温室で育つ

 優子ちゃんがその言葉を発したとき、あまりに自然でなんでもないような口調だから「天気がいいね」とか「冬もそろそろ終わるね」とか言ったのだと一瞬本気で思い込んだ。脳内で優子ちゃんの声を復唱し終わる前に、わたしはびっくりして顔を上げた。ノートに書いていた数式は途中で途切れて、行き場のなくなったペン先がページの空白を掠める。
「優子ちゃん、いまなんて」
 視線を上げた先にいたのはいつもと変わらない、長い黒髪に栗色の瞳をした女の子だった。透き通るような白い肌が制服の青色のシャツからのぞく。優子ちゃんはわたしをじっと見つめて、少しだけ目を細めた。口角は上げずに優子ちゃんが笑うときの癖だった。
「わたし、あなたのことが好き」
 歌うような口調だった。好き、という言葉がふわりと宙を浮いている。窓際の席のわたしと優子ちゃんの間には夕陽が差し込んで、綿ぼこりがちらちらと光をうけて揺らめいた。
 すぐには言葉が出なかった。コピー機に紙が詰まってしまったように、言葉が喉から先に進まない。優子ちゃんがわたしを好きというのが、どうしてか全然腑に落ちなかった。「好き」という言葉は優子ちゃんの振る舞いにそぐわない感じがしたし、人形遊びの台詞か詩集の朗読みたいに思えた。
「好き……好きって、ほんとうに?」
「ほんと」
 優子ちゃんは普段からあんまり多くを語らない。賢い人ほど無口になると言うけれど、たしかに優子ちゃんは自分の中で常に答えを見つけているように見えた。そのくせ、唐突にびっくりするようなことを口に出す。普段から喉奥にたくさんの言葉をしまいこんでるみたいだ。
「わたし、わからないわ。優子ちゃんがどんな気持ちでそう言ってるのか……」
 わたしの反応を見て遊んでいるような気がした。優子ちゃんが嘘を言ったり、人を馬鹿にするような人じゃないことは知ってる。それなのにわたしの頭は優子ちゃんが本心を語っているようにはどうも思えなかった。
「ひとを好きになったことは?」
 優子ちゃんは混乱するわたしを差し置いて、面白そうに微笑んでいた。静かに椅子をひいて、立ち上がるとこちらに近づく。スカートから優子ちゃんの白くてなめらかな脚が伸びて、革靴と床が擦れる音がする。ばかみたいに固まったままのわたしに近づいて、すぐ隣で止まった。
「ない、けど……」
「そう?誰かを独占したいとか、犯したいと思ったことは?」
 優子ちゃんが声を落とす。髪の毛のすぐそばに優子ちゃんの唇が寄せられているのを感じる。秘密話をするような声色にどきどきして、顔を上げられない。わたしはいま試されているんだ、と思った。体中が熱を持ち始めるのを感じる。
「そんなふうに思ったこと、ない」
 わたしは上擦りそうになる声を抑えながら、ずっと下を向いていた。自分のスカートのプリーツを何度も視線でなぞる。そうしないと優子ちゃんに思考を読まれてしまうような気がして、必死に気を逸らしていた。優子ちゃんはわたしの気持ちにずっと気づいていたんだ。わたしが夢の中で優子ちゃんにしてしまった酷いことも、もしかしたらお見通しなのかもしれない。
「わたしね、好きって暴力的な感情だと思うの」
 優子ちゃんの白い手がわたしの手に重なる。するりと細い指先が絡められて、その感触にびくりと身体を震わせると優子ちゃんが「こっち向いて」と耳打ちする。
 わたしは怯えるうさぎみたいに小さく震えて、優子ちゃんの瞳を覗き込んでいた。栗色の大きな鏡に映り込んだわたしは今にも泣き出しそうに見えた。優子ちゃんは桃色のくちびるをきゅっと上げて、満足そうに微笑んでいた。
「殺したいほどの憎悪にも似ている、情動こそが恋じゃないかって思う」
 憎悪という言葉が砂糖菓子みたいに甘く聞こえるのは、優子ちゃんがそれを恋に例えたからだろうか。それとも、優子ちゃんの声が溶けてしまいそうなくらい優しいからだろうか。
 わたしはずっと優子ちゃんが好きだった。夢の中で何度も優子ちゃんを犯した。自分が男の子だったら良かったのにと悔しくて、自分のか弱くて柔らかな身体を憎んだ。
「せんせいが」わたしはどうにか声を絞り出した。顔が熱くて、まともに優子ちゃんの目を見ていられない。「先生が言っていたの、恋って春の雨のようだって。ひとを傷つけるものは恋ではないわ」
「本当にそう思う?誰かを独り占めしたいと思う感情ほど醜いものはないのに?」
「違う、わたし、そんなこと……」
 優子ちゃんを汚したくなくて、わたしは優子ちゃんへの気持ちを隠した。明確に言葉にしてしまうと、彼女への感情が安っぽく名称づけられてしまって、彼女を普遍的な人間に貶めてしまうような気がした。優子ちゃんの手を振りほどこうとすると、かえって強い力で握られてぐいっと引かれる。バランスを崩したわたしは抵抗もできず倒れ込み、優子ちゃんに抱き寄せられた。優子ちゃんの首元からは金木犀のような甘い花の匂いがして、悪いことをしている気分になって心臓が早鐘を打った。優子ちゃんの手がわたしの背中を伝って、優しく後頭部に添う。
「恋はね、性欲みたいに分かりやすいものじゃなくて、もっと奥にあるものよ」
 耳元で優子ちゃんが喋ると、脳に直接響くように甘い声が駆け巡った。細い指が髪の毛を梳くと電流が走るみたいに首筋がぞくぞくした。
「もっと奥……?」
「そう。セックスでおさまるものじゃない。優しくしたい、守ってあげたいとかそんな親切な気持ちだけでもない。もっとおぞましくて生々しい感情よ」
「優子ちゃんは……」優子ちゃんに触れられた場所が熱を帯びて、頭が回らなくなってくる。「優子ちゃんは、そういうふうにわたしを見てるの」
「見てるよ、ずっと」
 優子ちゃんの声が思いのほかやさしくて、ふいに泣きそうになった。
「でも、優子ちゃんはいつも掴みどころがなくて、そんな素振り一度も……」
「あなたに酷いことをしてやりたいって思ってしまうのも、汚い感情が腹の底をずっと這いずるのも、気づかれたくなかった」
 でも、と優子ちゃんは少し笑いながら続けた。「あなたが熱っぽい目でわたしを見ているのに気づいてから、馬鹿らしくなった。だってもう我慢しなくてもいいんでしょう」
「でも、わたし、男の子じゃないから……」
「そんなのって大した問題じゃないと思うけれど」
 優子ちゃんはすべてわかっているようにわたしの頭を撫でた。わたしは赤ん坊のように身を任せて、感情が溢れるままに泣いた。いままで奥底にしまいこんでいた気持ちが堰を切ったように流れ出て、留める方法もわからない。
「わたし、酷い夢をみたの。優子ちゃんのことを汚してしまったの」
「うん」
「恋って全然綺麗じゃないのね……」
 優子ちゃんはただわたしを抱きしめるだけだった。わたしはこのまま優子ちゃんと溶け合ってひとつになれたらいいのにな、と思った。冷たい外気から切り離されて、暖房のきいた教室でふたりきりのわたしたちは温室で静かに育つ植物みたいだった。

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