべてが繊細に整っていた。とびきり綺麗だった黒色は黒曜石の輝きをもってわたしを捉え、薄雲のような煙が宙にもつれる中わたしは初めて誰かを美しいと思った。
*
少し重い扉を押し開けると、涼しげな鈴の音がした。カウンター席のみのオールド・ファッションな喫茶店には冷房設備もなく、ラジオから甲子園の実況が流れていた。乳白色のカウンターの向こうに窓があり、様々な青色のステンドグラスがはめられていた。夏の日差しが差し込んでそれは海のようにきらきら輝く。夏の見本みたいな暑さとサウンドに包まれた中で、外界と切り離された空間のように喫茶店の中には不思議な涼しさと静寂があった。森の奥にひっそりと存在する川辺や人気のない洞窟……そういったある種神聖な涼気が漂っている。橙色の照明に照らされた店内には奥の席に女性がいるのと、カウンターを挟んで店主がいるのみだった。
「いらっしゃいませ」と店主の明るい声が響いて、奥にいる女性がちらりとこちらに目をやる。わたしは店主の手の導きに従い、椅子をひとつ隔てて女性の隣の席に着いた。
「メニューはそこへ掛けてあるよ。書いてないけどクリームソーダも」
店主は品の良い初老の女性だった。糊のきいた白いシャツに身を包み、黒色のスラックスは細身で、彼女のすらりと伸びた脚を際立たせている。顔はまさに溌剌とし、施された化粧のすべてが意味を持ってミニマムに収まっていた。目じりに寄った皺ですら彼女の人生の道程を示すようで、嫌味なく彼女に寄り添う。
「クリームソーダ……」
「ずっとコーヒーだけを出していたんだけど。最近若い子が来てくれるようになったから作ってみたんだ」
本当はアイスコーヒーが飲みたかったけど、店主のいたずらっぽく笑うのを見たら興味がわいた。もう何年も飲んでいない、甘い匂いのする炭酸水を思い浮かべる。
「じゃあ、クリームソーダを」
「はい。ちょっと待っててね」
店主が店の奥へ消えていく足音と、甲子園の実況が混じる。
「小川洋子?」
クリームソーダを待ちながら本を読んでいると、すぐそばから声がした。隣に座っていた女性だった。なめらかな白い肌に黒曜石の瞳。絵画を縁取るがごとく完璧な配置で生える長い睫毛、涙ぼくろが衛兵のように右目に寄り添う。
「へ……」
わたしは突然話しかけられた驚きで間の抜けた声を出した。女性がちらりと目を上げる。瞳の黒色がわたしを捉えて、たんぽぽが揺れるみたいにふわりと笑った。
「今読んでる本。小川洋子の『密やかな結晶』でしょう」
白くて細長い指がするりと伸びてきて、読みかけの小説に触れた。わたしはなんだかどぎまぎして、「ああ」とか「えっと」とか意味のない言葉を漂わす。
「わたしも好き。彼女の作品の中でもとびきりね」
「わたしもこれは特別だと思います……純粋な消失って感じがして」
少し緊張して、声がうわずる。わたしの言葉に女性は興味深そうに片眉をあげて見せた。
「純粋な消失?」
「小川洋子の作品に共通するテーマに、消失があると思うんです……。この作品が一番、消失の過程を大切にしている気がして」
「なるほどね。消失の過程ね」
女性は微笑んだまま、わたしをただじっと見つめていた。穏やかな沈黙に秘められた意味がある気がして、点検する気持ちで彼女を見る。黒色の瞳の中で星が弾けるみたいに、照明のオレンジがちらついた。
「わたし、蓮水。蓮に水って書くの」
ふと彼女が口を開いた。真っ直ぐこちらを見つめる瞳はどこまでも澄んで、微塵の濁りも見えない。
「蓮水……きれいな名前。わたし、夕です。夕方の夕」
はすみ、と舌で転がすように発音すると不思議な高揚感があった。わたしの声が白く美しい耳に吸い込まれたのち、蓮水さんはうれしそうに笑った。「あなたの名前もきれい。情景が浮かぶ名前って素敵だな」
水面に蓮の花が揺らめく様子と、夕焼けがそれらを照らすさまを思い描く。名前をほめられたのがくすぐったくて話をずらした。
「蓮水さんは、ここにはよく来るんですか?」
「ううん、初めて。喫茶店が好きなの」
そう言いながら鞄の中からマッチを取り出す。「これ、集めるの趣味なんだ。ここではもらえなかったけど」
「煙草も吸うんですか?」
「うん」
意外だった。いままで周りに煙草を吸うひとがいなかったからか、女のひとは煙草を吸わないものだと勝手に思い込んでいたみたいだ。
「まあ、ときどきね。最近は特に喫煙者の肩身が狭いから」
蓮水さんは困ったように笑った。「ここで吸っても気にしない?」
「えっ……はい。ここ喫煙可ですし、自由に吸ってもらっていいのに」
「いちおう。煙草の匂い、嫌いなひともいるから」
煙草をくわえると、慣れたようにマッチで火をつける。一連の動作がなんだかきれいでわたしは見入ってしまった。何年も繰り返されたであろうこの儀式は誰も邪魔することができない、神秘的なものに見えた。
蓮水さんが吐き出す煙がくゆり、わたしはなぜだか幼い頃に見た映画の、不良少女が煙草を吸うシーンを思い出した。黒色のセーラー服の少女が教室の隅に座り込んでいる。真っ白の腕には痣があって、うさぎのように赤い目に涙がにじみ、華奢で幼い顔つきに不釣り合いの煙草をくわえて言うのだ、『わたしたちだけの秘密よ』と。わたしは少女の秘密のつづきを見ている気持ちだった。
*
蓮水さんは不思議な経歴をもっていた。大学院で合成ダイヤモンドの研究をしたのち、高校教師を経て現在は東京の博物館に勤めているらしい。高松には友達に会いにきたそうで、明後日には東京に帰るのだという。
「どうして博物館で働こうと思ったんですか?」
クリームソーダの、緑色の炭酸水とアイスクリームが溶けあう様を見つめながら聞いた。
「物を集めるのが好きだからかな。一番落ち着ける場所だと思ったの」
蓮水さんはマッチを指さしながら言った。「これだけじゃなくて、指輪とか、川で拾った綺麗な小石とか、お菓子の空き缶とか。ありふれていても、高価でも、気に入ったものを集めて眺めるのが好き」
蓮水さんの小指にはルビーの指輪がはめられていた。小さく光る赤色の鉱物は、照明に当てられてきらきらと控えめに輝く。その様はまるで彼女の興味を惹き選ばれたことを誇っているようだった。ルビーの製造過程は知っている、酸化アルミニウムでできたコランダムという鉱物に、不純物を混ぜ合わせるのだ。クロムを混ぜるとルビーに、チタンを混ぜるとサファイアになる。混ぜものによってまるっきり姿を変える鉱物が、わたしは好きだった。不純物を含んでいると思えないほど純粋に彼らは輝き、静かに息をひそめている。
「収集はずっと続けているんですか」
「何年か前に『沈黙博物館』を読んでからかな……夕ちゃんは読んだ?」
「はい。死んだ人の形見だけを展示する博物館の話ですよね」
「物にはすべて創造主がいて、それぞれ物語があって、そして死んでいく……そういうのが綺麗だと思ったの。誰かが作った物を集めるとき、小説みたいに物語が連なっていく気がして」
沈黙博物館を思い浮かべる。静寂が支配する唯一無二の場所。わたしが死んだら何が残るだろう。大切にしているぬいぐるみか、チェコガラスのボタンか、寄木細工のオルゴールか……蓮水さんがわたしの遺物を集めてくれたらいいなと、ふと思った。この美しい手でわたしの生きた証を保管してくれたら、きっと素敵だろう。
「人生を変えてしまうくらいの作品ってあるのよね。内容が優れていようとなかろうと、ほんの少しの要素が大きな影響を及ぼすことってある」
蓮水さんは少しさみしそうに笑うひとだった。黒色の瞳がふわりと揺れるからか、右目に寄り添う涙ぼくろのせいか、彼女の笑顔には不思議な儚さがあった。
「夕ちゃんは影響を受けた作品ってあるの」
「わたしは……『ひかりの素足』かな」
「宮沢賢治?」
「そうです。一水四見、唯心論……そういうものに気付かせてくれたので」
『ひかりの素足』で、「赤い瑪瑙の棘ででき暗い火の舌を吐く地面」は本当は「波一つ立たない真っ青な湖水の面」である。恐ろしい世界で子どもたちは傷だらけになるけれど、物事の見方で世界はまるっきり変わる。
「自分の世界は自分で救えるんだなって、思ったんです」
蓮水さんはただわたしを見つめていた。何かを考えているとき、彼女は少し目を細める。
蓮水さんはその後、煙草をもう一本吸ったのち「もう行かなきゃ」と店を出た。わたしは口直しに頼んだアイスコーヒーを飲みながら、ひとり残された喫茶店で彼女のことを考えていた。涙ぼくろに守られた黒曜石の瞳、誇らしげなルビーの指輪、大切に集められたマッチ箱。遠い土地に住む彼女とはもう会えないだろう。街角の喫茶店で偶然出会い、白煙をくゆらせながら小説の話をした、それだけの時間がわたしの中で確かに根を張っていた。「ほんの少しの要素が大きな影響を及ぼすことってある」彼女の言葉はわたしに溶け込んで、鉱物が生成されるときのようにゆっくりと時間をかけて何かを創りだそうとしているようだった。海色のステンドグラスは少し弱くなった陽の光を反射し、右隣に置かれたままのガラス製の灰皿を照らす。横になり眠り続ける煙草からは、苦い煙が香のように微かに漂いつづけていた。
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